二、つばめ
目の前をとうとうと流れる大きな川。その上を渡る風は、瑞々しさをふくんで街を駆け抜ける。私はその風を、身体いっぱいに受けていた。
もう、七年か。私は苦笑した。
いつまでも未練がましく探しつづけていないで、早く妹のところへ行ったほうがいいんじゃないかと、何度も思った。日羽莉はきっと、待っているはずだ。
でも、日羽莉は私のことを待っているのと同時に、私が探しものを見つけるのを待っている。
そう知っているから、まだ行くわけにはいかない。
ふと、誰かの視線を感じてふりむいた。私を見ている人が、いるの?
こちらをじっと見つめていたのは、セーラー服を着た少女だった。短い髪が、風になびいている。思わず目を瞬いた。堤の上に立つ少女と、妹の、あどけない顔が重なる。
私は、ほとんど反射的に堤を駆け下り、駆け上がり、少女の前に立っていた。少女は目をまるくしている。
なんでだろう、不意に強く思った。この子と、友達になりたい。この子となら、友達になれる。
私は一息に言った。
「私は月羽愛。あなたは?」
少女は頬を紅潮させて、おずおずと答えた。
「ひ、ひよこ……」
「ひよこちゃん? よろしくね」
私は嬉しくなって、にっこり微笑んだ。
「うん。こちらこそよろしく、つばめちゃん」
目の前の少女――ひよこは、こくりと頷いた。頷いてくれた。
「ねえ、つばめの家ってどこ?」
家、か。今の私の家は、どこなんだろう。帰るべき場所を指すのだとしたら、それはひよこにとっては果てしなく遠い場所だ。
「ひよこが知らない、遠いところ」
ひよこは不思議そうな顔をする。
「本当に私が知らないところ? 案外知ってるかもよ?」
「ううん。絶対知らないよ。そのくらい遠いところなの」
ひよこはそれ以上追及しようとはしなかった。その優しさが、私の心を温かくする。
「この街じゃないんだね。どうしてここにいるの?」
「私はね、旅人なの」
そんな風に自分を表現するのは初めてだったけれど、その言葉はすとんと落ちてきた。
「たびびと?」
「うん。探してるものがあるから、旅をしてるの」
「へえ。なあに?」
その質問に答えてしまったら、永遠に手に入らなくなりそうで。
「秘密」
ひよこは今度も、強いて訊こうとはしなかった。
「残念。いつか教えてくれる?」
「さあ、どうかな。教えるかもね」
もしそれを、見つけられたら。
「じゃあ待ってるよ。見つかるといいね」
「ありがとう」
「一人で探してるの?」
たしかに今はひとりでいるけれど、私一人が探しているわけじゃない。
「ううん、違うよ。二人で」
「誰と? 今どこにいるの?」
いなくなったわけじゃない、と自分に言い聞かせるように答える。
「今もいるよ」
「ふうん」
ひよこの横顔をそっと眺める。似ているかな、どうだろう。それもわからないのは、もう記憶がちょっとずつ零れ落ちてしまっているのか。
「ひよこは、きょうだいとか、いる?」
「お姉ちゃんがいるよ」
「仲いい?」
「うん。とっても頭がいいんだよ」
「へえ」
ひよこは自慢げだ。よっぽど姉のことが好きなのだろう。
「つばめは? きょうだいいる?」
