第5話


要のお宅にお邪魔することになった明日美だったが、内心、もういい加減にしてくれないかと、穏やかではなかった。

繋がれた手が汗ばんできたのだ。

同じマンションの人達からちらちらと見られ、まるで罰ゲームを受けている気分だ。それも明日美だけ。――要は気にもとめていない。

そんな要に、解放するように何度も視線を送ったが、無駄だった。

それどころか何を思ったのか「心配しないで。誰も帰って来ないから」とエレベーターの中で見当違いなことを言ったのだ。

おかげで一緒にエレベーターに乗っていた、マンションの住人に、おかしな視線を向けられる羽目になった。

面白そうにこっそり笑う要は本当にタチが悪い。



結局、家に着くまで手は解放されず、汗でふやけそうだった。

名残惜しそうに要は手を放すと「もう一周する?」と茶化すように言った。明日美は素早く首を横に振ると「ちぇっ」と可愛らしく要は舌打ちをした。

十三階建てのマンションの三階に住む明日美。要の家はその最上階だった。

慣れた手つきで鍵を取り出すと鍵を開ける。

その流れるような動きに、目隠ししても出来そうだと明日美は呑気に感心した。


「どうぞ」とゆったりした要くんの声が、部屋に響く。――だが、それも一瞬。

トンネルの中のように、よく響くのに、音はすぐに消える。この部屋は声を食べて生きているのかと疑いたくなるほどだった。


「お邪魔します」


明日美の控えめの声もわずかに響いた後、部屋に飲み込まれていく。――本当に家の人は留守のようだった。

留守中に入るのは失礼な気がして、明日美は気が引けたが、ここまできて引き下がるのはもっとおかしい気がして、黙って靴を脱ぐ。

玄関は綺麗に片付けられており、とても広々としてた。靴を揃え、要の後を追って中に進む。


「何もないけど――」

要がそう言って案内した部屋は、言葉通り――本当に何もなかった。

「散らかってますけど……」と言いつつも、小綺麗に片付けてある、よくある基準を下げるための言い回しではない。嘘偽りなく、最低限のものしかなかった。


――引っ越しするの……?


明日美は生活感がない部屋に対して、疑問を抑えることができなかった。


それもそのはず。明日美はつい最近引っ越してきて、物がない状態の部屋を見たのは記憶に新しい。だから覚えているのだ。

明日美の家と同じ間取りのこの部屋は、物を置く前の状態に酷く似ていた。段ボールを開封し、今では生活感溢れる明日美の家。一方、明日美の家よりは生活して長いはずの家が、未だに引っ越しをするような空間。――あまりに寂しすぎる。


目につくのは大きなソファー。

あとは空間に所々ぽつん、ぽつんと置かれたテーブルや冷蔵庫といった必要最低なもの。

これだけ。これだけしかなかった。

作りが同じ分その印象の違いは衝撃的で、生活感を感じさせないどころか、あまりに殺風景だった。


「お茶でいい?それともコーヒー?――お茶は冷たいのしかないけど」

「……あ、お茶で大丈夫だよ。――ありがとう」


明日美はなんとなく気まずくなり、視線を彷徨わせる。

そして、ひとつの考えが浮かんだ。極度の綺麗好きなのかもしれない、と。

収納上手でどこか別の場所に物があるのだと。


「いやぁ、それにしても明日美がぼくの家にいるなんてまるで夢のようだなぁ」


しみじみという要の芝居染みた台詞が、やたらと響くき、まるで舞台のようだ。

すると急に明日美は思った。要が舞台俳優なら、クッキーを持ち、ただ棒のように立っている自分はファンの出待ちのようだと――。


この不思議な空間が少しだけおかしくなり気を緩める。

要は飲み物を取るためにくるりと後ろを向いた。


――それにしても収納術を聞きたい。


明日美がそう思った時だった。

明日美の視線の先に対面するように、置いてある冷蔵庫が開かれ、中が見えたのは。ヒヤリとした冷気がここまで届きそうなくらい、ガランとした冷蔵庫の中は、光だけが煌々と輝いていて、収まりかけた衝撃を呼び起こした。




――なんで!!



