第4話

ガタン、と音を鳴らし年季の入った下駄箱に靴を入る。よろよろと鈍く履き替えると、明日美は脱力感で下駄箱に寄りかかりたくなる。


――なんとか……間に合った!


まだ荒い呼吸を整えると、間に合った達成感から頬が緩む。

登校中に意地の悪い春の風にやられ、走ってきたのも相まって明日美の長い髪もすっかり乱れていた。何度か直したが、その度に乱れ、鬱陶しくなり今ではこのありさま。

しかし、先に整えるのは呼吸の方が最優先だ。あと一息、整えたら髪を整えよう。


「山瀬……さんだよね?」

「あ、えっ、はいっ!」


そう思っていたが、予想外の呼びかけに、明日美は慌てて乱れた髪を、押し固めるように整える。

声の主は山田やまだ真理まりだった。

ミディアムくらいの髪に、奥二重の目。その目は笑うと無くなるのが、彼女の愛嬌と明るさを引き立てていた。

真理は別のクラスだが、明日美のクラスに友人がいるようで、ちょくちょく来るので知っていた。

だが、明日美はまさか自分の名前を知られているとは、夢にも思っていなかったから、動揺を隠せなかった。


そんな、はつらつとした印象の強い真理は、何故か遠慮しがちな顔で言い淀んでいた。

明日美は話しかけられるはずのない相手に、ましてやこんな表情で話しかけられ、何かとんでもない失敗を仕出かしてしまったのじゃないかと、じわじわと不安が募る。


「……えーと、付いてるから取るね」


だが、それも杞憂に終わった。

真理は明日美の背中に手を伸ばすと、何かを剥がした。そして見せるように差し出した。


――バドゥくん。バドゥくんのシールだ。


真理の手の中にあるシールは、くちばしを突き出し、人を不快にさせる顔でにゅうっとこちらを見ていた。

このバドゥくんとは、鳥のゆるキャラで、鳥の『バード』と『罵倒』という単語を、ゆるキャラらしく、これまたゆるくかけている。

ちなみに『バドゥ』ではなく『バドゥくん』までが正式名称だ。

なんともゆるく、脱力感を感じさせるタッチだと言うのに、辛辣(しんらつ)な口ぶりと、見続けると腹が立つルックスが小学生に人気を博している。




――そのバドゥくんが、何故私に……?



「あ!」

明日美は今朝方、遅刻しそうになった原因である要に、背中を叩かれたことを思い出す。

――要くん!!


「――もしかして弟とかいる?」

明日美の表情に、なにやら誤解を抱き、親近感を示す真理。

「わたしもこういうイタズラよくされる。ほんと困るよね」

真理は弟にされた数々のイタズラを思い出したのか、苦笑いを浮かべながら喋る。


「いや、あの……」

否定をしようと思った明日美だったが、もごもごと喋る言葉はあまりに頼りなく、真理の言葉にかき消された。

「実は、山瀬さんと前から話したかったんだよね」


そして、明日美は信じられない言葉に身を固めた。

どうしてか残像にならない真理。確かに目の前にいて、自分に向けて言葉をかけているというのに、残像よりも話している気がしなかった。

あまりに現実からかけ離れた内容に、白昼夢ではないかと、疑いたくなる気持ちだった。

そんな明日美の様子に、真理は目を細めると、その愛嬌のある顔で続ける。


「山瀬さん、休みの時間どこか行っちゃうから――話しかけるタイミング逃してたんだ」


このシールに感謝かも、とはにかむ真理は、いつも以上に眩しく感じる。

そしてごくりと唾を飲むのと同時に、やっと向けられた言葉を、身の内に入れることができた。

明日美は恥ずかしさと嬉しさのあまり、真理の顔を見ることが出来ず目を伏せた。


――信じられない……!こんなこと!


何か言わなくちゃ、と焦るのに、なんて言って言ったらいいのか分からず、視線を上げることができない。

そんな明日美の視界の端に、妙な動きをするバドゥくんシールが見えた。

真理がシールの端を持ち、壊れたドアの鍵を開けるように何度も回しては戻す仕草で、動かしているのだ。

緊張感の中で場違いに動くバドゥくんを思わず見てしまう。

どこかでこの動き、見たことがある。壊れた鍵よりも、もっと適切なものが。

回す、鳥、裏、表……。

じりじりと揺らされ、ひっくり返される。

その度に、明日美はバトゥくんと目が合い、カチリと何を指しているのかわかった。


――そうだ。焼き鳥だ。


焼き鳥を作るときによく似ている。じりじりと焼かれて、ひっくり返される。これは焼き鳥の動きだ!


