ラーク -時のほし-

真中 はじめ

第1話

「あ、くる」


どこか遠くで銃声が鳴るように、耳の奥でパンッと音が弾けた。

同時に『逃げろ』と本能に訴いかけてくるような、ざわざわとした不快感が身体中を覆った。





――きっと何か起きる!







そう、直感して空を見上げた明日美あすみだったが、何かが起こる気配は微塵みじんも感じさせない…………。

青い空。心地よい風。 ぽかぽかの太陽。

この見事なまでに陽気な天気。不穏な気配は全くといっていいほど感じられない。

明日美は変わらないその様子を見ていると、降り注ぐ紫外線が急に気になりはじめ、顔をじわじわと火照らせる。

…………いや、もうやめよう。

人混みの中、意味深な言葉を発しながら立ち止まって空を仰ぐ。いくら昔よりも人に対して希薄きはくと言われてる現代でも、この光景はなかなか痛い。そして恥ずかしいものではないだろうか。


実際に横目でチラチラと感じる視線は、自意識過剰からくるものではないだろう。

その目は語っている。「何やってるの?」と――。




明日美は逃げるようにその場を後にした。

だが少し歩くと、ぽたぽたと水滴を感じ、思わずまた空を見上げた。

すると突然けたたましい音をたて、大粒の雨が襲ってきたのだ。


「え?」

言えたのはそれだけ。

滝行のような雨を顔面に、そして容赦なく口内まで施され、明日美は瞬発的にお辞儀をするように身体を曲げた。


目がっ、痛いっ!!


眼球が水圧で打撲してないか心配になるほど、目が痛かった。降り注ぐ雨が攻撃的に眼球を叩きつけたのだ。


「ゴホッゴホッ」

くわえて、出す必要がなかった言葉のせいで、呼吸すらままならない。

呼吸を整え、ビッシャビシャに濡れながら、痛む眼球を押さえて辺りを見る。



明日美は驚いた。一目散に逃げていく人、騒がしくなる音。まさに、バケツをひっくり返すくらいの雨が降ってきたのだ――。

















――これで、よし。


やっとの思いで屋根のあるところを探して、明日美は濡れたハンカチを絞り、顔を拭った。

それにしても――あんなに身体を犠牲にしなくても、最初から屋根のあるところで、みればよかった。

安全な屋根の下から見た景色は、不思議なものだった。

晴れているのに土砂降り。と言ってもよくある天気雨というものじゃない。こんなに土砂降りで、ここまでの雨量が多い天気雨を見たことがなかった。

知らないだけで、世界のどこかではよく起きる光景なのかも知れないが、明日美の目にはどこか神秘的にも異質にも映った。


まるでマジックをみてる時のように、どこかにタネがあるんじゃないかと探し見ていた明日美だったが、しばらくすると太陽は消え失せ、雨雲が出てきて、普通の豪雨となった。





どうやって帰ろう……。

明日美は濡れた身体でため息をついた。一気に憂鬱な現実に戻るようだった。アスファルトに恨みがあるじゃないかと思うくらい攻撃的にぶつかる様は、天地の戦争を見ているようだ。

