第2話


「あっ!ちょっと!待って、待ってっ!」


玄関のドアを開けると、ただいまと言う前に、慌ただしく明日美の母、多恵子たえこが駆けつける。

ばたばたと音を立てて、わざわざ駆けつけたのは、明日美の悲惨な姿のせいだろう。

ぐっしょりと濡れた制服からは、ぽたぽたと雫が滴れ、今来たばかりだというのに、すでに玄関には小さな水溜まりを作っている。


夕食を作ってる最中だった家の中は、鼻腔をくすぐるいい匂いが立ち込めていた。

そしてなにより温かくて、明日美は張り詰めていた気が抜け、ほっと安堵した。


多恵子は濡れた明日美をぐるぐるとタオルで巻きつけ、乱暴気味に頭を拭く。大雑把だと思いながらも、やっといつもの日常に戻れた気がして、明日美はこの時ばかりは嬉しく思った。



「……ただいま」

「ああ、こんなに濡れちゃって、風邪引かなきゃいいねぇ」


確かに風邪を引きそうだ。思い出したら急に寒くなってきて、身体が震える。

そんな明日美に多恵子は心配の色を眼差しだけに留め、急かすように話す。

「もう少ししたらあゆむ帰ってくるから、あんた先にお風呂入っちゃいなさい」

「……そうする」





お風呂までの道を、床が濡れないように多恵子はせっせとタオルで道を作った。

靴下を脱ぎ、床が濡れないようにその道をそろそろと歩く。

バスタオル、フェイスタオル、雑巾。

お風呂場に近づくにつれ、道が乱雑になっていくのが実に大雑把な母らしいと思う。

たださすがに、そんな明日美も苦笑した。

お風呂場にたどり着く、最後の一枚を踏む手前で。


これ、父の服じゃないか――と。


「じゃ、ゆっくりね!」

タオルの道を作っていた多恵子は、明日美が無事床を濡らすことなく、たどり着いたのを確認すると、置かれた服を気することなく――それどころか服の端を踏んで、お風呂場から出て行った。


――ああ、可哀想。


バタン、と閉じたドアの音を聞きながら、明日美は静かに父の祐三ゆうぞうに同情した。








濡れた服を脱ぐのは思いの他、気持ちが悪い。

脱ぐときにぐっしょりと濡れた襟元が、顔をなでるようにまとわりつくからだ。まるで大きな怪獣に顔から頭まで、ひと舐めされているような気分だと明日美は顔をしかめた。

だが、それも上半身に限っての話だった。

スカートを脱ぐ時は、うっとおしいよろいを脱ぐような爽快感だけを与えた。


だが、明日美は今しがた脱いだ制服を持ちながら思った。果たして明日、着ていくことはできるのであろうか――と。

この水分を吸った生暖かい制服と、ちょうど同じくらい気が重くなる。


「へっくしゅんっ!」

何も纏っていない身体が、抗議するようにくしゃみをする。

そうだ。今は明日の心配よりも目の前の現実。制服のことは多恵子に全てを任せよう。半ば投げやりに思考を手放す。

明日美は、お風呂、お風呂、と急かす心に身を任せ、カチカチに冷え切った身体をシャワーで溶かすように浴びる。

あの滝行のような冷たい水とは違い、身に当たる熱を持った水は、全体をほぐしていく。

同じ水だというのに、温度と速度だけでこんなにも与えるものは違う。


清めた身体で湯に入ろうとしたが、まだ冷えた身体には熱く感じ、慌てて足を引っ込める。引っ込めた足は行き場を無くしていたが、少しずつ足を付けていたら、徐々に身体が順応していくのがわかった。

そうやってやっとの事で、お風呂の中に身を沈めると、得も言われぬ幸福に包まれる。


――あったかい。


しばらく幸福に浸かっていると、明日美は熱を取り戻し、氷のように固まっていた思考が復活していく。そしてやっと向き合える気力がでてきた。


――あれは、なんだったのか。


北崎きたざきかなめくん。思えば要くんはどこか変だった。明日美は先ほど出会った少年を思い返す。

今考えるとおかしいのだ。――全てが。


そもそも、偶然同じマンションに住む私たちが、あの場所で偶然に知り合うなんてことが、あるのだろうか。

要くんは初めから私を知っていた?――でも、それがどうしたのいうのだろう。知っていたからといって親切にする理由は見つからない。



理由――



『ぼくと友達になってくれる?』

微笑みを浮かべながら言った少年の言葉を明日美は思い出した。


まさか、そんなはず……!


