2-4

 ――わたしの、もの?


 状況次第では熱烈なプロポーズにも取れる発言だが、そういう意味じゃないことくらい彼にだって分かる。


 ぎぎぎ、と音が出そうなぎこちなさで顔を上げると、こちらも途方に暮れたような顔をした女と目が合った。

 小さな唇をへの字に歪め、彼女は溜息とともに目を閉じる。


「王族のキスが解呪なら、魔女のキスは隷属の証。……わたしには心臓がないわ。体温もなければ、汗も涙も流せないの。血の代わりに毒が体を巡っていて……その毒が、口づけによってあなたに入り込んだ。だから、たとえばこの『首輪』――」


 女は遠慮気味な視線をレグルスに寄越すと、おもむろに片腕を伸ばした。

 白い指先がレグルスの鎖骨を掠め、彼の首に巻き付いた糸のようなものを掬い上げる。


「……無理に切ったら心臓止まるわよ」


 囁く女の声が、ひどく遠かった。


 呆然と首元に触れたレグルスの手は、女の指が引っかけていた「糸」、もとい首輪に行き当たる。視線を落とせば銀色の鎖が煌めいて、ささやかな主張を返した。

 これまで違和感も覚えなかったほど軽く細いその鎖は、女物の装飾品にも似た風情だが、もちろんレグルスにそんなものを身に着ける趣味はない。


 目に見えて顔色を失くしたレグルスを不憫に思ったのか、女は再びしゃがみ込んで、彼の手を握った。白くて冷たくて相変わらず死人みたいな両手だが、心配になるくらい小さくて、包み込む手のひらは労わるように柔らかい。


「でもね、安心して。わたし、ひどいことは絶対しないわ。首輪だって、勝手にわたしから離れなければ害はないし……こんなことになっちゃうなんて思わなかったけど。でも、もう、どうしようもないのよ。解き方なんて、わたしも知らないの」

「知らないの、って……じゃあ、一生ここにいろってのか?」


 それなら塔にいた時と何も変わらないではないか、とレグルスは目を覆った。

 せいぜい運動不足の心配がなくなっただけで本質的には大差ないどころか、余計厄介なものに捕まってしまったのは間違いない。

 やりようによってはいくらでもごまかせる人間の目と違って、魔術とやらはたった一度の口付けさえも見逃さない、融通の利かないものらしかった。


 先程までの暢気な空気から一転、気まずい沈黙が降りる。と、魔女が慌てて言った。


「あ、で、でもね! わたしの力じゃ無理だけど、何とかならないわけでもないのよ!」

「……たとえば?」

「さっきも言ったとおり、王族のキスには魔法を解く力があるわ」


 それはレグルスも考えなかったわけではないが、侵入者を拒む魔女の森から魔女の許可無しには離れられない以上、そんな日を待つのは絶望的な気がする。


「ああ……えっと、それ以外には……?」


 やんわりと却下し別の手段を問えば、一向に浮上する気配のない空気と同じく、どんよりと浮かない顔で女は答えた。


「それ以外……なら、わたしの名前を当てる、とか」

「名前?」

「魔女の真名を知れば、隷属の誓いは無効になるわ。名前はね、魔法使いの弱点なのよ。わたしみたいに、大昔に名付け親が亡くなっているとかで……『自由』な魔女は特に、名を握った最初の一人に逆らえないの」


