3-2
「……あ! あーそうそう、リンさん教えて頂きたいことが! ほら、さっきの!」
花の名前なんて既にどうでもよくなっていたレグルスだったが、気まずさから逃れたい一心でリンに図鑑を差し出し、開いたままにしていたページを慌てて指さした。
レグルスの引きつった笑顔に対し、リンの表情は相変わらず不機嫌そのものだ。
「……。まあ、いいけど」
じとりと恨めしげな視線をレグルスに投げ、リンはページの上に目を走らせる。
彼がホッとしたのもつかの間、目に戸惑いの色を浮かべた彼女は、怪訝そうに首を傾げた。
「薔薇よ。変ね、まだ森の外でも生き残ってたと思うけど……見たことなかった?」
「……え? すげえ赤だぞこれ」
レグルスの驚嘆を受け取って、リンは漸く合点がいったという風に頷いた。
「そっか、色のついた薔薇は初めてよね。この辺のなら、温室に何種類か実物があるわ。興味あれば、今度見せてあげる。色もね、赤と白だけじゃないのよ」
聞けば、ずしりと重いこの本は、図鑑というより園芸辞典のようなものらしい。
帝国時代にもてはやされた様々な植物、特に人気のあった薔薇を多く扱っているそうで、その力の入れようは驚くべきものだった。
現にレグルスが別種の花だと判断したほとんどが、品種の違う「薔薇」だというから恐れ入る。
文字の上を指でなぞりながら、簡単に説明を加えていたリンが、ふと懐かしむように目を細めた。
「この先は、皇帝家ゆかりの薔薇ね。薔薇の品種改良が盛んだったのは、新しい皇帝が立ったときのお祝いに、珍しい薔薇が好まれていたからなの」
「へえ。王様ごとに新しいやつ作ってたのか」
「そうよ。個人に贈られるものだから、使いまわすわけにはいかないでしょ。大抵はそのときの皇帝をイメージしたものだったわね。たとえば、髪の色とか、瞳の色とか……」
「髪の色ねえ……」
だとしたら、リンに贈られたのはきっと、小振りな白か大輪の薄青だろう。
レグルスは一人で勝手にそう結論付け、リンの目線に合わせて頬杖をついた。
「ま、お前のだったら、この辺の赤とか黄色より想像しやすいな」
「あら。青い薔薇は、ないわよ」
きっぱりとした口調で言うと、リンは少し眉を垂れて見せる。
「……わたし、薔薇なんて、もらったこともないし」
「そうなのか? だってお前、『祝いに贈られるものだ』って」
「あ、そうだわ。レグルスって、こういう本、好きなの? 他にも見たい?」
聞いちゃいない。
マイペースにも程がある、とレグルスは溜息をついた。
まあ、今に始まったことではないのだけれど。
故郷の話となるといつも、自分のことを聞かれた時とは打って変わってリンの口調に熱が入るのだ。「滅ぼした」と言う割には、失った国を想う彼女の気持ちは強く、望郷の眼差しは遠く温かなものに満ち溢れている。
どうもイメージ違うんだよなあと内心首をひねりながら、レグルスは答えた。
「いや。ありがたいんだけど、俺それ読めないからさ」
「読めない? どうして?」
びっくりしたように目を瞬かせ、リンは首を傾けた。
とぼけた仕草につられて、レグルスの表情も緩む。
そりゃあな、と言葉を継ぎながら、端の茶色くなった羊皮紙を指でこつこつと叩き、レグルスは目を上げた。
「昔の言葉だろ? 帝国時代の本なんて大体燃やされて、残ってないんだ。残ってたとしても禁書扱いだからな。触らせたくなかったんじゃないか。特に俺には」
「……なんか、ごめんね?」
レグルスの城での不遇が、美貌の魔女アクイレギアの煽りを受けたものだということは、ある意味当事者であるリンも知るところだ。
不意に芽生えた罪悪感からか、居心地悪そうに身じろぎした彼女を見て、レグルスは苦笑した。
「気にすんなって。お前に直接何かされたわけじゃないんだから。それより、俺も試してみようかな。さっきお前が食ってたやつ。飯、まだだし」
「へ? 食べてなかったっけ?」
目を丸くしたリンに、レグルスは肩を竦めてみせる。
「気が付いたらお前が俺の分まで食ってたんだろうが」
「えっ! うそ、ごめんなさい!」
事実、レグルスが雑用に追われている間にすっかり皿は空になっており、リンが喉に詰まらせたあのパンが卓に出された最後の一枚だったのだ。
申し訳なさそうに口を噤んで、リンはもじもじと下を向いている。
普通の人間なら顔を赤らめていたところだろうが、彼女の場合青白いままなのが何とも言えず奇妙な感じだ。
「いいよ別に。ついでだし、何か飲むか?」
「……ほんと?」
途端に、リンはパッと目を輝かせ、大きく頷いた。
彼女の思考回路は基本的には食い気に最も忠実で、こんな時でもそれは変わらないらしい。
リンの家に間借りするようになってからというもの、家事全般はレグルスの仕事だ。頼まれたわけではなかったが、彼は何をするにもリンより器用だったし、リンはリンで彼女にしかできない「仕事」がある。
こんな辺鄙な場所に住んでいて、普通より余程恵まれた食生活が送れるのも、彼女の仕事あっての話だ。
乾燥させたカモミールは戸棚の隅だったろうか。
記憶を辿りながら、レグルスはすっかり手慣れた様子で鍋を火にかけ、パンを切り始める。付け合せに出したマッシュポテトはリンが平らげてしまったが、ピクルスは残りがあったはずだ。
ベーコンの代わりにハムでも少し切ろうかと顔を上げたレグルスは、ふと思い直して別の物に目を留めた。
「卵と……チーズ乗せて挟むか」
それを聞き、椅子についていたリンが飛び上がるように立ち上がる。
「! チーズ! いいなあ、それもおいしそう……」
「……ってちょっと待て、まだ食う気かよお前!」
大体そのくらい自分でやれ、と言いたいところだったが、すんでのところでレグルスはその言葉を飲み込んだ。
リンを台所に立たせることがいかに危険かは、身をもって知っている。
子犬のようにレグルスに纏わりついて食べ物を求めるリンが、簡易式のパン焼き釜をいじくりまわし、最終的に何故か暖炉もろとも爆破してしまったことは記憶に新しい。
何をすればそんなことになるのかと頭を抱えたレグルスに、リンは「簡単な火力の調節機能を模索していて」だの「火薬が多分まずかった」だのと言い訳を試みたが、最後には自分の敗北を認め、しょんぼりと項垂れていた。
幸い他の場所には影響も少なく、二人の拙い修理で暖炉が不恰好になった以外の実害は今のところ被っていない。
知的領域では超人的な力を発揮するリンだが、気になったことは何でも試してみたがるという子供のような悪癖が、このところレグルスの頭痛の種になっていた。
賢い馬鹿というのは、ただの馬鹿よりよほど面倒なのだ。たぶん。
はあ、と息を吐いて、レグルスは振り向いた。
「……卵は?」
「目玉焼きがいいわ!」
やはりどうあっても食べるつもりでいるらしい。
自分は朝からパン一枚食べてもないのに、既に胸やけしたような気持ちになって、レグルスは再び溜息をついた。
尋ねた手前、やっぱりやめたと言えないのがどうにもやるせない。
卵を掴み出すついでに、レグルスは残りの食材を確認する。
保存の利くものは大体揃っていたが、野菜やイモ類の数が少々心もとないか。
「リン、食ったら働けよ」
視線を投げると、リンは慌てて姿勢を正し、神妙に頷いたのだった。
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