戦地に赴くには――武装が弱すぎる。

とはいえ、こんなに濡れてから今さら傘を買うというのも、どうだろう……。


――勿体無い。


戦地に行く勇気も、武装する手間も、費用すらかけたくない明日美は、そっと考え、決めた。

もうしばらく、安全地帯の屋根の下にいよう、と。







「ちょっと、なにこれっ」

「もう、最悪〜」


明日美は場に相応しくない楽しげな声色につられて視線を上げると、戦地にいながら、楽しそうにはしゃぐ学生たちがいた。

彼女らは「最悪」と言いつつ、全くそう感じさせなかった。それは伸びた語尾に音符がついているからだ。

晴れた日以上に楽しそうな姿に明日美は羨ましくなった。彼女たちにとって、こんな雨『戦地』でも『滝行』でもない。

音符を誘い出す、楽しいハプニング、なのだ。


――じっとりした目で彼女達を見つめる。

そして、そっと視線を外した。友達がいればそのくらい軽く、楽しいものに変わるのかと暗い気持ちになったからだ。



「……へっくしゅんっ!」

すっかり暗くなった空に、濡れた身体がぶるりと震えた。

濡れた身体には芯から冷やすほどの寒さだった。


これほど寒く、彼女たちみたいに帰ろうと思えば帰れるのに……明日美はますます帰る方法を失っていた。

あんなに楽しく帰れるなら――あんなに楽しく帰れないなら……。

豪雨の中惨めに帰るよりも、せめて普通に帰りたいと、そう思ってしまったからだ。






「お姉さん、ぼくと一緒に帰りませんか?」

凛とした声が、心を読まれたかと思うほどタイミング良く響いた。

その響きは明日美を驚かせるのには十分だった。心臓にバッタでも入っているんじゃないかと思うほどよく飛び跳ねた。



「傘、使いませんか?」

声の方に視線を下げると、目の前には傘をさした小学生の男の子がいた。だいたい低学年くらいだろうか。

小首を傾け、ニコリと笑う顔が眩しい子だった。

ハーフなのか整った顔立ちに、色素の薄い茶の髪。柔和な瞳が不思議な色合いをしてした。

こういうのをヘーゼル、というのだろうか。

珍しい綺麗な瞳をした少年は、ランドセルがよく似合う幼さを全身に纏っていた。


誰――?


明日美も小首を傾けたくなった。小学生の知り合いはいない。弟はいるが一つ下で、ここまで年の離れた子とは、まるきり縁がないのだ。


明日美は自分に向けられた言葉じゃない気さえしてきた。

何故なら、明日美の右隣にはおばあさん、そして左隣にはサラリーマンの男性がいた。……いや、男性はお姉さん枠ではないから省くとしよう。

ちらりと、おばあさんに合図するとおばあさんも目で合図していたのか、視線が混じり合う。


「あなたのことよっ!」

カチリと合った視線にすぐ反応したように、おばあさんは笑いながら言った。

「わたしは『お姉さん』って歳じゃないもの」

そう言いながら、 元気に咲いていた花が、突如としてしおれるような、手招きをする。

生と死を繰り返す手招きは、歳と謙遜する割にはあまりに素早い動きだった。

……このままでは、間違って誰か寄ってきそうだ。そう思うほどに。

そしてハッと思い出す。


――そうだ、少年!