 レグルスは目を丸くして、彼女を見つめた。

 自ら馬鹿正直に弱点を告白する魔女なんて聞いたことがない。適当なことを言って惑わせているのでなければ、とんだお人よしだ。


 驚き半分、呆れ半分のレグルスに、女はぼそぼそと続ける。


「もちろんわたし、あなたのことよく知らないから……教えるつもりは、ないけど。これも嫌なら、残りの方法なんて呪詛返しくらいよ。魔法、使えないでしょ?」

「……そりゃそうだけど」


 どうしたものだろう。レグルスは宙を仰ぎ、息を吐いた。


 うまく城から逃げたはいいが、今度は魔女に捕まった。

 しかし当の魔女自身も、この状況を持て余している風である。

 それに、そもそもの元凶は、軽はずみに鼠にキスしたレグルスであると言えなくもなかった。……それとて、彼にしてみれば理不尽な話ではあったが。


 出来の悪い冗談みたいだな、と虚ろな笑いが漏れる。

 どうしたもこうしたも、もう逃げられない状況になってしまっているのだから、本当はとっくに選択の余地などないのだ。

 となれば、レグルスの取るべき行動など、自棄気味の覚悟を固めるより他ない。


 元から呪われたような顔をしていたじゃないか。今更新しく呪われたくらい、何だというのだ、云々。持ちうる限りの自虐を総動員して、無理やり自分に言い聞かせる。


 ――と、その時。


 ごっ。


「……? なあ、何か変な音し……はあ!?」


 突然の異音に視線を戻し、レグルスは絶句した。


 さっきまでおろおろしているばかりだった魔女が、頭から地面に埋没しかかっている。


 かと思えば、がばりと顔を上げて、


「ごめんなさい!」


「はっ? えっ? えっ、急に何……いや頭! 頭すげえ音したぞ今!」

「だいじょうぶ! わたし、丈夫なだけが取り柄なの! 頭割れても死なないし!」

「いやそれ大丈夫じゃねえから割るな恐ろしい! そんな捨て身の土下座しなくていい!」

「で、でも王子さま、まだ怒って……」

「特に怒ってねえし、怒ってたとしても俺の機嫌より自分の頭蓋骨を気遣えよ! ああもう、とりあえず起きろ! 起きて座れ! あとその土塗れの顔どうにかしろ!」


 我ながら注文が多いと思ったレグルスだったが、魔女は勢いに押されたのか文句ひとつ言わず、唖然としつつも顔の土を払って、おずおずとその場に正座した。


 怒鳴っている間に肚は決まった。がしがし頭を掻くと、特大級の溜息を一つ。

 睨むような視線を魔女の双眸に据えて、後は口を開くのみだ。


「いいか、まずその『王子さま』っての、やめろ。レグルスでいい。お前は?」

「へ?」

「偽名でも愛称でも何でもいいから。呼び名くらいあるだろ?」


 魔女は少しの間逡巡して、ぼそりと言った。


「……アクイレギア。今のあなたたちが、帝国を滅ぼした魔女を、そう呼ぶなら」


 好きじゃないけど、と続く声は、拗ねたような調子だ。ローブの内ポケットに片手を突っ込み、珍妙な形をした青紫の花を掴みだすと、彼女は唇を尖らせる。


「これも、アクイレギア。食べちゃだめよ。わたしと同じで毒草だから。覚えておいて」


 それだけ告げると、自分の顔型で抉れた地面に、花を放り入れた。

 一瞬、「アクイレギア」の名に驚いて、レグルスは息を詰めた。けれど、緩く首を振って迷いを振り払う。逃げたいと思って逃げられるわけでもないのだ。諦めるのは嫌いだが、不利な現状を認めないことには、前にだって進めない。


 さて、魔女の正体が伝説の大悪党だと分かり、却って捨て鉢な気分に拍車をかけたレグルスである。が、何だかんだ言っても十八年間王子だったのだ。本人が「好きじゃない」ものを呼び名として使うことに、気が引けるだけの良心はある。


 どうしたものかと考えていると、魔女はレグルスの顔色をうかがうように上目で覗き込み、小声で更に続けた。


「リン、でもいいわ。……あなたが嫌じゃなければ」

「……ああ、うん。その方が。じゃあ、リン」


 頷き、彼女に手を差し出す。

 不安げに首を傾げる「リン」を真っ直ぐ見下ろして、レグルスは苦笑した。


「よろしく。……長い付き合いになるんだろ?」

「……!」


 言われた彼女は目を瞠る。


 溶けるように笑った顔は、誰かに似ていたけれど、不思議と不快に感じなかった。

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