第8話


あれから二週間ほど経った。

あと何日かで五月を迎えるというのに、明日美はあの日から要とは会えていない。

今まで会うことがなかったから、それが普通のことなのかもしれない。

ただ――シロに言われ身構えていた分、拍子抜けだった。

会わないせいか、初めて出会った場所やマンションの周りを通るたびに、すっかり要を目で探してしまうのが日課になりつつあった。



もう会えないのかな――



同じ所に住んでいるのに、もうこのまま会えなくてもおかしくないような、そんな気すらして、明日美は寂しさを覚えた。

それは要からもらったネモフィラを見ると、その気持ちはさらに膨らんだ。

あんなに脅かしていたシロも、あの日からぱたりと夢に出てこない。

シロに付けられた頬の傷は、朝目覚めると痛みもなく、跡すらなかった。

夢で起きたことは、実際に体には影響しないのだ。


明日美は鏡越しで何もない頬を撫でる。


シロとはもう十年近くの仲になろうとしてるが、未だに優しいのか、意地悪なのか明日美にはよくわからない。――とにかく気まぐれなのだ。

もともと、夢にも毎日のように出るわけではない。気の向くままにふらりと突然現れる。そこが妙に人間臭いシロの「猫らしさ」なのかもしれないのだが。












あの後、シロは「直接聞いてみれば?」と軽い口調で言っていた。

だが、明日美は眉を下げ、そんなことができるはずがないと抗議をした。


つまらなそうにシロは「意気地がないなぁ」とつぶやくと、明日美を池の近くに呼んだ。

明日美はシロの隣に並ぶと、同じように水面に二人並んで映る。

シロは「面白いの見せてあげる」と言うと、さっき水面を乱したように、映つりこんだ明日美を手で引っ掻き、乱した。


「……どこが面白いの?」


明日美は面白さがさっぱりわからず、シロを怪訝な目で見た。


「いやぁ、僕が面白いことは、明日美も面白いかと思って」


シロが意地の悪い顔で言った。

複雑そうな顔をした明日美は、乱れた水面の中でさらに複雑に歪んでいくようだった。


そして、シロは意地の悪い笑みを深めると、ヒゲを揺らした。

明日美はその表情をみると嫌な予感がした。

ヒゲを揺らす時は、ろくでもないことを閃いたときの癖だと知っていたから――


「じゃあせめてさ――」


その予感は当たっていた。シロはとんでもない無茶振りをしたのだった。



















どきどきと高まる心臓を抑え、明日美はついに決心を決めた。

あの夢から二週間も経った今、行動を移さないともうだめな気がしたのだ。

街中はいつも以上に賑わっており、どこも混んでいる。


この二週間の間、全く何もなかったといえばそうではない。

明日美が親交を深めた真里まり佐野さのあかね。この三人とは、ついに胸を張って友達と呼べる間柄になることができた。

この間なんて、初めて学校帰りの寄り道なるものをした。カフェに行き、楽しく談笑。

店内の中には同じように、たくさんの女子高生が賑わっていた。

やっと普通の高校生活が送れたような、毎日、実に楽しく、有意義な時間を過ごしていた。



ただ一方で、充実だと感じれば感じる程――あのネモフィラをみるたび、要の顔が頭から離れなかった。

本当にこのままでいいのかと明日美に思わせたのだ。


『どこでも成功』その花をくれた少年は、また寂しい部屋にひとりいるのかもしれないのに――――と。





ふいに、この間茜に教えてもらい、四人でいったカフェが見えた。

今日は休日のためか、いつもより大盛況だった。


――だが、明日美は今日はここには用がない。

人を避けるように、ひとり足早に歩き進めた。

そうして、しばらくし、お洒落な建物の前で足を止める。

いざ目の前にすると、明日美は吐きそうなくらいに緊張をした。


――まだ時間より少し早い。


昨日の夜、鈍足でもしっかり時間内につける計算したというのに、遅れるどころか、急かすように動かした足のせいで、早く着いてしまった。


明日美がどうしようかと、店の前をうろうろする。決心が合わない時間のせいで余計に鈍る気がした。

だが時期に周りから不審な目を向けられているような気がして、明日美は一息し、扉を開けた。


「いらっしゃいませ」


扉を開けると、お洒落な空間によく似合う綺麗なお姉さんが現れる。


「……あの、予約してた山瀬やませです」

「山瀬様ですね。お待ちしておりました」


若く、綺麗な美容師は、慣れた手つきで、荷物を預かろうとする。

明日美はそわそわした。

少し早く着いたが、迷惑じゃなかっただろうか。

だが美容師は荷物を受け取ると、その笑顔に嫌な顔を少しも落とすことなく、流れるように席へと案内した。







椅子に座ると対面するように置かれた鏡に映る自分が、この空間にあまりにそぐわないもので、明日美は顔が引きつりそうになった。

まるでひとりだけ色が変わることができない出来損ないのカメレオンのようだ。全く馴染めていない。


「綺麗な髪ですね。今日はどうなさいますか?」

受付をした美容師が髪を触り、要望を聞く。

来る途中、何度も心の中で復唱した要望を緊張が悟られないように、努めて自然に言った。


