第11話


教室が次第に騒がしくなっても、音が聞こえないくらいに明日美は放心していた。


だから、急にぽんっと置かれた肩に、椅子から転げ落ちそうなくらい驚いた。

だがそれは単なる表現で、実際には潰したバネが戻るように勢いよく立ち上がり、椅子を後ろに吹き飛ばした程度だった。


「……あー、びっくりさせちゃった?」

それでも相手を驚かせるのには十分で、目を丸くした佐野と茜がいた。

二人には怪我はなく、椅子をいそいそと明日美のところまで持ってきてくれた。


「朝から飛ばしてるねぇ!」

茜がいう意味がテンションだけの話ではないことが、明日美にも分かって少々恥ずかしくなった。


「――て、あすみん、髪切ってる!」

「本当だ」

二人は明日美の奇行に、やっとちゃんと明日美を視界に入れることができたのか、その変化に驚いた。

そして「可愛い!」「似合うね」と口々にいう二人の言葉で、髪を切ったことに今更思い出した。

てっきり一日中、気にすると覚悟していたことがまさか早朝で忘れるとは。

それにあんなに気にしていた髪の話題にも、少し照れくさくなったくらいで留まれた。

それもこれも、きっと先ほどの出来事のせいだ。いや、そのおかげとも言うべきか。

――でも何故そんなことになったのかわからず、余計に悩まされているから、まだ感謝はできそうにない。


全くの謎だ。


偶然ってどう言う時に使う言葉だったのかすら、最近ではわからない。

頭を占めるは先ほどの出来事に、様々な憶測を立ててはそわそわとした。

――明日美は意を決して、二人に尋ねてみることにした。



「あの――――」



まずは、彼は一体どういう人なのかを。


茜と佐野は明日美からの意外な話題に、髪を切ったこと以上に驚いていた。


「へぇ〜!あすみん、珍しいね」

アイドルの速着替えのように、驚きの表情から、楽しそうに、にやにやと笑う表情に変わる茜。

しかし、明日美は茜のその表情をみると、良からぬ誤解を生みそうで、黄色い声どころか、ブルーしか出せそうにないと、僅かな憂鬱が心を揺らした。


茜はさっそく教えてくれた。

こういう時の茜はすごい。とにかくどこから集めてきたんだろうと、首を傾げたくなるほどの情報力なのだ。

話によるとこうだった。

彼はちょっとした有名人みたいだった。運動神経は抜群で頭脳明晰。そして容姿端麗。まさに三拍子揃った超人なのだという。

人気があるのは知っていたが、そこまでとは知らなかった。

あの体格から運動神経が良さそうなのはわかるような気がするし、容姿端麗というのも美形というよりは、荒削りなワイルドな男前ということで頷ける。


だが、頭までよかったなんて――


今日の朝、クラスメイトに見られていたのも、ただ騒いでいたから注目を浴びたわけじゃないと、思い直した。

今思ったら視線は明日美というよりも、彼に向けられていた気がする。




そしてやっとわかった彼の名前は、須藤すどう武人たけひとと言うらしい。

真理とは高校からの仲だと言う。

茜や佐野はクラスが一緒じゃないから話したことはないが、真理とはやはり仲がいいみたいだった。

そして、それだけ揃っているいると性格に問題があっても珍しくないのだが、彼の場合は特に問題はないようだった。


彼は人気者ゆえ、たくさんの友達がいるが、特定の誰かと常に一緒と訳ではないらしい。





「須藤くん、すでに何回か告白されてるらしいよ」


続きを話す茜の声は、内緒話をするように小さくなる。だから、聞き漏らさないように明日美は聞き耳を立てた。


「……なんで急に小声なわけ?」

「強調だよ!こういうのは大きい声で言っちゃダメなの。その方が聞き耳立てたくなるでしょ?――テクニックだよ」

「……あっそ」


二人の会話を聞いて、なるほど、と頷く。明日美はすっかりと茜の話術に、はまっていたからだ。





入学してから一ヶ月も経たない彼が、告白されるのはわかる気がした。茜ほど熱をもたない、恋愛話にはクールな佐野でさえ「確かに顔はいいね」と珍しく意見した。

それに目を輝かせ茜も「かっこいいよね!」と賛同する。


「しかも、告白全部断ってるらしいよ。硬派なところが、女の味方――とまでは言わないけど、敵ではないよね」

そう茜は言うと、声を落としたままで自慢気に話す。


「なんでも、あの佐倉さんの告白も断ったらしいよ」

「なんで嬉しそうなのよ。――て、佐倉さんって……あの?…………須藤くん理想高いなぁ」

