第3話


カーテンから眩い光が差し込む。

昨日の雨は、夜にはすっかり姿を消し、嘘のように快晴になった。

今日も一日が始まる。


明日美は重たい身体を起こし身支度をはじめる。寝癖を直し、制服に着替え、静かに朝食を食べる。

咀嚼そしゃくを繰り返していると、ニュースは昨日の豪雨のことを報道していていた。

記録的な雨量だったということで、原因と被害を専門家が解説している。

被害をさらにわかりやすく説明するために、アナウンサーが豪雨の中、カッパを着て実況している場面もあった。


明日美はそれらを何の感慨もなく、咀嚼し見ていた。


「いってきます」といった顔は、晴天に似つかわしくなく、あまりにも頼りないものだった。

あのアナウンサーの様に豪雨に打たれる方が幾分楽だ、と明日美はジメジメと湿っぽく思う。


明日美は侮っていたのだ。己のコミュニケーション能力の低さを。中途半端な時期の歩とは違い、せっかく心機一転できそうなタイミングで入学したにもかかわらず、そのチャンスをドブに捨てた。


今まで友人というものに、縁遠いところにいた。

明日美はある時期から話せなくなり、暗くなった。そうした空気に子どもは非常に敏感で、すぐに広がる。気づけばまたひとり、またひとりと友人を失い、ついには友人と呼べる人はいなくなっていた。


だが、そうは言ってもクラス替えなどで、新しい出会いはやってくる。

しかし、その全てのチャンスさえも無駄にしてきた。というよりも、その時は明日美自身に友人を作る勇気がなかったのだ。


そんな明日美であったが、転校を余儀なくすることになった明日美は、この生活に終止符を打つつもりで意気込んでいた。――とはいえ、現実は甘くはない。いざ話そうとすると、今まで友人がいないツケが回ったのか、挙動不審になり、全く話すことができなかった。

なにより、初日が勝負と思ってたのに、遅すぎたのだ。

眼光に広がったのは、二人、三人組と、グループがすでに出来上がっている光景だった。――そう。今や、SNSなどで入学前から友人になっている場合が大半だった。


だが、新たな出会いはそれだけじゃない。

むしろあらかじめ仲良くなっていた人達は、すでに独りじゃない余裕からか、色んな人に積極的に話しかけていた。


――チャンスは、まだある……!


崩れかけた気持ちに、一筋の光が差し込むように、明日美の元にさっそくチャンスは訪れた。

明日美は運良く話しかけられたのだ。メイクをバッチリと決め、明るい色に髪を染めた――所謂いわゆるギャルの子達に。


見た目の違いに、初めこそ圧倒されたが、そんなことは明日美にとって大して重要じゃなかった。

やっと、友達ができるかもしれない――!

ドキドキと高鳴る胸の鼓動が、いつもより速くなった気がした。


速く。速く。速く――とても…………速い。


明日美は気づいた。

この速さは決して自分の鼓動の速さだけではない。むしろ彼女達の会話の速さだと。明日美の鼓動は、単純に彼女達の速さに追いつこうと、どぎまぎしているだけだと。

しばらくの間、速すぎる彼女達の残像と会話していた明日美だったが、相手も噛み合わない会話に口のスピードを僅かに緩め、怪訝な表情をした。

鈍感な明日美ですら、相手の感情が手に取るようにわかった。

しかし『なんか違う』そう思ったはずなのに、彼女達は大人気なく去ることはせず、笑顔のままごく自然に明日美の元を離れていった。


その優しい態度は明日美を傷つけることはなかったが、少しだけ期待もさせた。

もしかして、勘違いだったのかもしれないと――。

だが、それから彼女達から話しかけられることはなかった。


静かに落胆し、その落胆は日に日に積み重なっていくようだった。

なにより悲しいのは、それが彼女達だけに限ったことではない、という事実だった。

優しいギャル達と話した後も、何人かと会話をしたにもかかわらず、皆一様に笑顔で明日美の元を去っていく。


そして今日に至るまで、必要以上のことは話しかけられていない。


初日のチャンスをものにできず、むしろ最悪なものに変えた。明日美はふざけてる訳ではなく、真剣だったからこそ落ち込んだ。

今までと違い、友人を作る勇気も覚悟もある程度していた分、落胆が大きかったのだ。



一体なにがいけなかったのか。



すっかりグループは固定化し、完全に孤立している。

今の明日美の立ち位置はいじめられているわけでもなく、ただ単に独り。

この状況を例えるなら変わり種のおにぎりだと明日美は思う。最初は興味本位で手に取られるが、中身が合わない気がして、結局買われない。そしてその物珍しさが消えたら、とうとうお終いだ。

ただ、空気のように、陳列されているおにぎりたちの引き立て役になるのだ。


コンビニでおにぎりの変わり種を見かけるたびに「アレは私だ」と明日美は親近感と切なさが入り混じった微妙な気持ちでおにぎりを見てしまう。


他のおにぎりからみれば、なんて不憫なおにぎりだ、と同情されているだろう。

そして、人間の明日美はもしかしたらそれ以上の不憫に思われているのかもしれない。


昔の話だが、同情に似た感情を感じたことがあった。

それは特に休み時間や、給食を食べているときに、よく感じた。

互いに机を引っ付け、誰一人として寄ってはこないのに、盗み見するように、同情めいた視線を寄越すのだ。

そのくせ、口元は笑みを隠せず、歪んでいる。

明日美はあの表情が苦手だった。自分がより惨めになるようで、ただ味のしない給食を食べるのに集中するしかなかった。


ただ、あの頃の方がマシなのかもしれない。

空気になっていく今は、惨めではないが、存在が消えてしまいそうな虚無感がある。


前と同じことにならないように――

明日美は首を横に振り、ジメジメした気持ちに喝を入れる。

だから、今度こそ――と思いながら。



「おはよーうございまあーすっ!明日美っ」


凛とした高い声が後ろから、場違いなほど響いた。

驚いて後ろを振り返ろうとしたら、立ち塞がるようにもう目の前に立っていた。

毛先だけ柔らかに癖がある髪は、光が当たってさらに色素を薄くする。そんな少年は、どこか幻想的でより一層、美少年に映った。


なるほど。確かに足が速い。

そう明日美が感心したのも、束の間。


――かなめくんじゃないかっ!