明日美は雪の中で息を吸ったときのような、冷気が身の内に入るのを感じた。

一度、納得した、いや、納得させた思い込みは見事にひっくり返された。

材料であったり、飲み物であったり、多恵子が作り置きした料理で埋め尽くされている明日美の家とはあまりにもかけ離れている。

これは綺麗好き、というものではない。

要の家はどこもかしこも隙間に溢れている。『隙間』と表現していいものか正直わからない程に――


何よりショックだったのは、素早く開けた鍵。何もなく響く部屋。空っぽの冷蔵庫。誰もいない空間。

その全てに要が当たり前のように慣れていたと、気がついてしまったからだ。要にとって、これが日常で普通なのだ。




昨日借りたあの傘――


あの傘の持ち主は、この美しい少年の母に似合う素敵な人だと思っていた。

きっと容姿が美しいのはさることながら、優しく上品で――手作りのお菓子が出てきたり、オーガニックのものを厳選していたり――どこかワンランク上の家庭を築いてる人だと勝手に思い込んでいた。



――だが、きっとそうではないだろう。

明日美は想像とは違う、その落差には驚きを隠せなかった。


ちらりと要の様子を盗み見ると、いつも通りの顔で、か細い腕でペットボトルのお茶を注いでいた。明日美の様子にも気づいていないようだった。

その姿に胸はチクリと痛んで、どこか現実味のなかった要という少年が妙に生々しく感じた。



「家の人はいつも遅いの?」

だからなのか。明日美は自分でも意図しない言葉が、するりと口からでてしまった。

要はお茶を注ぐ手をピタリと止め、ゆっくりと明日美を見た。

――心臓が止まるようだった。


「なんで?」

顔にはいつもの笑顔はなく、淡々とした口調は明らかにいつもより温度が低く、冷え冷えとしてる。


「え、と、なんとなく……」

初めて見る要の不機嫌に、すぐにいけないことを聞いてしまったと明日美は思った。

罪悪感を感じながら、何故かそれ以上に要に突き放されたようで悲しくなった。



嫌な沈黙が少しだけ続き、明日美は口を開く。


「――部屋、綺麗だね!」


口から出た言葉が、あまりにも幼稚で馬鹿げていて、今すぐ取り消したい気持ちになった。

だが、取り消せない言葉はいつまでも明日美の目の前で泳ぐように余韻を残す。

心の中で、次の言葉でどうにか修正できないかと、模索する。

だが、どうしても今必要ではない話だったり、関係ない言葉だけが湧いてでてき、余計に混乱するだけだった。



「必要以上のモノはいらない」

明日美が言葉を訂正するのよりも早く、要が答えた。


部屋を見ながら呟くように話した要の横顔は、どこか物悲しく、どこか遠いところに行ってしまいそうで、明日美は無性に心が騒いだ。

もしかして――


「引っ越さないよね!?」

勢いよく飛び出した声に、要は驚いたように明日美を見ると、途端に吹き出した。

「はは、まさか!しないよ」

ぽかんとする明日美がよほど間抜けにみえるのか、もう一度目が会うと、笑われた。

そんな様子に戸惑ったが、見慣れたいつもの要に戻り、明日美はほっと胸をなでおろした。


「そっか……よかった」


明日美はこの不思議な少年とは、どうしてかまだ別れるのが惜しいと感じた。

要の出す妙に近い距離感に慣れてしまったのか、はたまたこちらにきて初めてできた友達――のようなものだからかもしれない。

どちらにしろ要がいなくなったら、少しだけ寂しくなりそうだと思ったのだ。

明日美の言葉を聞いた要は、先ほどよりも空気を穏やかにしていた。

そして要は笑顔のまま「そろそろ、クッキー食べよう」と提案した。










「美味しい、美味しい」と言って、食べる姿はまるでハムスターのようだった。なんとも微笑ましく、実に子どもらしい。

その様子を明日美もクッキーを食べながら、盗み見していたが、クッキーの甘さが広がるたびに思った。

子どもらしい要、大人のような要。一体どちらが本当の要なのだろう、と。



「そういえば、今日どうだった?」

そう聞いてくる要はなんとも愛らしい顔だ。