妹みたいなひよこがそんなことを訊くのが、ちょっとおかしくなってしまう。
「妹がいるの」
「そうなんだ。ひょっとして、妹と旅してるの?」
「よくわかったね。なんでわかった?」
「なんとなく、かな」
「勘が良いんだ」
「ありがと。でも、そんなことないよ」
素直なその返事が、たぶんいちばん――
「ひよこは、やっぱり妹に似てるよ」
「私が?」
「うん。陽子の誕生日っていつ?」
「九月九日。新学期が始まったばっかりの時期だよ。……つばめの誕生日は?」
「七月二日」
「もうすぐなんだね」
ひよこはふと空を見上げた。
「あれ、もう暗くなってきちゃった。そろそろ帰らないと」
「またね」
「うん、ばいばい」
風に乗って、川の匂いが流れてくる。
私は、川を見つめていた。この町に来てから、ずっとこの川を眺めつづけている。
でも、見つめている私の心はずいぶん変わった。
「おーい、つばめ!」
大きな声で名前を呼ばれて、ふりむく。見なくてもわかる。ひよこだ。
ひよこは堤の上を、一直線に駆けてきた。
「どうしたの、そんなに走って」
ひよこは息を切らせて言った。
「つばめ、お誕生日おめでとう」
私はびっくりした。一度口にしただけの日付を、ひよこが記憶してくれていたから。それから嬉しくなった。口許が自然にほころぶ。
「覚えててくれたんだ」
「当たり前でしょ」
ひよこは誇らしげに言って、鞄から小さな包みを取り出した。水色の袋に、細い白いリボンが掛っている。
「あのね、プレゼントなんだけど……」
陽子は、その包みをさし出した。なぜだろう、
「今、開けていい?」
「うん」
そっとリボンをほどいて、中身を取り出した。
中に入っていたのは、真っ白な布地……ではなくて、リボンだった。結構太くて、かなりの長さがある。レースの飾りも付いている、白一色のリボンだ。
輝くような、無垢の白さだった。
「うわあ……綺麗。ありがとう、ひよこ!」
声が弾む。こんなに美しいものをもらえるなんて、私は幸せだ。
――幸せ? 私は今、幸せなの?
「喜んでくれた?」
ひよこは私の反応を気にしている。
「もちろん! とっても嬉しいよ」
私は大きく頷いた。この喜びを、ちゃんと伝えたい。
ひよこはにっこりした。
「つばめの服って、黒一色でしょ? すごく似合ってるけど、やっぱり寂しいから、腰で結んだらどうかな、と思って」
「腰に?」
たしかに、どう使っていいかわからないとは思った。なるほど、ひよこはちゃんと考えていたのだ。
この服に、飾りなんかつけていいのかと内心とまどう。でも、つけたい。私は自分に正直になることにした。上手く後ろで結べるだろうか。
ひよこが助け船を出してくれた。
「貸して。私が結ぶよ。つばめはマント持ってて」
「じゃあ、お願い」
私はマントを、両手で抱えるように押さえた。ひよこは、私の腰の上でリボンを巻きながら、私の背中のほうに回った。背後で、結んでくれている気配がする。
「んー、こんな感じかなー」
ひよこは正面に出てくると、私を上から下まで見た。
「うん、かわいい」
満足げに、こくんと頷く。
「ありがとう」
ああ。やっぱり、私は幸せだよ、日羽莉。きっと幸せって、こういう気持ちを指すんだよね?