明日美はハッとしたように目を丸くすると、昨日悩ませた要を見下ろした。


「いやぁ、朝から偶然です。昨日まで全然会わなかったのに、まさか今日も会えるなんて――友達になったからかな?」


昨日の豹変はひょっとしたら、気のせいだったかもしれない、なんてどこかで思っていた明日美はそんな淡い思いさえも打ち砕かれた。

無垢な少年の影は今やどこにもなく、達者な口だけが器用に動く。


「それにっ!明日美と同じマンションに住んでるなんて――」


昨日の豪雨であまり気づかなかったが、要の声は大げさで大きい。明日美はテンションの違いに、思わず後ずさりたくなった。


「――感動しちゃった。『運命』ってあるのかな?」


マセた口調に冗談の響きが感じられず、明日美は思わず顔が引きつる。


「ちょっとぼくらって『特別』な気がするなあ」

「……そんな……大げさだよ」


明日美が口を開けば、要は満足そうに笑う。

「そうかな?ちっとも大げさじゃないよ。だって同じ建物に住んでるってことは、大きく言えば『共同生活』みたいなものでしょ?友人であり家族みたいだよね」


「…………やっぱり、大きく言い過ぎてるよ」


明日美が指摘すると「はは。そうだね」と可笑しそうに笑い、要は考える仕草をする。


「でもやっぱり家族になるのは早すぎるから恋人――みたいなものなのかな?」


冗談めいた言葉なのに何故か熱が込められて、見つめられた瞳があまりにも美しい――



「――あのっ!ハ、ハンバーグッ!」

明日美は、ぼんっと顔が赤くなったの感じ、慌てて話題を変える。小学生にからかわれて、真に受けてしまったようで恥ずかしい。


「…………ハンバーグ?」

「あ、と……うん。ハンバーグ食べたかな、て。昨日楽しみにしてるって言ってから」


ぽかんとしていた要は、突如顔を伏せて震え出す。

その様子に明日美は何か良くない質問をしたのかと、不安になった。


もしかして――夕食はハンバーグじゃなくて、給食で食べたばかりのカレーだったのだろうか。ハンバーグを期待して、連続でカレー。

明日美は打ちしがれる要に駆け寄った。


肩を揺らし、泣くように声を押し殺す要を、明日美はどうしていいかわからず、彷徨った手を優しく要の頭に乗せ、撫でた。

すると、肩はさらに震え、耐えきれないという様子で要は声をだして笑った。


「あー、そう言えば言ったね!食べたよ、ハンバーグ。すごく美味しかった」


未だ笑いが収まらず涙目で答える要に、明日美は呆気(あっけ)に取られる。


「……泣いていたんじゃないの?」


要は吹き出すように「なんでそうなるのさ」とまた笑い始める。

どこか、からかわれた気になった明日美は不服そうに顔を顰(しか)めたが「もう、やめて」と要の笑いを誘うばかりだった。









「あの、昨日は本当にありがとう」

要が落ち着いたの見計らって、明日美は要に話し始めた。

「お礼のお菓子をもっていこうと思ってたんだけど……何が好きかな?それと、今日でも大丈夫かな?――あと、あの傘も返したいし……」

昨日、多恵子に傘が見つかり事情を話すことになった。

そしてお礼をしなさいと散々言われたのだ。

明日美自身、そのほうがいいと思っていたが、まさか遭遇するとは思わなかった。

要の住んでいる部屋を明日美は知らなかったから、表札を頼りに探そうと思っていたところだった。


「傘は本当にあげる。もう明日美のものだから、返されても困るよ。カッコ悪い男にさせないでよ」

すっかり笑いも収まった要は、やれやれ、と首をふり、大げさに振る舞う。

わざとらしいオーバーリアクションだが、全く嫌味がなく、不思議とよく似合うと明日美は思った。


「でも……」と言いかけたが、要の目がそれ以上言わせまいと、目に力を込めるものだから、明日美は口を噤(つぐ)んだ。

満足したように要はにこりと笑うと「今日で大丈夫。お礼は明日美の好きなものでいいよ」と言い、明日美はしぶしぶ了承した。




「じゃあ学校が終わったらマンションの前で待ってるから。それと、明日美――」


「わかった。――ん。な、なにっ?」


いつの間にか要の顔が近くあり、明日美は狼狽える。


「顔が暗かったけど――そのままの明日美でいればきっとうまくいくよ。なんたって僕が『運命の人』なんだからさ」


吸い込まれるような瞳に息も出来ずに、ただただ糖分だけの甘い言葉を耳に入れる。

要はピシリと固まった明日美の背中をとんっと励ますように触ると、駆け出していった。


「それじゃあ、また。学校おわったら――」


遅刻しないでね、と手を振る小さな要くんがさらに小さくなっていくのを、昨日と同じように明日美は固まったまま動かず見ていた。





その時、ひゅう、と春の風が髪を乱す。


「今、何時……?」


明日美は要の最後に言った言葉が今になって嫌な胸騒ぎを呼び起こした。

時間を確認すると、青ざめた。


こうして要と同じように明日美も学校へと駆けて行ったのである。

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