――でも、何故バドゥくんは焼き鳥になっているのか。


明日美は考え、そして思った。もしかして、これは真理の緊張からくる行動なのではないかと。そう思うと、自分だけがこの場に緊張しているわけではないと、勇気をもらえるような気がした。せっかく好意のある言葉を向けられたというのに、臆病な自分のせいでがっかりさせたくない。


「……あの、ありがとうございます。わたしも……嬉しいです」

視線を上げて絞り出したように紡いだ言葉に、真理は驚き、そして笑みを深めた。

そして手元のバドゥくんもピタリと止まった。


「よかった……!ずっと仲良くしたいと思ってたんだ!」


嬉しそうに言う真理は「わたしのことは真理でも--言いづらかったら山田でも、好きに呼んで」と興奮気味に言う。


「じゃ、じゃあ、真理……ちゃんって呼んでもいいかな……?」


「いいよいいよ!わたしは、明日美って呼んでいい?」


「え、と……うん!いいよ」


「これからよろしくね!」


覚えたての言語なのかと思うくらいに、カタコトな日本語を話す明日美を、真理は特に気にすることなく「そろそろ行かないとね」と、教室へと急かした。


あまりにも楽しいひと時に忘れていた。遅刻しそうになっていたことを。

焦りながら真理と廊下を小走りで教室に急ぐが、自然と頬は緩み、不思議なくらい明日美は楽しかった。

それは真理もだったようで「間に合わないかも」と横で言っている割には、どこか楽しそうだった。


とはいえ、本当に遅刻しそうだった明日美たちは小走りを全力疾走に変え、息を切らしながらお互いの教室の近くまで走った。

真理は「間に合った、ね」と言い「また、あとでね」と言葉を残し三組へ、その言葉に頷いた明日美は一組の教室に足早に入っていった。









その後は浮かれに浮かれた。


休み時間になると、真理はさっそく明日美のクラスやってきた。

真理は訳がわかっていない友人達を引き連れ、明日美の机を囲うようにして二人を紹介した。

二人は明日美と同じクラスだったが、全く話したことがなかった。

というのも、この二人は初日の自己紹介でも積極的には友人作りに取り組んでいなかったように思える。

明日美のように全く馴染めていないというよりは、クラスには馴染めているが、わざわざ新たなグループを作る気がなかった、という感じだ。


佐野さの明美あけみ

彼女はショートヘアーで落ち着いた雰囲気をもっていているせいか周りからは「佐野さん」と呼ばれている。

話したのは今日が初めてだが、彼女の話し方は簡潔でいて、速くもなく遅くもなく、落ち着いたテンポだった。

そんな彼女との会話は楽だったし、居心地がよいと明日美は感じた。

もう一人は藤崎ふじさきあかね

ぽっちゃりと言われるのは、彼女のような女性なのかもしれないと明日美は思う。

ふっくらとしている身体は曲線を描いており、相手に優しい印象を与える。そして優しい印象を強めるように、毛先が内巻きになっているのも彼女に似合っている。

趣味は美味しい食べ物を食べることらしく、美味しいお店や、料理も得意だという。

そんな女性らしい彼女は、女子が好きそうな恋愛の話など、さまざまな情報にも敏感な女の子だった。


三人は小学校で出会い、そしてそのまま高校までも同じと聞くから驚きだ。

タイプは別だが、何故か気が合うと三人は笑って言っていた。

そんな仲の良い話を聞けば聞くこどに、明日美はこの中に入れるだろか――入ってもいいのだろうか、と思ったが、そんな不安を打ち消すほどに三人は温かく迎え入れてくれた。



二人のことは『佐野さん』と『茜ちゃん』と呼ぶことになった。

佐野に関しては名前で呼ばれるのが、苦手なようだったので、例に習って苗字で呼ぶことになったのだ。

一方、佐野と茜は明日美を意外だったと、驚いていた。どうやら明日美ことを、あえて独りでいると思っていたらしい。

そんな訳がないと、明日美は言いたかったがいつも受け身でいた自分を振り返ると、口が裂けても言えそうにない。そう思われても仕方がないのだ。

