冷たい部屋
思念というものに引きずられて俺は真っ白な部屋に来た。
あの死神の最後の言葉が不可解で仕方がない。なんの健闘を祈られたものか。ともかくも、
ここはどこだろうか。いかんせん、真っ白なのだ。そこに空間の境があるということすら曖昧になるほどの、限りなく透明に近い白だった。ここは何なのだろう。現実か否かすらわからない。
ふと声が聞こえた気がした。靄がかって聞き取りにくい声が。その声の内容は読み取れなくて、根を詰めて聞き取ろうとしたら頭が酷く疲れた。俺は目をつむる。
――いや、寝ている場合ではない。俺は目の奥が絞られるような痛みを強いて思考の外側に追い出して、注意深く周りの動向を探った。
不思議な感覚だった。視覚だと思ったものが耳から聞こえたり、音楽が見えたりした。昔どこかで聞いたことがある。幼児は感覚の全てを脳の部分と対応付けられておらず、目で風景を見ているとは限らないと。俺は年齢を巻き戻されたのだろうか。
『
空耳かと自分の聴覚を疑った。俺に語りかける声がする。初めてのキスは自分が奪うだとか、恋人を連れてきたら追い出すとか、およそ生まれたばかりの赤子にふさわしくない話題を喜々として話す夫婦がいた。
俺は、爽を追体験しているのか……?
そういえば、爽の母親を見たことがない。これは爽の一家が幸せだったほんの一瞬の記憶なのだろう。そんなものを、見せて何をしようと言うのか。
『お前にたくさんの幸せがありますように――』
あの暴力親が、人並みに娘の幸せを願っていた。このありふれた幸福の絶頂にいる家族はいつから齟齬をきたすようになるのか、見当もつかない。俺が小さいころから、この一家は少しおかしかったと今になって思う。
少し視界が晴れた。俺はハイハイをしている。それをビデオに収める大きな人の影が、一つだった。この時点で母親はいないのか?
ビデオを片手に座る人は無口になっていた。突然彼はそれを畳みに叩きつける。
なんのための家だ、音楽だと彼はむせび泣いていた。妻を愛していたのだろう。それゆえに、妻を否応なく母親にした娘に複雑な感情を抱いているようだった。恐らく、恋人としての時間が短すぎたのだろう。娘である爽が生まれる前から、新進気鋭の音楽家として期待されていた若き青年は、愛する妻と授かった子のためにローンを組んで豪華な家を新築し、その意味の半分をあまりにも早くに失った。
ローンを組んで帰る場所を作ることで、彼の音楽には楔が打ち立てられた。その
青年はやがて、娘に母親の分の役割まで要求するようになった。
苦しかった。悪人は必ずしも極悪人ではない。勇者も魔王を倒すときに苦しんだのだろうか。
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