だが、目元や口元には隠しきれない真意は出るものなのだ。

偶然を装うような目に、わざとらしい口調。そこに隠しきれないワクワク感が感じられた。

要の顔は完全にイタズラの成功を有無を確認する少年の顔だった。

――まったく。

明日美は心の中でイタズラ好きの弟を窘(たしな)める姉のような気持ちになった。

このイタズラのお陰で友人ができ、とても文句が言えないくらいに感謝している。――だが明日美はこの困った子に、まんまとしてやられていることを、少しだけ悔しく思った。


「バドゥくん――私に貼ったの要くん?」

「……ああ、アレね!ちょうど持ってたし貼っちゃった」

とぼけた演技がわざとらしい。

大げさな演技は、今に始まったことじゃなかったが、どうしてかお礼をいう前に理由を聞きたくなった。そして要もそれを期待しているように思えた。


「どうして貼ったの?」

待ってました、というように要は表情を変える。


「聞いて驚かないでね!あれは幸運のシールなんだ。――どう?いいことあった?」

その言葉に首をかしげる。

――幸運のシール……?

くちばしを突き出し、不快な表情をする鳥、いつからご利益がつくようになったのだろう。容姿からはとても想像がつかない効力に、なんだか複雑になるようだった。


だが、明日美は効果があったことを知っているためか、今後のバドゥくんを見る目は変わりそうだとも思った。


「絵柄からはとても想像つかなかったよ。……でもすごいね!本当にいいことあったよ!」


明日美は今日の出来事を思い出し、心の底から「ありがとう」と笑顔で言った。

バドゥくんを真理から受け取ったあと、幸運シールとは知らなかったけど、なんとなく無下にできず鞄(かばん)に入れていた。捨てなくてよかった。

もし捨てていたら、何か悪いこと起きそう――そう頭によぎり、明日美はバドゥくんの入ってる鞄をひと撫でし、幸運だけをお願いします、と願った。




要くんはそんな明日美に目を向けながら「へぇ」と大げさに驚き、感心した。

その顔にはうっすらと笑みを浮かべながら。

「幸運のシールっていうのは、まあ――ぼくのちょっとした、かわいい冗談だったんだけど、本当にそうなってたんだぁ。いやぁ、よかったよかった!嘘も方便!嘘から出たまことだね!」

明日美は頭から水を被せられた気分になった。

大人っぽい要、子どもらしい要、どちらが本当か、などと考えていたのが自分に教えてあげたい。

ただのいたずら好きな子どもだと――!


「おっと、そんな怖い顔しないでよ!シールに気持ち込めたのは、本当なんだからさ!」


両手を顔の前で振りながら、必死に弁解する要。

明日美は自然と力の入った顔を、ため息をついて力を抜く。


そうだ、実際ご利益があったじゃないか。

こんなイタズラをする要はまるで、子どもだけど――明日美は気づいたように思った。――そう、子どもなんだ。


明日美はため息で幾分緩めた顔で要を見る。そもそも何故、要をどこか同等に見ていたのだろう。

奇妙な出会いと妙に大人っぽい一面が、フィルターをかけていたようにそうさせていたのか。殺風景な部屋にたたずむ、要はこんなにも小さく、頼りないというのに――


――まだ小学生じゃないか。

背伸びをするように大人っぽい要が、損をしているようで、明日美の小さな姉心が動かされるようだった。


「……大丈夫だよ」

せめて、自分だけは要が背伸びをしない相手になりたい。僅かながらに明日美はそう思った。


「本当はね、今日ずっと要くんに会いたいと思ってたんだ。ずっとお礼が言いたくて……」

そう思うと、いたずらをされたことも、どこか素を出してくれているようで誇らしい気がしてくる。

すると要は「ちょっと待ってて」と急に何処かに行ってしまった。

要はすぐ戻ってきた。てっきりトイレだと思っていたら、その手にはお洒落な丸いガラスのようなものを持っていた。

そして明日美の前まで無造作に持ってくる。


誘われるように覗くと、ガラスの中には青と白の、空のように澄んだ愛らしい花が入っていた。その愛らしい花に、明日美は心が奪われる。


綺麗……!