明日美は今しがたした馬鹿な考えを打ち消すように首を振る。

わざわざ偶然を装い、傘を貸す。そんな手の込んだことを、友達になりたいからといってするはずがない。

でも何故……思考は堂々巡りになり、困惑するだけだった。



そもそも、どうして少年は濡れていなかったのか。

少年はは予期せぬ雨だと言うのに、『傘』を持っていた。誰もが濡れている中、少年は何ひとつ濡れていなかった。

もしかしたら、たまたま傘を買える建物の中に入っていて、傘を買ったのかもしれない。

実際そういう人を明日美が目にしなかっただけで、何人かいたことだろう。


でも、どうしたっておかしい。――『長靴』まで履いていたんだから。


マンションへ駆けていく少年は、別人に豹変した違和感よりも、なによりその格好で確実な違和感を残した。

明日美と少年が住んでいるマンションからあの場所まで大体20分はかかる。

そして、声をかけられたのは雨が降り始めて少ししてからだった。5分も経ってはいない。だから家に戻ってから、あの場所に行くということは不可能なのだ。


明日美は消化不良の違和感を、どうにか消化したくて、考える。

傘は途中で買った。そう、納得しようとしても思ってしまう。――では、長靴は?と。

あの長靴が『奇妙』拍車をかけるのだ。


雨が降る前はあんなにも晴天だったから、まさか長靴で登校したわけでもないはず。

それなら傘と一緒に長靴も買ったのかもしれない。

だが、明日美の仮説もすぐ打ち砕かれる。


――じゃあ、履いてた靴はどこに?


考えば考えるほどに、謎は深まっていく。

明日美はもやもやした気持ちを晴らすように、湯をすくいとり、顔にバシャッとかけた。

そもそも小学生が傘はともかく、長靴まで買うのだろうか。

――それに傘だってあったじゃないか。使うのは嫌だとしても、折りたたみ傘があるのに、わざわざ傘を買う必要はあったのかな……。


家を出る前に見た天気予報でも一日中晴れることでしょう、とお姉さんが言っていた。

そしてそれを疑う余地もないくらい晴れていた。

けれど、現れた少年は重装備な上に、装備を分けてくれるという用意周到さ。





これじゃあ、まるで最初から雨が降って入るのを知っていたみたいじゃない――







明日美はそこまで考えて、馬鹿馬鹿しくなった。


――やめた、やめた。


ぶくぶくと沈没していく船のように、顔をお湯に沈めて思った。

考えれば考えるほど、わけがわからなくなるだけ。答えを知らないのに、答えを探すことが、どれだけ馬鹿馬鹿しいことなのか、と顔をしかめた。


あの豹変したように思えた口調も、雰囲気も、緊張から素を出すことができなかったんだろう。

きっと私のように友達がほしかったんだ。


傘は途中で買った。長靴に関しては、きっと履いてく靴がそれしかなかったんだ。小学生だし、色々と消費が激しいのかもしれない。成長期で合わなくなった、ということも考えられる。

たまたま、居合わせて親切心が疼いた。――それだけ。きっとそれだけだ。




明日美はそう結論付け、不毛な答え探しをやめた。

そう結論付けてしまえば、不思議は消え、代わりに、疑問を追求したかったのは己の弱さからくるものだと思えた。

変わり映えしない日常を、どこか『特別な日』にしたかったのかもしれないのだと。







明日美はまた明日からくる変わり映えのない日常に、気まで沈まぬうちに、お風呂場を後にした。



















リビングに着くと、不機嫌そうにタオルで頭を拭く、びしょ濡れのあゆむがいた。

目が合うと顔をしかめ「遅い」と一言不満を漏らし、足早にお風呂場へ去っていった。

もちろんここでも多恵子の道は作られており、祐三の服も犠牲になっていた。

明日美は「ごめん」のごの字も言えずに、立ち去っていった歩に顔を曇らせる。


一つ下の弟の歩は、中学三年生。

反抗期をさらに助長させる絶妙なタイミングで転校したこともあってか、最近は特に機嫌が悪い。

元々の性格がそこまで良いというわけではないが、イライラした雰囲気がない分、よっぽどマシだと明日美は思う。


明日美の家は会社員の祐三ゆうぞう、時々パートをこなす主婦の多恵子たえこ、五つ上の自由な姉の今日子きょうこ、反抗期のあゆむ。この五人家族で成り立っている。


大学生になった今日子は二年前から一人暮らしをしており、現在は四人で住んでいる。

いつも明るくおしゃべりな今日子が消え、食卓はずいぶん静かになってしまったことが、明日美は少し寂しいと感じていた。それは、明日美に限ったことではない。家族全員が思っていたことで、特に弟の歩は年が離れた姉の今日子を慕っていた。


今日子は誰からも好かれるのだ。きっと今日子がいたら歩の反抗も今ほど刺々しいものではないだろうと、明日美は思った。







「雨、やっとやんできたよ。まったく。タイミング悪い雨だったねぇ〜」

多恵子が夕食をテーブルに運びながら言う。


「本当だよね。おかげでかなり濡れちゃった」

明日美は苦笑いしながら、多恵子に同意する。


途端、皿の上に乗った茶色い楕円(だえん)が目に飛び込み、思わず心臓のバッタが逃げ出しそうになった。




『今日は大好きなハンバーグなんです』


そう言ってニコリと笑う少年の顔が、頭から離れない。












明日美の目の先にあったのは、紛れもなく『ハンバーグ』だったのだ。

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