少年はまだ目の前にいて、このやり取りを優しい顔で見ていた。

「お姉さん、どうしますか?」

目が合うと、優しさをさらに溶かすように、穏やかな声で聞いた。

「え、と……わたしのこと、かな?君が濡れちゃうし……大丈夫だよ」

明日美はやんわりと断ると、少年は笑みを深めた。

「平気ですよ」

へ?と素っ頓狂な声を出すより前に「ちょっと待ってください。今お姉さんの傘取りますから」と少年は言い、ランドセルから傘を差し出す。


少年がさしてる傘とは別の傘――可愛らしい女性物の折りたたみ傘を。



「…………」


明日美はこの状況に混乱した。

差し出された傘を受け取るか、受け取らないか、という選択よりも、何故そのような状況に陥っているのか、誰かに教えて欲しくなった。


そして、この状況が小首を傾げるようなものだというのに、目の前の少年は当たり前のような様子で終始ニコニコしている。

その表情からは、まったく意図が読み取れない。子どもの特有の素直な親切心なのか……。それとも、あいさつ運動ならぬ、傘配布運動が今時の小学生では当たり前なのか……。


だが、どっちにしても――


「悪いよ」

そう悪い。悪いのだ。


それに明日美は疑問だった。何故、私なのだろうかと。

女性物の傘ならおばあちゃんに貸してあげればいいじゃないか。わざわざこんなずぶ濡れの人に渡さなくても。


だが、明日美の言葉を聞いた少年は、あからさまに肩を落とした。

その顔からは笑みは隠れ、声にも幾分元気がなくなったように感じる。


「お母さんが間違えて入れちゃったんですけど、あの、僕が使うにはちょっと……」


濁した言葉に明日美は心の中で確かに、と頷いた。差し出された傘は、花が散りばめられており、少年が使うには可愛らしすぎるデザインだった。

たとえ、この美少年でもさすのを躊躇ためらいたくなるのも頷ける。

肩を落とした少年がさらに小さく感じて、受け取らなければ余計にこの少年を小さくさせてしまう気がした。


「僕はお姉さんに使って欲しいんです」

少年は自分が差している黒い傘から、顔をのぞかせて言う。

そして、懇願するように花の傘を、さらに明日美に差し出した。――ここまでされ、断るのはもう無理な気がした。


「まあ〜!偉いわね〜!せっかくだから傘借りていったらいいじゃない〜」

少年の話を関心したように聞いていたおばあさんが、そうしなさい、とでもいうような空気を出す。

おばあさんのその空気に加え、今か今かと受け取ってもらうのを期待してる眼差しを見ると、明日美は素直に受け取ることにした。



「……ありがとう。じゃあ、借りるね」

久々に感じる自分に向けられた好意は、くすぐったいような気持ちだったが、冷えた身体を少しだけ温かいものに変えてくれた気がする。



「どうぞ。ちなみに、僕の家はあっち方向なんですが、おねえさんはどちらですか?」

少年が指差す方向と明日美の家は同じ方向だった。

「あ、わたしもそっちです」

「そうなの?偶然ですね!――じゃあ、一緒に行きましょう!」

そうだねと頷き、傘を開く。

ばんっと音を立て、明日美の頭上にたくさんの花が咲いた。

普段使っている無機質な傘とは違い、上品で、素敵で、開いただけで気持ちが高揚するようだった。



おばあさんに軽く会釈をし、雨の中を少年という歩きだす。

せっかくの傘が壊れそうな勢いの雨だったが、高級そうな傘は頑丈に作られていて、なんとか耐えていた。


少しして後ろを振り返ると、安全地帯だと思ってた屋根の下は、降りしきる雨がまるで柵のようになって、監獄のようにみえた。

未だ囚われているようなおばあさんは、目が合うとまた手を振って、笑顔で見送ってくれた。


なんだか一人抜け出したみたいで、申し訳ない気持ちになった。

そして少年が傘を渡したくなった気持ちもわかるような気がした。




















少年は雨の中、声を張り、いろんな話をした。

今日は占いが1位だったこと。

それなのに宿題が多くて、1位な気がしないこと。

足が学年で速いこと。

小学四年生で9歳であること。

だけどもうすぐ誕生日がきて、10歳になるということ。

晩御飯のハンバーグが楽しみだということ。


豪雨で声は聞き取りづらく、話すときは声を張らなくちゃいけないこともあって、明日美はどの話にも短く返事をした。


明日美はこの社交的な少年の話をずっと聞いていたが、意外だと思ったことがひとつある。

てっきりこの少年は小学二年生くらいだと思っていたのだ。

体格が小柄で華奢なせいか、歳を聞いた時明日美は驚いた。だが、よく考えれば納得もした。

見た目は幼さを纏っているが、この少年の中身はとてもしっかりしているからだ。一見、少年が一方的に話しているようにみえて、話して見るとわかる。それは気まずくならないように、気遣いなのだと。



明日美はすでに濡れてる身体の上、季節はまだ四月中旬。実はずっと濡れた身体が体温を奪って寒気を感じていた。

傘からはみ出ている足元は特にひどいもので、水がたまり、歩くたびに変な音がして気持ちが悪い。

そんな状況でエネルギーを使う元気もなく、低燃費になってしまっていた。子どもに気を遣わせるなど、情けないが、そんな明日美に嫌な顔ひとつ見せずに接する少年は、本当に大人びている。




「名前なんて言うですか?ぼくは、キタザキ カナメっていいます。キタは東西南北の北で、ザキは山に――奇人……奇人変人の奇で北崎きたざき。そしてカナメは重要の要でかなめって書きます」


「要くんって言うんだね。わたしは、ヤマセ アスミって言います」


「漢字はどう書くんですか?」


「山は、よくある山で、セは……さんずいに頼る。それで山瀬やませ。アスミは--明日が美しいって書いて明日美あすみって書くよ」


「君に、――――だね」


「え?」


雨の音でかき消されて、聞き取ることができず、少年の顔を伺う。

ただ少年は傘を少しずらしただけで、続きを言うことなく笑みを深めた。


「明日美って呼んでもいい……?」

明日美は流れてしまった会話を追うこともなく、少年を見た。

身長の差から生じる上目遣いで、聞いてくる少年はまさしく無垢な子ども。


「せっかくだし、明日美って呼びたいな」


それなのに、いつの間にか砕けた口調と急な提案をする要は、どこか大人びていて明日美は動揺した。

そして自分の胸を落ち着かせるように、いいよ、と静かに呟いた。


「ほんとっ?!じゃあっ、僕のことは要って呼んでよ!」


嬉しそうに傘から顔を覗かせる少年を見たら、くすぐったいような気持ちになる。

そわそわとした気持ちを持て余しながら、雨の音でかき消されそうな声で明日美は呟いた。


「じゃあ……要くん、で」



















雨の中、少年の話を聞きながら歩く。

雨も止まらない。足も止まらない。そして少年の話も止まらなかった。


――最近の小学生ってすごいなぁ。

社交的というか……。子どもだから物怖じしないだけなのかな?

