第6話
あれからたわいもない話をして、明日美と要は別れた。そうは言ってもただエレベーターを下がるだけだが。
帰り際、要はネモフィラの花言葉をこっそり教えてくれた。
『どこでも成功』――明日美はネモフィラに触れた時のように温かく、胸が熱くなるのを感じた。
何故、要が知り合ったばかりの明日美にここまでするのかはわからなかったが、花言葉を調べ、買ってくれた要のことを考えると、もう細かいことはどうでもいい気がした。
家に帰るとさっそく
明日美は多恵子に見つからないようにネモフィラを後ろにそっと隠した。また物をもらってきたとなっては、多恵子は目を光らせるはずだと思ったのだ。
だが、そういうところには目敏い多恵子に勝てるはずもなく、早々に見つかった。そして「またお礼行きなさいね」と釘を押されたのだった。
部屋に行き、さっそくネモフィラを飾る。ガラスに入ったネモフィラは、美しく、そして愛らしかった。
物心つく前から、生き物に触れると懐かしく感じた。明日美にはそれは何故だかわからなかったが、初めて触れたときは胸に広がる感情が体験をしたことがないくらい苦しくて悲しくて、そして大切で涙が止まらなかった。
それは成長するにつれて、愛おしさと切なさが入り混じっている『懐かしさ』という感情によく似てると知った。
帰りたくなるような哀愁はいつも明日美を悲しくさせるのに、それ以上に大切な思い出のような感情は胸を温かく包む。
明日美はいつしかこの特別な感覚に癒され、大好きになった。
どうして知らないはずなのに懐かしさを感じるんだろう。
どうして他の人は感じないんだろう。
明日美は他人と共感できないものなのだと知ると、疑問が生まれた。
それでも――――昔は本当に大好きだったのだ。
「これからよろしくね」
明日美は新たな家族に挨拶を告げ、部屋を後にした。
リビングに行くと、料理はすでに出来ていて、
父まで帰ってきてたなんて――意外と要くんの家に居たんだな、と思い時間を見て驚いた。
もう19時半だった。通りで外も暗いはずだ、と今頃になって明日美は時間の流れに驚いた。
「あ!」
多恵子が急に思い出したように、手を叩いた。
「そういえば、お母さん、不思議なことあったのよ!」
食事を囲みながら座る明日美たちに混ざるように座って話す。
「どんなこと?」
「どうせ、くだらないことだろ」
明日美が聞くと、歩が多恵子に突っかかるように喋る。だが、気にもしていない様子で多恵子は続ける。
「昨日ね、すごい雨だったじゃない?でも雨が降る前いい天気だったじゃない?お母さん、パートから帰る途中で美少年見ちゃったのよ!」
興奮した多恵子に、げんなりした顔で歩は言った。
「……だから、なに?」
ただ、明日美は引っかかった。美少年――という言葉が。
「最初は顔がわからなかったんだけど……だってね、その子!晴れてるのに傘さしてたのよ」
明日美は段々と指先という指先から血が引いてくような感覚になった。
「それでね、不思議に思うじゃない?――だから聞いてみたのよ。なんで傘なんかさしてるの?――て」
「あんまり話しかけるなよ、恥ずかしい」
「あら、いいじゃない!それでね、その子――なんて言ったと思う?」
「……さあ」
「今から振りますよ、て言ったのよ!」
多恵子と歩の話に明日美はサアーと血の気が引くようだった。
「……天気予報でも見たんじゃねーの?」
「そう!お母さんもそう思って、家に帰って調べてみたのよ。そしたら晴れだったの。……そしてそうこうしてるうちにあの雨でしょう……?――なんかお母さん不思議な体験した気分だったわ」
「へぇ、そして父さんの服が犠牲になったわけか」
「あら、お父さんは何も気にしないからいいじゃないの!」
多恵子と歩の話が耳に入るたびに、身体の力が抜けていくようだった。
「その、少年って……ハーフっぽい感じの美少年?」
絞り出すように明日美は声を出した。
多恵子は「そうそう」と大げさに何度も頷くと、不思議な様子で「なんで知ってるの?」と聞き返してきた。
「――傘、その子に借りた」
重たい表情で明日美がそれだけ言うと、母と歩は二人で顔を見合わせ、声を揃えるように言った。
「偶然って不思議ねぇ〜!」
「偶然ってすげぇな……」
「そんな偶然、本当にあるのか?」
だが、今まで黙って聞いていた祐三がぼそりと疑問を呟く。
その声が胸をざわつかせ、明日美の耳に残って仕方なかった。
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