「これは佐倉さんが言ってたらしいんだけど、もう美人の彼女がいるとか。――あれ、本当かな?」

「……あー、どうなんだろうね」

佐野の言葉に茜は熱を込める。

「そうだとしても――略奪愛だよ!」

「……茜、あんたは…………」


美人の彼女――まさにさっき彼が言っていた『誤解』がでてきた。

まさか噂になっていたなんて――ちょっと気の毒に思えてくる。この噂でまた一段と妹の腕振りほどきそうだ。


わざわざ解きに来るくらい気にしていたことだし、彼の名誉の為にも誤解は解いておいたほうがいいよね?

明日美は迷いながらも重い口を開いた。


「――彼女はいないみたいだよ。……妹みたい」


明日美が口を挟んだ瞬間、ふたりの目はいつもよりも見開き、皿のように丸くなった――メガネ猿は目が大きすぎて、目自体は動かせないと聞くが、今の二人もそうなのだろうか。まっすぐ見つめる二人は眼球を動かすことなく、ただ明日美だけを大きな目で見ている。

二人のその丸い目は「どうして知ってるの?!」と言っているようだった。まさに目は口ほどに物を言っていた。


――だが、あまりにも目で語られすぎて、そろそろ居心地の悪くなった明日美は「――て……本人が言ってた」と付け足すように言った。




「……須藤くんと話したのっ?!」

すると茜は目で語るのをやめた。そして笑みを深め、いつもよりキラキラとした女子の顔になった。

「また始まった」と佐野の冷めた顔を見て、明日美も余計なことを言ってしまった気になった。

こういうときの茜は大抵、恋の話に夢中になって人の話を聞かないのだ。

無理矢理にくっつけようとする。

プラモデルを組み立てる時に、接着剤が無いけど、マニキュアでいいや、というノリで。例え、無茶でもくっつけたがる。


その被害者は主に佐野である。恋愛にあまり興味がない佐野だが、茜はどうしても恋に興味を向けて欲しいらしい。

佐野が体育の時間に「あの人足速そう」呟いただけで、恋愛講座が始まる。


「足が速い。それが意味することはわかる?」

「体育の成績が良くなる」

「――甘いね。もっと広い視野をもたなきゃ!フットワークが軽いってことでしょ」

「……ごめん。意味わかんないんだけど?」

「これだから佐野は――――」

「茜も分かってないよね。絶対今考えてるよね」

「…………まあ、手がはやい人じゃなくてよかったってこと。それだけでも友人として祝福できる。――卓球部とかだったら止めようと思ってた」


「あんた、卓球部に恨みでもあんの?」


こんな会話が日常なのだ。

佐野は慣れている分、なんてことなさそうに返しているが、もしこんな会話を明日美が毎回すると思うと正直気が重い。


明日美が彼のことを聞いた時点で、茜のスイッチは入っていたのだが、さらに押してはいけないスイッチを押した気がした。


彼とはなんでもない。――友達にはなったかもしれないが……あれも事故みたいなものだ。――それに、名前だって今知ったばかりだ。




「たまたま昨日、須藤くんが妹さんといるのを一緒にみて――それでわたしが誤解しちゃって、その誤解を解きに朝きたよ。……そして流れで友達になった…………のかな?」


誤解をされないように、経緯を話したはずなのに茜はますます目を輝かせた。

佐野は「明日美、友達になったのに自己紹介しなかったの?」と笑った。


茜の誤解をさらに強め、自己紹介すら忘れた自分の恥を晒しただけではないか、と明日美は肩を落とす。


「それって、須藤くんは知ってたから自己紹介飛ばしたってことだよね?」

「あ、そうかも。茜、冴えてるね。――それにしてもわざわざ誤解って言いにくる須藤くんって……」

「怪しい!!これは、あすみんに気があるとみたよ」


なにかとんでもない勘違いが発生してるが、明日美は否定を軽くして口を閉ざした。

否定したことによって、裏付けが始まったからだ。これは警察の取り調べとある種、似ているのかもしれない。


これ以上何か言うと全て裏目に出てしまうような気がして、静かに聞いていた。

だが、そんなことも虚しく、また次の休みの時間になると根掘り葉掘りに聞かれた。



明日美は人の情報を聞く時、それは自分の情報を少なからず売ることになるのだと、初めて知った。

そして、その代償は大きく、これから事あるごとに大きさを増す気がして、どっと疲れが押し寄せ、ため息を誘った。

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