実際、今日だってただの偶然だ。真理が話しかけてくれなかったら、こんな風になることはなかった。


せっかくもらったチャンスを今度こそ無駄にしたくない。

明日美はこの偶然に甘えることなく、失うはないように、今後は自分からも話していきたいと思った。










楽しい時間はあっという間に終わる。

チャイムが鳴り、先生が終わりを告げると、教室はとたんに賑やかになった。

今日は授業すら楽しかったと明日美は心を弾ませた。その証拠にノートに書かれた文字すら、生き生きとしているようだった。




「今日、空いてる?」

茜が明日美の席に近づいてきて聞いた。

初めてのお誘いに、心が弾むどころか飛び出しそうになるくらい嬉しかったが、明日美は先約があることを思い出し苦い気持ちで断った。


「……あ、今日は……あの、ごめん!…………でも、また誘ってほしいです」

「あすみん来れないか〜。じゃあ、また誘うからその時ね!」


茜は気軽に『あすみん』と呼ぶ。呼ばれるたびにくすぐったい気分になるのだが、短時間で親しものになれた気がして、嬉しくもあった。

茜は残念そうにしながらも、最後には明るくいい終えた。集まってきた二人に茜は伝えると、同じように残念な顔をしたが、すぐに明るく次回を楽しみにしていると言ってくれた。

いたたまれない気持ちになりながらも、そんな三人に安堵しながら、手を振り、別れた。


クラスの人たちは明日美の周りの変化に、最初の佐野や茜のように意外そうな目で見ていたが、明日美はもうなにも気にならなかった。


――友人がいる!なんていい響きなんだろう。


明日美は酔いしれるように、学校を後にした。

いつもの鈍足が嘘のようだ。高揚が足どりを軽くする。まるで風を切るように歩いた。無表情のまま、ただひたすら。


早くあの不思議な少年――要くんに会いたかったのだ。


何故、バドゥくんのシールを背中に貼ったのか。何故、あの時うまくいくと言ったのか。

色んな疑問がまた湧いたが、なによりも今すぐお礼が言いたかった。

カチカチに固まったお兄さんの髪の毛を、すれ違い様に僅かに乱れさせたのを感じると、いよいよ都会に染まってきたようだ、と明日美は誇らしげに思った。


ただ、駿足とは日々の暮らしの中で培われるもの。

慣れない早歩きに鼓動は早まり、次第に鈍足の本性露わすのにも時間はかからなかった。



息も絶え絶えマンションに着くと、入り口にすでに要が佇んでいた。華奢な体に細い手足。まだまだ成長するであろう幼い顔。

ただマンションの一角で立っているだけなのに、まるでキッズモデルのようだ。


「――ごめん。おまたせ、しちゃったね」

「今きたところだから大丈夫」


幼さが溢れる外見とは裏腹に要は大人だ。


――いつから待っていたんだろう。私がもっと遅くてもずっとここで待っていたのかな――。

「ありがとう」と言うと、ただ微笑みかえす要の慣れたような優しさに、何故か嬉しさよりも、胸がチクリとした。

不思議に心の中で首をかしげると、早々に下校途中に買ったお菓子を手渡した。


要は興味深そうに、渡された袋を受け取る。

「……クッキー?美味しそう!」

明日美は頷く。そして思ったよりも喜ぶ要にほっとした。味覚まで大人びていて、甘いものが苦手だったらどうしようかと思っていたのだ。

要はじろりと明日美をみて聞く。

「喉、渇いたでしょ?」

なんだかこの流れは否定した方が良さそうな気がした。

「……大丈夫だよ!」

要はへえ、と言ったような顔つきになる。

「そう?こっちにくる時走ってくるのが見えたんだけど……。――本当に喉、乾いてない?」

質問に強い強制力を感じて、明日美は慌てた。


「せっかくだし、一緒に食べよう」


笑顔を向けられたまま、要は明日美の手を握った。

さらに慌てた明日美だったが、手を引っ込めようとしたが、華奢な手は意外に力強く、振り切ることはできなかった。




「さあ、行こう」

明日美は振り回されるように手を引かれ、マンションの中に消えた。

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