口吸い

 豊かな海、鬱蒼と茂る木々のざわめき……そんな心安らぐ空間に俺は浮かんでいた。


 そこは泥から作られた人類の始祖がいた楽園だろうか。


 それとも俺は聖母に抱かれているのだろうか。


 いや、俺はさやかの意識の中にいる――元々俺はこの中にいたのかもしれない。


 爽が優しいのを感じる。俺が思い出したことを喜ぶように、小鳥が春の歌を歌い風が渓流の側で軽やかに渦を巻いた。


さやか……」


 呼ぶ声に応えるように森が揺れる。


「俺は、爽に幸せになってほしい」


 戸惑うように小鳥が歌を止めた。清らかな水がとめどなく流れる音だけがする。俺は静かになった森とは裏腹に心臓の音が高鳴るのを感じていた。


「――さやか、俺は君が好きだ。好きなことを忘れて、自分のコンプレックスから目を逸らすためにお前を好きだと言って利用した」


 ゲーム音楽のクリエーターに憧れ、しかし叶わない。そんな自分は佐藤翔琉の建てた豪邸をいつも避けて生活していた。だからこそ、思い出すのが遅れたのだろう、あの家に通い幼い爽と遊んでいた時期のことを。


「俺、ちゃんと思い出したよ。あの夜君に約束したこと」


 それまで俺は音楽は好きだったが、そこまで打ち込んでいたわけではなかった。あの日の夕方、爽が犯された日。爽は確かにながれに歩み寄った。そして言った。


ながれって素敵な名前ね』


さやか、ごめん』


『私ね、ながれの音楽好きだよ』


『……!』


 俺は思わず赤面する。佐藤翔琉の代表作のコード進行をそのまま模しただけの楽曲を、爽に披露したことがあった。


『そんな……あんなのただのパクリだし』


ながれの音楽はいつか人々を癒す福音になる。私の父親みたいに、音楽に蝕まれた人間もきっとながれの音楽なら救える。だから――』


 その日から琉にとって音楽は約束になった。一流になって佐藤翔琉の心を癒し、さやかを救うための一縷の望みになった。


「俺の音楽を、どうか聴いてほしい。それから、さやかが本当に死んでいいのか、考えて欲しい。俺は、お前を癒したいんだ」


「だめ」


 声が聞こえた。


「今私に聞かせたら、音が私のものになってしまう……あなたの音は万人のためにあるべきよ」


「お前を救えなくてなにが万人だ! 俺は認めない、お前が俺を残して死ぬなんて。生きて、今までの不幸を上回る幸せを君には享受してほしいんだ」


 サァ、と森の空気が冷えた気がした。辺りは暗くなり、まるで現実の森に夜が来たような薄暗さを醸し出す。


「あなたはわかっていない」


「なにがだよ!」


「あなたは、貴方の思う私の幸せを私に強制しようと思っている」


 ハッと琉は息を飲んだ。


「それは、佐藤翔琉が私にやったことと同じ」


「そんな……」


 何も言えなくなった琉に、残酷な静寂が覆いかぶさっていく。森が、少しずつ薄くなっていくのを琉は感じた。


ながれ! 今しかない、死ぬ瞬間、さやかの意思が身体に反映しない一瞬を狙え!」


 死神の声が頭の中に響いた。


「で、でも……」


「口吸いをしなければお前も戻れないんだぞ」


「わかりました……さやか! 俺は俺のエゴでお前と口吸いをする。文句は生き返ってから聞こう」


 琉は地を蹴り、ふわりと浮き上がった。暗闇のなか僅かに光を抱いていた一本の木に琉は迫る。世界はどんどん消滅していき、それは琉のすぐ後ろまで迫っていた。


さやか、俺の思いを受け取れ!」


 琉はその木に足から飛び込んだ。木は淡い光となって琉を包み込むように散らばり、そして霧のように消えた。

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