「――これは?」

突然差し出された花に、どんな意味があるのかと、明日美は要に尋ねた。

殺風景な部屋の中で、要くんとその青い花だけが鮮やかに色味を帯びていて、まるで一枚の絵のようだ。


「あげる」


いつもより熱をさした頬で、心なしか荒い口調で言う要に、明日美は「え?」という疑問の声だけ漏らした。

要に対して、一度たりとも読みが当たったことはないが、そろそろこの少年のことを理解しかけたつもりであった。――だが、さっぱりわからない。


「あの傘を貸した時……気に入っているように見えたから――」


勢いに任せて言った要は「――だから……もしかして、花が好きなのかなって……」最後は独り言のように口ごもっていた。



「――気持ちは嬉しいけど、貰うわけにはいかないよ」


明日美が珍しくはっきりものを言う。傘だって返す気でいたのだ。こんな素敵な物をもらう理由がどこにもない。


「もらってほしい」

すると要もはっきりと言った。

明日美は要の真剣な眼差しに思わず目をそらしたくなった。なんだか、受け取らない方がよっぽど大人気無い気さえしたのだ。


「いや、でも……」


明日美の頑なな態度に、要は少しだけため息をついた。 そして頬の熱は引け、見慣れた要に戻るようだった。


「あのね、小学生の僕がこんなに頼んでるんだがら、すこしは受け取ってよ」


明日美はたじろいだ。


「プリザーブドフラワーだから寿命も長いし、眺めるのにちょうどいいと思うからさ……もらって」


――要くんの一種の貢ぎ癖みたいなところに明日美は頭を抱えた。


「明日美」

「え、なに……?」

「どうしても、いらない?」

顔を歪ませ、なんと答えていいか考えていたら要は、またため息ついた。


「じゃあ、捨てる」


そう言ってゴミ箱に向かって歩き出そうとしたから、明日美は奪うように慌てて、丸いガラスを受け取った。


「欲しいです!!」


どこか勝ち誇った顔で「そう言うと思った」と笑う要に、やっぱりただの子どもではないと明日美は思った。




両手で包み込みたくなる丸いガラスを受け取ると、明日美はじんわり温かくなるのを感じた。


――そして心が震えるほど懐かしかった。


「ほんとに、素敵だね」

何故かわからないが、昔から生き物に触れると明日美は懐かしい気持ちになる。プリザーブドフラワーでもそれは感じることができるんだ、と明日美は微笑むように思った。


「この花はなんていう花なの?」

「ネモフィラだよ」


「ネモフィラ――大切にするね。……ありがとう」


名前を知るとまた愛おしさが増すようだった。

明日美が微笑むと、要は一瞬を固まり、そして俯いた。

そんな要に気を悪くさせたかと明日美は覗き込むと、ばっ、と勢いよく顔を上げる。

要は勢いの割には小さな声で「どういたしまして」と照れ臭そうにいった。

肩透かしを食らったような明日美。だが、要の耳は赤くなっていて、鈍感な明日美でも、これが要の照れ方ということがわかった。


「ふふ」

「……ちょっと。笑うの禁止」

可愛い一面を見せる要に思わず口元が緩む。

それを要は不機嫌そうに言うから、また口元が緩んでしまう。


「要くんがなんか可愛いくて」

「……なにそれ?僕はかっこいい男なんだけど……」

平然と言ってのける要に明日美は一瞬固まり、そして限界だった。

要の言動や行動は距離が近く、明日美は変に意識をしていたが、こんな可愛いものに動揺していたなんて――明日美は自分が馬鹿らしくなり、そしておかしくなった。


普通の男の子――これからどんな言葉を言われても、動揺することはない。

照れながら恨めしそうにみる要は、もう弟のようにしか見えなかった。

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