約束

記憶

 ICUに運ばれていくさやかを見ながら琉は記憶を辿っていた。どこかに、忘れている大事なことへのヒントが隠れているはずなのだ。


 何もないかもしれなかった。しかし、まだなにかできることがあると信じたかった。自分を置いたまま、爽が”死にたがっている”ことが信じられず、爽がこのまま死んでしまったとして、自分のせいであってほしかった。爽はあくまで生きたかった、それを自分が潰したのだという風にしたかった。


 さあ、と風が吹いた。下に見下ろす爽と担架と医師と看護師が、水面に映った風景のように平面にみえる。


「――やばいッ」


 死神タナトスの名跡を継いだ琉には、理論としては頭になかったが感覚でわかった。爽が死にかけている。実際、爽の魂は二次元の膜を介することで肉体から離脱しかけていた。


「そんな、待って」


 ゆらゆらと揺らぐ水面の下で、風景は流れるように動いているのに爽だけが静止画のように止まってみえた。


りゅう……』


 声が、聞こえた。ながれは思い出した。夢のなかで会った爽は、自分のことを”りゅう”と呼んだ。なぜだろうと琉は熱くなった頭を抱えるようにして記憶を辿る。


『りゅう……』


 バチン、と血管が破けるような音がした。割れんばかりの激痛が頭を襲い、ガンガンと心拍よりやや速いリズムで響くように痛んだ。


『ねえ、僕の名前ってなんで”ながれ”って読むの?』


 自分の声を録音して聴いたような奇妙な感じだった。しかし、これは”今の”琉の声ではない。自作のゲーム音楽を作ったときに自分の声を録音したことが琉にはあった。これは自分ではない――それでいて、誰よりも自分らしい。


 それが子どもの声だと分かるまでに時間がかかった。そしてその子どもの自分に相対しているのが、太く低い声。


「とう、さん?」


 父は物心ついたときからいないものと思っていた。


『着物の柄で川が嫌われるのはなぜだか知っているか?』


 なぜ急に着物を持ち出したのかわからず琉は戸惑っている。そんな息子に父親は語った。


『それはな……幸せが流れてしまう、そういう意味をもってしまうからだ』


 残念な意味で”ながれ”が父親の口から出たことに琉は不満げだった。そんな琉に微笑みかけて、父親は言う。小さい頃の琉にはわかっていなかったが、中空から一部始終を見下ろしている琉には父親の状態が理解できた。彼の顔は青白く、頬はこけ、頭にはニット帽をかぶっていた。


『でもな、父さんは思うんだ。川の流れは幸せも運んでくる。一方池はいくら幸せを蓄えても澱んでしまう。今ある幸せを醜態さらして守ろうとするより、将来幸せがお前たちにふりかかるように……』


 父親は胸を押さえて咳き込んだ。


ながれ、お前は幸せをさやかに運んでやれ』


 そこで意識が途切れた。

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