第9話
なんだろう、この状況は――――
明日美はいつか見たドロドロの愛憎溢れる修羅場ドラマを思い出していた。
何も奪い合うものなんてないし、見当がつかなかったが、この漂う雰囲気はドラマでみたものにそっくりだった。
ただ、シャンプーを嗅ぎながら歩いていただけなのに、何故こんなことに――?
「…………前髪っ」
「え……?」
「山瀬さんっ!――髪切ったのっ?……可愛いよっ!すごく似合う!!」
明日美はぼっ、と音を立てて、頬に熱が上がる。社交辞令だとわかっていても『可愛い』という聞きなれない単語は、耳にあまりにも刺激的すぎるのだ。
それに、明日美は油断していた。
明日美の前後を知る人は、美容師のお姉さんだけ。――それがまさか、知り合いに会い、ましてや髪のことを指摘されようとは。
最近は予想外の展開になれつつあると思っていたが、順応性に欠ける明日美はいつまで経っても慣れそうにない。
熱を持った頬で言うのは言い訳がましいが、明日美は別にイケメンに褒めらたからのぼせ上がっているのではなかった。それが真里でも佐野でも茜でも――今のようになっている。
「――もう行こうっ……!」
その怒声混じりの声に、明日美ははっとした。
――もしかして……誤解されてる…………?
組んだ腕を離されてた彼女は、むくれた顔でこの場所から離れたいというように、彼の腕を強引に引っ張り、連れていこうとしていた。
突然引っ張られた彼は「おいっ」と非難の声をあげると、また腕を振りほどいた。今度こそいい加減にしろ、と言うように。
振りほどかれた彼女はなんだか、居たたまれない。
彼女はもうそれ以上彼に何か言わなかった。だが、代わりに膨れ上がった怒りの矛先を明日美に向けた。
彼が気づかないのが不思議なくらい、鋭い視線で睨みつけてきたのだ。
明日美は心臓を掴まれるようで、この状況に冷や汗がでた。
――考えてみれば最悪だ。
いくらなんでもデートの最中、突然他の女の人が現れて、自分の彼氏に頬染めるなんて、最悪じゃないか。
途端に彼女に申し訳なくなった。
彼も明日美もそんなつもりではないとしても、無神経で非常識だ。
禍々しい空気が酸素すら奪っていくようで、息苦しい。
もうこうなったら出来ることはひとつしかない。浅く呼吸をして、早口で言った。
「あのっ、デート中にすみませんでした!――失礼します」
立ち去るのだ。一刻も早く、この場から。
彼女と彼に一礼すると、逃げるようにその場所から立ち去った。
明日美が去った後ろで「あ、ちょっと!」と彼の声が聞こえたが、明日美に向けられた言葉じゃないと思い、走るように歩き続けた。
その証拠に、彼らは追いかけては来なかった。
明日美はその後、シャンプーの匂い楽しむことなく、あの気まずさを紛らすように、足早に家に帰った。
――はあ、疲れた。
家に着く頃には色んな疲労が覆いかぶさり、動きたくなかった。それもこれも、あの同級生のせいだと明日美は恨めしく思った。
いきなりなんだったんだろう――。
赤らめてしまった自分も悪いのだが、今まで話しかけて来なかった彼が何故あのタイミングで話しかける必要があったのか――。
急に話しかけてきた同級生に対して、明日美は戸惑いと残念な気持ちを抱いた。
彼は真里と同じクラスで、真里と同じように明るく、友達に慕われているを知っていた。
男気を感じる気質と、歩のように砕けた口調は、彼を少しだけ荒く感じさせたが、短所という程でもなく、むしろ嘘とは無縁の正直者という印象を強調していた。
そんなハキハキした雰囲気が、どこか真里と重なると感じていたし、性格の良さが滲み出ていた。
だからこそ明日美は残念に思った。
そんな彼がまさか、彼女に対してはあんなに冷たい態度をとる人だったなんて――
振りほどわれた腕に、不服そうな顔を浮かべる彼女を思い出す。
これから友達として付き合っていく間柄でも、友達になる予定もないのだが、知りたくもなかった嫌な一面を垣間見た気がしてきて、明日美は勝手にがっかりした。
そして、明日美はずっと考えてたことがある。彼を見つけた時、話しかけられた時、立ち去った後ですら――――ずっと。
うーんと唸りながら、考えるが頭の中にある同級生の情報はたったこれだけで、もう絞り出すことは出来なさそうだった。
あの人――――名前、なんだっけ?
休日が終わるのは早い。
あっという間に夜になり、そして朝が来た。月が沈み、太陽が昇るように、明日美もまた規則的に家と学校の往復が始まる。
そんな明日美は学校に着いて、久しぶりに憂鬱な気分になっていた。
髪を切った瞬間。
あの時、明日美はあんなにワクワクとしていたはずなのに、昨日の事件もあってか、その気持ちは翌日まで持続しなかったのだ。
むしろ――後悔さえしている。
いつもより早く目覚めた明日美は、櫛(くし)を通した髪の毛を鏡越しで見ると、今更になって気持ちがざわついたのだ。
相乗効果――その場限りの限定。
明日美はお洒落な店内、綺麗な美容師のお姉さん。
その全て空間の中は、自分とは切り離されるものであって、無関係なものだというのに、それすらも変身した自分の一部であるかのような思い込みをしてしまった。
お洒落な空間、綺麗なお姉さんが消えた鏡の中に映るのは――ただ印象を変えた明日美だった。
印象を変えたことには成功した。当初の目的はそうだったはずだ。
だが、明日美は昨日感じた高揚感のせいか、少なからずどこに変わった自分への自信をつけていた。
ざわついたのはそのせいだ。
この明日美の姿は失敗か成功か――今更ながら疑問が生じた。
これに似たことを買い物でも経験したことがある。
素敵な店内に気後れしながらも、服を選んでいると、店員がやってきた。
お洒落な店員は、気後れする明日美にも緊張をほぐすように褒める。そしてそのうち、褒められている言葉が真実なのか偽りなのか、わからなくなっていく。
だが、わかっていることは明日美よりもはるかにお洒落なこと。
きっと正しい――
そう思うと、手に取った洋服が自分が思ったよりもずっとずっと素敵に感じるのだ。
だが、家に帰って試着すると思う。
なんか違う――と。
確かに服は素敵に見えた。――そうだったのかもしれない。明日美はそれすらも自信を持って言えなくなるようだった。
それは本当にその服の魅力だったのか?
『素敵』の集合体のお陰で、その服は引き立てられ、私は惹かれてしまったのではないか?
自分自身があまりにも『素敵』に縁遠く、果たして似合っているのか、似合っていないのか分からず、結局その後もその服に袖を通すことはなかった。
――今まさにその状態だった。
あの時よりも最悪なことは、服と違い着脱ができないからだ。どうであれこの姿で行くしかないのだ。
明日美は切ることだけに夢中で考えもしなかった。
その後のことを――三人にどう思われるのかということを。
昨日起こった明日美の突然の変身に、家族の反応は上々だった。
多恵子は「いいじゃないの!」と目を輝かせ、歩は「……マシになったんじゃねーの?」とボソッと一言。そして父は「あの頃に似てる」と幼少期の写真を指差して言った。
――人の褒め方は三者三様だ。
明日美は前向きに受け止めたのだ。
だが、相乗効果が完全に失われた今日は違う。その身内の言葉さえもざわざわと不安を煽る。
そして疑問は生まれる。
そもそも、褒めていたのだろうか………と。
明日美は憂鬱にしか映さない鏡の前、ため息をひとつ落として離れた。
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