仲良くなるのに時間がかからない。

急展開に圧倒されていた明日美だったが、少年の話を聞きながら徐々に馴染みはじめていた。――途中までは。


明日美は傘の柄をぐっと、掴む。

だが、どうしても色濃くなっていく疑問は、誤魔化しようがなかった。

少年が指をさした時に感じた偶然。あの時の偶然はどれほど微笑ましいものだったか。見慣れた角を何度か曲がり、しまいには近所によく出る野良猫を見た時、明日美の疑問は違和感に変わっていた。

ただの偶然だと思っていたことは、歩くたびに違和感を含ませていき、どうもおかしいのだ。


明日美は父親の転勤で、3月にこの街にやってきた。

そして、目的のマンション――我が家はもうすぐそこ。明日美の視界に入るところまできていた。


あきらかにおかしい――。


この疑問はこの豪雨、そして突然現れた親切な美少年という、圧倒的なインパクトで、ずいぶん雑に処理されていたのかもしれない。

でも、さすがに気づいた。――行き先、同じじゃないか、と。

手汗が滲んできて、掴んだ柄をさらに強く掴んだ。


「――要くん。……傘、貸してくれて本当にありがとう。……わたしの家あそこなんだ」


マンションを指さした明日美を、少年は足を止め、見上げる。


「要くんの家もこの辺りなの……なのかな?――すごい偶然で驚いちゃった……!……あの、借りた傘も返したいし、要くんのこと家まで送り届けたいから、今家から傘持ってくるから、ちょっとまっててほしいんだけど大丈夫?寒い中ごめんね」


そんな偶然があるはずない。――そう思っているはずなのに、何故か明日美は緊張で早口になる。

少年は初めて自分からこんなに喋る明日美に面食らったのか、きょとんとした顔で見つめていた。

そんな少年を明日美もじっと見ていたら――奇妙な違和感に気づいた。

ゾッと背筋は冷え、頭がまた混乱しそうになる。


――こんな雨なのに、全く濡れていないのだ!


その事実に気づいた瞬間、明日美は表情を変えてしまったのか、それともまた偶然か、少年はにこりと笑った。

そのタイミングの良い笑顔に、心臓の中にいるバッタがまた飛び跳ねた。それも何度も、何度も。



「もうお互いの名前も知ったし、たわいもない情報も交換しあった。それに傘も貸した仲、でしょ?――このまま他人になるには、情報を知りすぎたし、知り合いと言うには情報が少なすぎる。それで、ちょっと提案があるんだけど――」


淡々と喋る少年は、本当に明日美が今しがた話していた少年なのかと思った。

ただ、別人のような口調で喋る少年から、目を離すことができない。

少年変わらない笑みを明日美に向ける。その笑みは口調と違い、何ひとつ変わらないのに、印象が大きく違って見えた。


親切心だけの無垢な少年の笑顔は、イタズラを仕掛けている子供のような顔に見えたのだ。



「僕と友達になってくれる?」



明日美は掴んだ傘を思わず落としそうになった。

ずっと求めていた言葉を、まさか小学生に、そしてこんな状況で言われるとは思ってもみなかったのだ。


ふいに、今まで雨から身を守っていたこの頭上に咲いた花が滑稽に感じた。

傘は明日美には幾分上品すぎた。それは明日美自身わかっていたことだし、素敵な傘貸してもらってる高揚感だけで、似合う似合わないは、さほど気にしていなかった。

だが、皮肉にも今だけは思った。――似合っている、と。頭に花を咲かせたような顔をしてる、今だけは――。




「あ、でも友達って自然になるものだよね。ていうことは、僕らはもう、友達――だよね?」


明日美に問いかけているのか、少年は自分に問いかけているのかわからないが、話は一方的に進み、そして勝手にまとまっていく。



「それとねっ」

少年が何か言い出す前に、冷えた身体の底から違和感が這い上がってくるような感覚を感じた。

それは、少年が歩き出す度に色を濃くしていった。また一歩、また一歩と――マンションに近づく。



「僕の家もここなんだっ」



また傘を落としそうになり、両手で縋(すが)るように傘の柄を握り直した。

くるくると傘を回して歩く少年に、明日美は目が回ってクラクラしてくる。捕獲される寸前のトンボのように。



「傘は友情の印にあげる。どうやら同じ屋根の下だっだみたいだし」



雨の音で聞こえないのか、明日美の返事を待たずに少年は話すのをやめない。

明日美は道中、短い返事だけを返してたことを今になって後悔した。したか、してないか、わからない返事を繰り返しても、嫌な顔せずに話を進める。

それは少年の気遣いだと思っていたが、とんだ間違いだったのかもしれない。


きっと少年にとってはどちらでもよかったんだ。そう思えるほどに、目の前の少年は淡々としていた。

明日美は結局、一言も発することができずに「じゃあまたね!」と言って、手を振り、マンションに走っていく少年をただ見つめた。

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