2-3

◆◆◆


 鈍い頭痛と共に、目が覚めた。


「……う」


 本日二度目の覚醒に既視感を覚えつつ、レグルスは呻き声を上げる。目蓋の外に感じる太陽は存外明るく、慣れるまでもう少し目を閉じていた方がよさそうだ。


 ひんやりとした風が木々を揺らし、優しく耳触りの良い音を立てていた。

 小川の流れる気配に、喉の渇きを思い出す。

 そう言えば、今朝は食事どころか顔すら洗っていなかった。


 頭の下にある枕は高さも柔らかさも申し分ないけれど、妙に布地がごわごわとしていて、ついでに何というか……埃臭い。黴臭い。青臭い。おまけに薬品臭い。最悪だ。


 異臭に耐えかね眉を寄せたレグルスの顔に、突然影が差した。

 薄く目を開くと、どうやらカーテンが日差しを遮っているらしい。頬に触れてくすぐったいそれを退かそうと手を伸ばしたところで、少女の声が降ってきた。


「起きたの? よかった、びっくりして死んじゃったのかと思ったわ」


 どことなく喜色をにじませた声の主は、安堵の息を吐いてカーテンを引く。

 ……否、カーテンではない。女が髪をかき上げたのだ。


 ハッと目を見開いたレグルスの視界に、ぼやけた銀色が広がった。

 光の中で徐々に輪郭を取り戻した白っぽい塊は、最前にこやかに彼を突き落としたあの女に違いない。


「! お前よくも」


 飛び起きたレグルスに驚いて、女が短い悲鳴を上げる。


 しかし彼がそのまま立ち上がることは叶わなかった。

 意識を取り戻したばかりの体は自由が利かず、起こした上体がぐらりと揺れる。

 目に鮮やかな木々の緑が、眩んだ視界を跳ね回る。気分が悪い。


 そのまま土の上に倒れそうになったレグルスを、女が慌てて抱きとめた。

 不本意ながら、その支えがなければ起きてすらいられないらしい。


 野暮ったいローブは鼻をつく異臭に満ちていたのに、女の髪から微かに香ったのは控え目な花の匂いだった。


「だめよ。もう少し、じっとしてなきゃ」


 人を殺そうとしておいて何を言うか。

 レグルスの非難めいた視線に気づき、女は眉を垂れた。


「ごめんなさい。まさかそんなに耐性がないとは思ってなかったの」

「……何のだよ」

「魔法よ。眷属ならこのくらいの移動、大した負担じゃないはずなんだけど……こんなに長く気絶してるなんて。古すぎて転移陣が綻びてたのかしら」


 この期に及んで未だ魔法がどうのとぶつぶつ言いながら、女の手がレグルスの髪を優しく撫でる。

 彼としては放せと言いたいところだが、無理に動けば今度こそ倒れるか吐くかのどちらかだろう。結局のところ、されるがままになるよりほかない。


 さて、信じられないことにこの女、悪気も害意も全くないまま彼を谷底へ押し出したらしい。

 塔を出たいと言ったのは確かにレグルスだったが、普通あんな場所から落ちれば死ぬに違いないし、そんなこと少し考えれば分かるはずだというのに。


 大体どうしてレグルスは生きているのだろう。

 生きているような気がしているだけで、実は既に死んでいるのだろうか。

 それにしては、四肢を押さえつける脱力感は嫌というほど現実味を帯びていて、正常な五感や体温だって保っているように思える。

 レグルスの頬に触れている女の首筋の方が、よほど死人じみて冷たいくらいだ。


 これだけ密着しているのに彼女からは拍動らしいものも感じられず、喋るとき僅かに空気のようなものが吐き出されるだけで、呼吸をしている様子もない。これが生きた人間だと言われるよりは、死体が動いていると言われた方が余程納得できる。


 ――本当に城を脱出してしまったのだ。おそらくは、この死人のような女の「魔法」で。


 彼女が自身を魔女だと言ったことを、遅まきながらじわじわ実感し始め、レグルスは無意識に息を潜めていた。


(本物かよ。冗談だろ。どこだよ、ここ)


 恐る恐る目を上げて周りを見渡すが、見知った光景は何一つない。

 花と言えば大陸中どこを探しても白ばかり、そんな時代に生まれ育ったレグルスにとって、色とりどりの花が咲き乱れる森は異様なものと映っていた。


 アクイレギアの死後起こった戦乱に続き、魔女の再来を恐れた人々による徹底的な「浄化」が行われた結果、帝国の言語を始めとした多くのものが姿を消してきた。

 色鮮やかな草花もそんな中の一つ。そのはずなのに。


 再び混乱に陥りかけたレグルスを現実に引き戻したのは、この場で最も現実離れした死人女……もとい魔女の声だった。


「王子さま? まだ、具合わるい?」

「……え。あ、ああ、いや……」


 まだ多少ふらつくものの、動けないというほどではないだろう。ひとまず諸々の疑念は脇に置き、素直に首を振ってみせれば、女はふわりと微笑み立ち上がる。


「よかった。夜になると獣が出て、危ないの。行きましょう。こっちよ」


 迷いなく行き先を指さす女は、どうやらこの森の地理にも明るいようだ。少なくとも遭難する心配はないらしい、と安堵の息を吐いて、レグルスは顔を上げた。


「……ああ。早いとこ森出ないとな。お前にはいろいろ、ほんといろいろ言いたいことはあるんだけど……まあいいや。とりあえず、ここ、どの辺りだ? 近くに村は?」

「えっ?」

「えっ?」


 何だ、その反応。

 女の口から出た素っ頓狂な声を、そっくりそのまま返したレグルスに、彼女は大きな目をぱちくりとさせる。


「えっ。……えっ? ちょ、ちょっと待って、あなた、森から出る気?」

「はあ? 何言ってんだよ、そりゃ出るよ。獣出て危ないって言ったのお前だろ」

「そ、そうだけど。……あの、でもね、人から逃げるならこの森が一番安心なのよ。わたしが認めたひと以外、入ってこられないから、ほら、たぶん連れ戻される心配も……」


 妙にしどろもどろな女の様子を不審に思いつつ、レグルスは眉を寄せた。


「いや……今更連れ戻そうなんて奴いないって。あんなとこから落ちといて、死んでない方がびっくりだしさ。大体これ以上俺の世話なんかしたって、何も見返りが……」

「そ、そんなの気にしないで! 気にしないでいいの、むしろ……その」

「むしろ?」


 濁した言葉尻をしっかり掴まれて、う、と呻くような音が女の喉から漏れる。

 ややあって、女は肩を落とすと、観念したらしく溜息を吐いた。


「むしろ、困るのよ。あなたが嫌でも、実はもう、一緒に来てもらうしかないから」


 どういう意味かと視線を送れば、女は気まずそうに目を泳がせ、あのね、と切り出す。


「まず、魔術にとって一番大切なのは名と血なの。これはそういうものとして理解してね。それから多くの意味を持つのが、キスよ。昨日あなたが――血によって証明された『王子さま』が、わたしにキスしたことで、わたしの魔法は解けたわ。覚えてる?」


 魔法の存在を認めてしまった以上、彼女が昨夜の鼠であることは、もう疑いようもなかった。

 そう言えばそんなこともあったかと頷き、ちらと盗み見た魔女の唇は、躊躇うように薄く開いては閉じを繰り返して、ようやくか細い声を発する。


「それでね。あなたがわたしにキスをした、ってことは、わたしもあなたにキスしたってことでしょ。……そのせいで、あなた、わたしのものになっちゃったの」

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