「おまかせで――思いっきり切ってください……」


ただ、やはり不自然だったのか、終始にこやかだった美容師は、目を丸くした。

そして「こんなに綺麗な髪なのに?!」と驚き「伸びるの時間かかるし、もったいないですよ」と忠告しながら髪を触った。


その様子に明日美は、とんでもない間違いを犯そうとしているのではないかと、焦り、考え直す。

すると、美容師はまた顔に笑みを戻して提案した。


「もしイメージ変えたいなら、前髪を切って全体も少し切るのはどうですか?――前髪は、しばらくそのままですよね?前髪作るだけでもイメージ変わりますよ!」

美容師は髪をいじり、明日美にイメージを説明していく。

明日美はこの綺麗な美容師が全て正しいと思えた。

そもそも、おまかせと言ったからには、従えばいいのだ。


『思いっきり髪を切ってイメチェンしたらいい』と言ったシロの言葉をそのまま使ったが、別にイメチェンできればなんでもいいのだ。


鏡越しに目を合わせていた美容師は「どうしますか?」と明日美の返事を待つ。


「……それでお願いします」

「かしこまりました」

美容師はまたとびきり素敵な笑顔に戻った。






軽快な美容師の小話も、明日美が雑誌に目を落とすのと同時に、次第になくなっていった。

お客に合わせて会話を弾ませたり、静かにこなしたり、美容師は手先の器用さに加えて、空気を読む力と、口先も器用でなければいけない。

自分には一生なれそうにない職業だと思いながら、雑誌をめくった。







――――あのとき。ヒゲを揺らしたシロは提案した。



「髪の毛、切れば?」と。

意味がわからず、首を傾げると「察しが悪いなぁ」とシロはまた呆れた。


「だから、試すのさ!――要を」

「……私が変わってるのを予知できたかってこと?髪が短くなってるのに驚けば、要くんになんの力がないってわかるってこと……?」


シロはいよいよ本物の馬鹿になったかと、明日美を見る。

「まさか!そんなことで見極められるわけないよ」

その目は呆れが一層厳しくなっている。


「……じゃあどういうことなの?」

シロの言っていることは、わかるようでわからない。というか、分かりづらいのだ。


「要は物好きなんじゃない?明日美に気に入られたがってる。それもどこか『特別』を匂わせて、ね」

「――なんのために?」

「そんなの知らないよ」

「シロ、何も知らないんじゃない」


シロは同じ体勢で疲れたのか、それともこの会話に疲れたのか、ぐーっと、つの字に全身を伸ばす。


「こう見えてもぼくは子どもだから恋愛の話はわからないよ」


夢の中のシロはいつも成猫の姿をしている。姿は変えられるらしいが、子猫になった姿は滅多に見たことがない。

なんでもシロはこの姿が気に入ってるらしい。

でも、そうだ。そうなのだ。シロの姿や雰囲気で自分よりも年上のような気分でいたが、本来はあの小さな子猫なのだ。

サッと苦いものが明日美の中で疼くと、シロはにやりと意地の悪い顔をした。


「――なんてね。コロッと騙される明日美よりはわかるよ」



「ていうか、子どもだからなに?見た目で騙されないでよね。――まあ、恋かどうか本当の理由は知らないけど、信用しないことだね。胡散臭いから」



シロは苛立ったように尻尾を振ると、まだ言葉を続けた。


「でもこれだけは確実な気がするな。――明日美に何か変化があったら、またなにか起きる。そして、その時に起こった偶然は偶然じゃない」


振られた尻尾は止まり、同時に時も止まったように感じた。


「偶然を見極めるのさ。奴は特別になりたいはずだから――」




そこで夢は醒めたのだ。

結局、明日美はシロの言ってることはわかるようで、わからなかった。

ひとつわかったことは、髪を切ればいい。それだけだ。


だがこの二週間の間、明日美にとって、やっと訪れた幸福な毎日であった。

だからだろうか。以前よりも何かを変える勇気や覚悟を持つことは難しく感じた。

変化してしまえば、今の幸福さえも変化しそうで、怖かったのだ。


明日美はシロの提案を今日まで無かったことにしていた。

だが、やはり家に帰るたびに思ってしまう。

すぐ上であの寂しい家にひとりでいる要を――




あまりにも会わないから、いっそのこと要の家に何度か行こうと思ったことがあった。

でも思っただけで、一度も訪ねようとしなかった。

そんなもやもやがずっと続き、やっと決断した。

このままじゃいけないと――――











器用な手つきで一通りの作業を終えたのを感じ、明日美は長らく落としていた視線を上げた。


ロングヘアーをショートにするくらいじゃないと、あまり変わらないかと思っていた明日美だったが、鏡に映る自分を見て、その変化に驚愕した。




「どうですか?結構イメージ変わりましたよね」


誇らしげにいう美容師は、やはり正しかった。

重ぐるしい髪は鬱陶しさから、解放されたように、程よく軽くなっていた。なによりも印象を変えたのは、目を縁取るように切られた前髪だった。俯くと髪が顔を隠してしまい、暗い印象を与えていたが、これなら俯いても顔全体が隠れることはない。

