第10話



学校についた今、もう引き返せない。

明日美は憂鬱と緊張を誤魔化すように、しきりに前髪を触った。

いつもよりも早く登校したせいか、三人に会わなくて、明日美はほっと息をつく。

時間の問題だが、心の準備がまだできていないのだ。



明日美は重い足で教室に向かう途中で、必ず会ってやる、と思った。

明日美はこんな思いをするきっかけとなった要とは、まだ会えていなかったのだ。

半ば、不審者のようにうろうろとマンションの前を歩き回ったが、いつまで経っても要は現れなかった。

何か変えれば会えると思っていた明日美だったが、その期待は大きく外れた。


てっきり、距離感の無いあの態度でひょこりと顔を出し、器用に動く口で明日美をからかうものだと思っていたのだ。

要と過ごしたのは二日間だけだというのに、まあいいや、と割り切るのには色々ありすぎた。


なによりもこのままでは、要に会うための代償は全くの無駄になり、ただただ髪を切っただけになる。


――なにがなんでも要くんに会うんだ!

明日美は訳の分からない使命感のようなものを静かに燃やした。













朝早くても人は来ているものだ。

明日美はまだ少ないとは人気を感じる廊下を見ると、俯いた。


教室まで後少しだというのに――


自分のことを誰も気に留めているはずがないとわかっていながらも、顔を上げられない。教室にスッと入り込みたかった明日美は、俯いたまま歩くことにした。


だが、それがいけなかった。


片方だけ開いている教室のドアの前。

その入り口の横に、人を待つように立っていた人がいたのはわかっていた。


ところが、明日美がその入り口に入ろうとした時、ちょうど入り口を塞ぐように横に移動したことは予測できなかった。

なんとなくゆっくりすれ違うのは嫌だなと思い、早く歩いたのが余計にだめだった。

相手も全く気づいておらず、急な動きをしたものだから、磁石のようにパチンとくっつくようにぶつかった。


「わっ!」

明日美は急に現れた壁のようなものに、思いっきり顔ぶつけた。

「ごめん、大丈夫っ?!――――て、山瀬さん!!?」


――なんで、こんなところに彼が?!


振り返ったのは昨日会ったばかりの同級生だった。

明日美は慌てて後ろに下がる。壁だと思っていたのは彼の大きく広い背中だったからだ。

明日美は意図してなかったとはいえ、後ろから彼に抱きつくような形になってしまった。


「あのっ、すみ――」

「怪我ないっ?!!」


すぐに謝ろうとした明日美の言葉を遮るように、先ほど以上に慌てた様子で彼は声をかける。

その彼の焦る表情に、幾分冷静さを取り戻しかけたが、怪我がないのか確かめたいのか、明日美と背丈を合わせるように屈んでくる。

その顔は穴が空きそうなほど、明日美を伺うものだったし、なにより顔が近くて、たまらず後ろに下がった。

そして首を勢い縦によく振った。


「は、はいっ!全然大丈夫です!私の方こそすみませんでした…」

近すぎる距離を離しながら「怪我はありませんか?」と彼に聞くと「俺は大丈夫」と言った。

すると大袈裟に俯き「本当っ、よかったぁ」と安堵のため息をつきながら、噛みしめるように言った。

彼が顔をあげると、焦りで曇っていた表情は、安堵に満ちており、雨雲の中にいた太陽が姿を現すように、彼をいつもの明るい印象に戻した。

明日美は165センチと身長は高い方だが、彼はさらに高かった。20センチは差があるのではないだろうか。おまけに長身というだけではなく、鍛えられたような体格は、明日美がぶつかってもビクともしなかった。

