別れ

 あれほどの悪夢を見たのに、いい睡眠をとった休日の朝のようにさわやかに目覚めた。


 すべてが夢だったのかもしれないと思いつつ、目を開けたときにタナトスがいなければ寂しいとも感じた。この夢を機に、なにかが変わる予感も、わずかながらあったかもしれない。


「起きたか」


 タナトスは、今までにないほどの優しい声色で一言、言葉を発した。そしてしばし黙りこくる。いや、しゃべれなかったというのが正しい。


「……お前に話さなければいけないことがある。よく聞きなさい」


 明らかにやつれているタナトスを見て俺は動揺する。舅上司だとあれほど嫌っていたというのに。


「なんですか」


「お前は無事に死神となった。一方、お前はうつつに戻らなければならぬ。できるか?」


 肯定も否定もし難い問いだ。何をするのか、という情報が欠けているからだ。だが、タナトスは一向にその肝心の情報を明かさない。


「通過儀礼みたいなものが終わったんですね。でもなぜ言わないのです、なにをするかを」


「……言えば、お前は拒絶するからだ」


「ならやりませんよ」


 ぶっきらぼうに言う俺にタナトスは悲しげにしてみせた。やるというまで離さぬとも言った。俺はタナトスの真意を測りかねている。


「俺は……できればあの世界に帰りたい。でも、俺が帰ったら死神の系譜がまた絶たれることになる。”意味のない死”が増え死神の需要は高まるのに、通過儀礼を無事に終えた俺が逃げていいのか?」


 数々の魂が彷徨いここに行きついた。それを導く者が、いなくてどうする。ニートとして当たり障りなく生きていた俺が初めて持った責任感というやつである。それをタナトスは制した。


「お前には、救うべき命がある」


「……さやかなら、助けたところだ。夢のなかで会った。彷徨っていたが無事に帰れたと思う」


「想い人を殺せるか」


 唐突に、その言葉は吐き出された。俺は固まる。


「どういう意味だ」


「そのままの意味だ。お前は死神として初めての任務を無事に果せ」


 開いた口が塞がらない。なぜ身体に帰ったはずの魂を狩らねばならぬ。


「お前の想い人は、今も無念だろう。全身麻痺で動くのは首から上だけだ」


 だったらどうなんだ。首から上では幸せになれないのか。


「そして彼女は筆舌に尽くしがたい苦しみを抱いている。お前にそれが癒せるか」


 父親の虐待なら知っている。それを上回る幸福を与えてやればいいだけだろう。


「お前は忘れている。お前と彼女には接点があるのだよ」


「なにッ」


 俺の戸惑いを置いてタナトスは続ける。


「想い人を狩れ。さすればお前は元の世界に戻れるだろう」


 俺はタナトスの胸ぐらを掴んでいた。身体の制御が効かず、文字通り怒りに身を任せている状態だった。理由が知りたかった。なぜ爽を殺せば自分が生きるのか。なぜ自分じゃないといけないのか。しかし、それを聞く前に、死神タナトスは息絶えていた。


 俺は拳を持て余して、しばらく震えた。そしてそっと、タナトスを床に下ろし、作法として合っているのかは甚だ怪しいが、手を合わせた。

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