なにより、明日美になかった可愛らしい雰囲気を演出してくれたのだ。



切った分だけ垢抜けた。――いや、それでは語弊がある。ショートにしていたら、きっと今と違うことを思っていたことだろう。

この長さ、この形、絶妙なテクニックがあってこそ、やっと少しだけ明日美は垢抜けることができたのだ。














美容室を出て、特にやることもないのでまっすぐ家に帰えることにした。

もしかしたら、本当に今日なら要くんにも会えるかもしれない。そう浮足だった。

歩くと風に乗ってシャンプーのいい匂いがする。時折頬を撫でる髪の毛は、いつもよりサラサラしてくすぐったい。


明日美は弟のあゆむを思い出した。シャンプーといえば、歩だからだ。

昔、歩のお気に入りのシャンプーがあった。

多恵子たえこが違うシャンプーを買ってくると、歩は怒った。

そして当分シャンプーが変わらないとわかると、お小遣いを貯めたお金で、そのシャンプーをわざわざ買ってきたのだ。

明日美はそんな歩を不可解な顔で見つめたが、それ以上に不可解なことがあった。


何故か歩は顔を包むようにして、両サイドの髪の毛伸ばし始めたのだ。

初めはこだわりのシャンプーに触発されて、お洒落に目覚めたかと思った。

だが、その頃からだろうか。歩の変な癖を目にするようになったのは。

とにかくよく頭を振るのだ。


たまらず理由を聞いたら、歩は頭を一振りしながら言った。

「これが一番自然に、ふいにシャンプー感じられる」

そう得意げに言ってたことを今、思い出した。


普通に嗅ぐより、なんとなくラッキーな気がすると言っていたが、確かにその通りだ。

歩のシャンプーの楽しみ方は不自然であったが、自然に感じられるっていう意味は共感だ。風に乗ってやってくる香りは、なんだか高揚させてくれる。




明日美はやっとあの時の歩の気持ちがわかった気がした。――もうすでに歩の中では思い出して欲しくはない、黒歴史になってるとも知らずに。






明日美はたまに吹く風と、段差があるとこで軽くつまずく振りをして、風を巻き起こし、香りを楽しみながら帰宅していた。




――ああ、早く見せたいな。

髪を切る原因となった要に、この姿を一番最初に見てほしかった。

どんな反応をされるのか知りたくないが、なんとなく目には入れておいてほしいと思った。


真理達と行ったカフェのあたりはまだ賑わっていた。横目でみたカフェから視線を戻そうとすると、明日美は同級生を見つけてしまった。


「ねぇ、あっちも見ようよっ」

「おい!だから、あんまりくっつくなよ!」

「いいじゃん」


男性は女性に腕を回され、振りほどこうとしていた。そんな男性に負けじと、女性はしがみつくように、またくっつき腕を回している。


一人は同級生の男子で、もう一人は知らない女の子だった。

その男子に明日美は見覚えがあった。

真理と同じクラスで、よく目にする男子。真理と仲が良いのか、行くたび親しそうに話しているを知っていた。


――デートかな?


可愛いというより綺麗な顔立ちをした彼女は、その容姿にギャップを与えるように甘えていた。

明日美の見知った同級生は、それが恥ずかしいのか、少し乱暴に距離をとるように歩いていた。

明日美はその様子が少しだけ意外だった。

一度だけ目があったことがあったが、その目は優しく、彼女が出来たらもっと大切にすると思っていたからだ。


明日美は視線を外した。そうは思ったが、関係のない話だ。

だが、明日美が興味を無くすのとは裏腹に、二人がどんどん近づいてきた。

話したことはなかったが、このままでは顔を合わせてしまいそうで、なんとなく気まずさから明日美は俯いた。


すると、足元に見える影は急に止まった。よりにもよって明日美の前で。


「山瀬さん……?」

知らないはずだと思っていた名前を呼ばれ、明日美は驚いて顔を上げると、そこにはあの同級生がいた。

「だれ?」

そして彼女もいた。見定めるように見る彼女の視線が、心なしか厳しく、険しいものに感じる。


「……あ、と、そうですけど……」

気づかれると思わなかった。

もしかして、イメージチェンジは失敗に終わったのか。自分が思っているよりも変わっていなかったのかもしれない、と浮かれた気分は一気に萎む。



そもそも声をかけられるなんて思いもしなかった。



――わたし、なんで声かけられたの?

気まずい空気に、疑問は生まれるだけだった。

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