俺が死神になった経緯

その日

 ただの目立たないゲーム音楽マニアだった俺は、いつものごとく口うるさい母親に急かされて家を出た。


 いつまでもニートでいるわけにもいかない。そんなことはわかっているんだ。ハローワークに向かいつつ舌打ちする。作曲への憧憬をこんな薄汚い現実の上に重ねてしまう自分が嫌だった。


 佐藤さとう翔琉かける――日本のゲーム音楽の第一人者と言われ、RPGを中心とする様々な名作ゲームのサウンドディレクターを歴任した俺の忌々しき憧れ様の豪邸は、ついさっき夢は捨てようと決意した俺を嘲笑うようにいつもの曲がり角にそびえ立つ。


 佐藤翔琉の家は俺にとって特異点だった。近づこうものなら、身の程知らずな夢が膨らみすぎて身を突き破って霧散してしまうだろう。俺の体は口なき肉片に成り下がるに違いない。そんな無様な真似だけはしたくなかった。


 俺は佐藤翔琉の豪邸のある曲がり角の一つ手前を左に曲がった。工業団地を通りハローワークに向かういつもの迂回路だった。


「おーう、ながれじゃないか」


 とある町工場のおじさんがからかってくる。俺は一応このおじさんの姪っ子に惚れていることになっているのだ。――劣等感であの屋敷の前を通れないなんて言えるわけない。


さやかなら友達と遊びで出掛けてんぞー」


 間延びした声が今日は一段と五月蝿い。セミがギャーギャー鳴いているからだろうか。


「それは残念です」


 早口で告げてそこを去ろうとした。忌々しいことに、町工場の前の大きな工場からトラックが三台も出てきて道を塞ぐ。


「チッ……」


 なにもかもついてない、そんな日だった。


 ゴーゴーと頭に響く音がする。


「ヘリか?」


「でしょうね。このクソ田舎に要人でも来るんですかね」


 言い捨てたころにはトラックは出払っていた。


「……なあ、ながれ、っておい」


 まだなにか言いたげなおじさんから逃げるように、いや実際逃げていたわけだが、俺は速足で工場群のなかに消えていく。


 まさか、それがおじさんとの最後の会話になろうとは、ね。


「あれ、ここ工事してるんだ」


 工業団地は抜けていた。そこはおんぼろの空き家があったところで、いつ崩れるともしらぬほど梁が腐り基礎が傾いていたご近所迷惑なそれが、とうとう取り壊されるのだろうか、工事中の白いシートで辺りを囲まれ中は見えない。


「そりゃそうだ。残骸が通行人にでも当たったら責任問題だからな」


 今日も朝のニュースで見慣れた、なにかやらかした政治家やら行政の撮られることを想定した深く長いお辞儀を見た。くだらん、そう思った。でも、当てられる方と責任を取らされるトカゲの尻尾にとっては全く下らなくない話である。そんなことにぼんやりと気づく。


 ふと、白いシートの中から視線を感じた気がした。花の妖精でもいたのかというほどの小さな悲鳴とともに。


「……まさかね」


 幽霊か何かの類いだと思い込んだ俺は、またも足を速めて、人恋しさに近くのコンビニに入る。この人通りの少ない路地のどこに活路を見出したのか全くわからない店舗だったが、いくら人手不足でも店員一人くらいはいるだろうと俺は足を踏み入れた。


 ――二人だった。


 一方が、一方の首元に、何かを突き付けている。


 拳銃――。


 そう分かった時には俺は反射的に逃げ出した。隣の県の県警の巡査が武器を反社会的組織に横流ししていたと、他ならぬ朝のニュースで言っていたではないか。そうだ。今日ことさらに母親が外に出ることをやめるよう言ったのは、そのニュースが流れた後だった。その母親とももう会えないのかもしれない――。


 逃げる意思を示してしまった俺を、強盗が生かすはずなかった。その時は考えが回らなかったのだ。首筋に何か冷たいものが当てられる。


「喋るなよ」


「……ッ」


「喋ったらさやかがどうなるか知らんぞ」


「……?」


 聞いたことのあるような声が、俺の秘密を耳元で喋った。その声の持ち主を信じるなら、俺がさやかを好き(に見せかけている)ことは口外しないはずだ。ならこの人は誰だ? この人がその人なら、こんなことをするくらいなのだから約束も破るかもしれない。ではこの人は……、この人は……!


 あなたは、誰なんだ……。


 俺は昔から妙に勘だけはよかった。そのせいでやたらと不運に見舞われたものだが、あの人がおじさんだと気づいたお陰て今回も脳天を撃たれるというとてつもない不運を身に受ける、はずだった。


(父さんじゃ、ない)


(……え?)


(あの人は変わった……騙されて借金背負わされて、逃げるために薬に手を出して。天才と呼ばれた作曲さえできなくなって)


 そういえば、おじさんの町工場は昔療養所で、おじさんが土地を買ったとか言ってたけど。


 作曲?


佐藤さとう翔琉かける、それが私の父さんの名前。私を攫って閉じ込めたのも伯父さま)


 俺は言葉を失った。体中から何かが溶けだしているようで、固体の自分が希釈されている感覚に囚われた。ホロホロと自分がほぐれていく。


 そんななかでもはっきりわかったことがある。


 俺に、さやかが覆いかぶさり、おじさんは娘の爽を撃ったということ。


 それを俺は上から見下ろしていた。


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