口に出して言う。
「私は幸せね。こんなプレゼントをしてくれる友達がいて」
その台詞の、どの言葉が引き金だったのか。ひよこは、突然私に抱きついた。
「ひよこ……?」
私はいったい、何を言った? 頭の中が疑問符でいっぱいになる。同時に、伝わってくるひよこの体温に、じんと心が痺れる。
ひよこは私から離れると、嬉しそうに笑った。
「私、つばめと友達になれて良かった」
「私も、そう思うよ」
私は、心の底からの笑みを返した。
私はまた、川を見つめている。これまでにないほど、満ち足りた心で。
もう、お別れかな。ふと思った。一抹の寂しさは禁じえないけれど、私は、日羽莉のところへ行かなきゃならない。
堤の上にひよこが見えた。私はその瞬間、覚悟を決めた。
私は今日、行く。
ひよこは河原に下りて私の隣に立つと、元気に挨拶した。
「やっほう!」
明日を信じて疑わない、純粋な笑顔だ。そう、ひよこはそれでいい。ずっとそうであってほしい。さりげなく返事を返した。
「やっほう。今日は早いね」
「うん、明日から夏休みだからね。楽しみ」
「そっかあ。いいね」
まあ私なんて、この七年、学校なんて行っていないけれど。
「うん」
私たちはいつものように、のんびりと歩きながら話をした。
「今日も暑いね」
ひよこが言う。白い額に、うっすら汗がにじんでいる。
「ほんと。川に入りたくなっちゃう」
私は、暑さや寒さを感じない。だから夏の昼下がりにも、こんな黒ずくめでいられるのだ。その不自然さに、きっとひよこは気づいていないのだろう。
ひとしきり話した後、会話が途切れる。ひよこは沈黙と静寂の違いがわかる子だから、黙っていても気づまりじゃない。
別れを告げずに去ることもできるけれど、ひよこに見届けてほしい。私は口を開いた。
「ひよことこうしてお喋りできるのも、今日で最後だね」
「え?」
ひよこは目をまるくした。その大きな瞳が、嘘でしょう、と語っている。
「なんで? 私、夏休みになっても河原に来るよ?」
そんな風に言われると寂しくなってしまう。でも、もう決めたのだ。心残りはない。私は、笑顔を見せた。
「それでも、今日で最後なの。探していたものが見つかったから、旅はおしまいなの」
その言葉が、どれだけ残酷に響いたことか。ひよこは泣きそうになっている。
「おしまいって……どこへ行くの?」
「行くべきところに。私が、本当ならずっと前に行くべきだったところに」
私は、きっぱりと言った。そう、私はもう、ずっと前に行っているべきだったのだ。
「そんな……」
ひよこはそう呟いたきり、言葉を失っていた。
さわさわと、川の音が響く。ひよこは私の言葉を、どう受け止めたのだろう。私とひよこはしばらく、無言のまま立ちつくしていた。
おや、ひとつだけ、やり残したことがあったじゃないか。
「ねえ、ひよこ」
「なあに」
「最後に、名前教えて」
ひよこは首を傾げた。
「私の名前はひよこだよ?」
「字も含めて」
「太陽の陽に、子供の子」
本当に、彼女らしい名前だ。眩しいくらいに、まっすぐで純粋な。
「お姉さんの名前は?」
私は続けて訊く。
「えなが。恵みに、永遠の永。――ねえ」
陽子は、真剣なまなざしで、私を見た。
「つばめの名前も、教えてよ」
「いいよ」
そう、ずっと長い間一緒にいた気がするのに、その間、私はただの『つばめ』だったのだ。私は微笑んだ。陽子も私の名前を訊いてくれたことが、嬉しかった。
「月に、羽に、愛で、月羽愛」
陽子は口の中で、「月羽愛」とくりかえした。
「ねえ月羽愛。私、月羽愛が大好きだよ。ほんのちょっとしか一緒にいられなかったけど、月羽愛のことは一生忘れないから。月羽愛はずっと、私の友達だからね」
言葉を一つひとつ、確かめるように陽子は言った。私はそんな陽子を、そっと抱きしめた。陽子と過ごした初夏の記憶が、風のように瞼の裏を駆け抜けた。
「ありがとう。私も、陽子が好きだよ」
じゃあ、と、背筋を伸ばす。
「ばいばい。陽子に会えて、よかったよ。陽子といて、本当に幸せだった」
口に出して、その響きを確かめる。これなら、ちゃんと日羽莉のところへ行ける。
私はくるりと踵を返した。川の匂いを含んだ風が、ふわりとマントを広げる。私は目を閉じた。つま先で、軽く地を蹴る。何かが私の身体を持ち上げる。
違う、『何か』じゃない。日羽莉だ。これは、日羽莉の手だ。私は日羽莉に呼びかけた。
『日羽莉、私、見つけたよ。今そっちに行くからね』
風が、私の背を押す。
でも、その前に。
私は精いっぱい手を伸ばして、陽子の首に、ささやかな贈り物をした。
私のこと、覚えていてね。
ひよことつばめ 音崎 琳 @otosakilin
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