だから「大丈夫」という言葉は、本当だろうと思った。


そんな彼は今度は安堵の表情を、何か言いたげな表情に変えていた。

せわしなく変わる表情に、首を傾げる。


一体なんだと言うんだ……。


早朝の静かな教室に、数える程度しかいなかったクラスメイトたちは、入り口で起きた衝突事故を野次馬のような目で見ていた。

ただ、野次馬とは言い切れないのは、誰もが騒ぎ立てることもせずに、ただ見ているだけなのだ。

直視している人もいれば、ひっそり盗み見ている人たちもいる。そんな視線をひしひし感じた。

あんなに目立ちたくないと思っていたのに、すっかり注目を集めてしまった。

サッと苦い気持ちになった。


「……山瀬さん、その……おはよう」

「え、あ……はい。おはようございます……」


続かない会話に、嫌な沈黙が生まれる。


ああ、早く教室に入りたい――。


正確に言うのであれば、こうなってしまって余計に教室には入りづらい。入りたくはない。

だが、昨日から気まずい彼と簡単に離れられる選択は教室に入ることなのだ。このまま顔を突き合せるとよりも、遥かにマシだ。



そう思うのに――

彼の何か言いたげな顔が、まだ教室には入るなと、その言い難い雰囲気で明日美を引き止める。

あと一歩で逃れられるというのに、踏み出すことができないでいた。



…………気まずい。



昨日の気まずさをしつこく引きずるように、空気は重く、時間の流れが嫌に長く感じる。


そう思っているのは明日美だけじゃなかったようで、彼は気まずさに耐えきれないように、後ろの頭を軽く掻きながら、横目を向く。

「昨日のこと――」

ハキハキ物を言う印象の彼が、言いづらそうに口籠くちもごらせる。

「……昨日?」


突然出た言葉に一瞬だけ明日美は考えたが、すぐにあの美人な彼女のことを言いたいんだと理解した。


あの後、彼女とケンカしたのだろうか。

それとも昨日のことがきっかけで火がつき、まさか別れた話に発展したんではないか――様々な嫌な憶測が浮かび、明日美は焦った。

だって、どう見たって彼の言いずらそうな顔が、いい報告に思えなかったから。


「昨日はすみませんでした。デート中なのに……本当に失礼しました」

そう言うと彼は、僅かに持っていた希望が崩れ去るように「やっぱり、誤解してる……」とうな垂れた。

そして「誤解なんだよ……」と力なく続けた。


「あれは、妹!――彼女なんていない」

「…………妹?」

それにしては親密に――明日美は姉の今日子と仲が良い。

だが、腕を組んで歩けるほどかと問われたら、それは「ノー」だ。

幼い頃はよく手を繋いでいたが、今となってはそれもない。仲が悪くなったからではなく、それが成長するにあたってお互いに一番自然だったからだ。

仲の良い今日子でもあり得ない話なのに、異性の兄弟と考えれば――この場合、歩(あゆむ)になる。――ますます、あり得ない。

明日美は仲良くあゆむと、腕を組みながら歩く想像をすると、うっすらと寒気が襲ってくる。

お互いに何かメリットがあったとしても――例えばシャンプーを嗅ぎながら歩ける口実ができたとしても、それは無理だ。


そんな明日美の様子に彼は「はぁ」と深いため息をついた。

「そう、妹。あいつはちょっと…………特殊だから」

困った妹に思いを馳せたのか遠い目で言った。その様子に彼が日頃、苦労しているのを察した。


「昨日は妹が失礼な態度でごめん」

あのキッと上がった目つきに気づいたのかわからなかったかが、妹の非礼を詫びる彼は慣れていて、さらに苦労人の印象を濃くした。


でも、そうか。妹だったんだ。


明日美は自分の家族のことしか知らないから、まさかそんな兄弟もいるとは思わなかった。

だから腕を振りほどいていたのか、と妙に納得もした。

いくら可愛い妹だとしても、明日美が歩に抱く感情を少なからず彼も持っているのだろう。

ただ、面倒見の良さそうな兄につい甘えたくなる気持ちも、彼を見ているとわかるような気もしたが。



「……わたしのほうこそ、お邪魔してしまってすみません」


自分から話しかけたわけでも、邪魔しようと思ったわけでもなかったが、明日美は赤らめてしまい、あらぬ誤解を生んでしまったことに罪悪感があったから謝った。


彼はすぐに「山瀬さんは何も悪くない!」と否定した。

そして、妹に対しての日頃の鬱憤が溜まっているのか、独り言のように「早くあいつに彼氏ができればいいのに……」と呟いた。


「仲のいい兄弟で羨ましいです」と明日美が言うと、「そんなことない」とまた遠い目をして言う彼が少しだけおかしく感じて、笑いそうになった。

和やかな空気を彼も感じ取ったのか、笑みをたたえて、安心したように言う。


「よかった。山瀬さんに言えて。――朝から待ってた甲斐があった」

「……そんなに気にしていたんですか?」


そんな彼に驚き、そして律儀だなぁっと思った。

明日美は気にもしていなかった。お邪魔してしまったという罪悪感はあったが、友達でもない彼とは、てっきり昨日で終わったものとばかり思っていた。

だから朝早くから、わざわざ違うクラスに足を運び謝りにくるなんて思いもしなかった。


「まぁ、謝りたかったのもあるし……誤解といておきたくて」

「誤解……?」

「山瀬さんに彼女だと思われたままじゃ、嫌だから」


明日美は目を見張る。

そんなに妹が彼女だと思われるのが嫌だったなんて。同じ立場だったら確かに嫌だが、わざわざ誤解を解きにこうしてクラスまで訪ねにはいかないだろう。


だがきっとそこが、友達が多い彼と、最近まで友達がひとりもいなかった明日美の違いだろう、と思った。

誤解を解くのも謝罪をするのも、機会がなければできない私とは違う。



「ずっと山瀬さんと話す機会伺ってたんだけど、山田が邪魔で――」

どこか忌々しいようにように言う彼と、突然真理の名前が出たことで、明日美は首を傾げたくなった。

「……どういうことですか?」



「なんていうか、その……」

彼はまた口籠らせる。

こんなにも、人に慣れている人もたまには緊張するのだろうか。

それとも、面倒見のいい彼のことだ。もしかして、気を遣って合わせてくれているのだろうか、と明日美は思った。


「はい。なんでしょうか……?」



そういえばまたいつのまにか距離が近づいていることに気づく。

なんとなく一歩後ろに下がろうとした時だ。


「俺も――友達にしてくれませんか?」

上から声が降ってきた。


「え?」

思わず出てしまった言葉に、先程よりも力強くはっきりと「俺と友達になってください」今度はそう、はっきりと言われた。


「あっ、え……はい」

明日美は言われた言葉を理解する前に、反射的に返事をしてしまった。

しまった――!と顔を青ざめたのは、返事をした後ではなく、目を輝かせて「本当?!」と言った彼の顔を見てからだ。


「これからよろしくっ!山瀬さん!」

ぱぁっと大好物を目にした子どものように嬉しそうにはしゃぐ彼に頭が痛くなるようだった。


急いで誤解を解こうと彼に何か言おうとした時、タイミングよく「じゃあ、また」と笑顔で手を振って、立ち去っていった。





明日美は少し騒がしくなった教室に入った。

ちらちらと見る目は、もうさほど気にならない。ただ、気になることはひとつだけ。


――何故、こうなった…………?




もしかして、これも要くんが……?

明日美が友達ができたきっかけも、要がシールを貼ったからだ。

あれが無かったら、真理は話しかけることはなかっただろうし、佐野や茜とも話すことはなかった。



じゃあ――今回も……?


「次に起こった偶然は偶然じゃないよ」

シロの声が鮮明に頭の中で響く。




明日美はあんなに気にしていた髪のことは、もうすっかりどうでもよくなっていた。

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