一滴の涙

 俺は木のなかに飛び込んだ。その木の肌が目前に広がり、まさに衝突しようかという時、緞帳が上がったかのように景色が開け、俺は気づけばICU《集中治療室》のベッドの上にいた。


 色々なチューブに繋がれて、心拍数を示す装置がうるさくアラームをたてているなか、側の医師や看護士たちは立ち尽くしていた。もう長くないのだろう。


 俺は確かに彼女から拒絶を感じた。近づこうとして、斥力に阻まれる感触を受けた。それでも俺は近づこうとする。


「助けて、ながれ


 うわごとを言うように開かれた口は、確かに俺を呼んでいた。それはこの斥力とは矛盾するものだった。


さやか?」


「ちくしょう、遅かったか」


 死神の声がした。爽の身体は水面に浮かぶ虚像のように頼りなく、ふわふわと泳ぎだしていた。爽は死にかけている。このまま口吸いができなければ俺は死神になり、爽は死んでしまう。どうしたらいい? 俺はどうすべきなんだ?


「琉、よく聞け。爽はお前に魂を分け与えた。しかしお前の魂は受け取っていない」


「どういうことです?」


 死神は顔を青くしていた。


さやかはお前が”口吸い”への用意がないときを狙って口吸いをした。お前だけを生かしてあくまで自分は死ぬ寸法だったのだろう」


 だとするとこの斥力は、俺が生き返ろうとする力なのだろうか。


「あの木にお前が飛び込んだとき、爽は口吸いを試みていた。そう知らせようとしたが間に合わなかった……しかし、お前をうつつに戻すという最低限の任務は果たせたようだな……」


 心なしか息を荒げている彼を振り返ろうとしたら、押しとどめられた。


「振り返るな、死神を目にするといけない。元に戻れなくなるぞ」


「そんな! こんな終わり方って」


 俺は叫んだ。結局俺は爽を救えなかった。そして恩人たちにろくに礼も言えぬまま俺だけが生き残ってしまうなんて。


「爽を守ってやれ」


 そう言い置いて死神の気配は消えた。名前も知らないまま行ってしまった・


「んあ……あなたとなら、夢を……私たちの夢を……か、かなえ……」


 唇が空を切るだけで言葉が続かない君に、俺は触れることもできないなんて。


 ヒーヒーと声帯を震わす能力を持たない息が病室にこだまする。いつもは愉快で騒がしい隣人たちもさすがの今宵は静かだ。


「夢を、ゆめを、ユメヲ私はッ」


 戯言ばかり口走る君の口を封じることもできないなんて。


 荒ぶる息、乱高下する心音、慌ただしく動く医師たち。


 ――そう、僕は彼らの頭上に居る。今にも死にそうな、たった一人のあの子を見つめて。


「あなたと一緒に生きたかった。けれどそれはあなたのためにはならないから。虐待を受けた私が琉の愛情を受けてはいけない、私はそれに見合った人間じゃないの」


 そう言っては咳き込む。血が彼女の淡いピンクのパジャマを濡らした。


「あなたの音楽は、世界のためにある……」


「馬鹿やろう、俺はお前がいてこそ音楽を作れるんだよ、お前は俺の何を知っているんだよッ」


 世界を支配する物理現象に抗いながら、俺は爽に近づこうとした。そうすると明らかに爽の意識は遠のいた。


「ちくしょう、こんな時まで俺は死神なのかよ……!」


「……りがとう」


 爽が何か言った気がした。


「ありがとう、ながれ


 ツー、ツー、と無機質な音がした。


 俺はたちまち俺を引っ張る力に身を任せた。今すぐにでも己の肉体で彼女の身体を揺さぶってやりたかった。せめて近づきたかった。俺はあの子を愛していたから。

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