ひよことつばめ
音崎 琳
一、ひよこ
それは、ある夏の日。なんでもない、学校からの帰り道。
私は奇跡のように、『つばめ』に出会った。
「ひ、よ、こっ」
呼ばれてふりかえったのは、それが私の名前だから。
両親によれば、『陽』は『ひ』とも『よう』とも読むからだそうだが……全然理屈になってない。そんなに無理やりなら、理由なんてつけなくていいのに。
べつに、自分の名前が嫌いなわけじゃない。ううん、本当のことを言うと、大好きだ。……やっぱりちょっと、照れくさい。
「陽子、一緒に帰ろう」
呼びかけてきたのは、クラスメイトの
「うん」
私はにっこり笑って頷いた。今日は、何かいいことが起こりそうな気がする。もちろん保証はないけれど、朝からそんな予感がしていた。だから一日中、ちょっとわくわくした気分だった。
「なんか、今日は一日が早かったなあ。あ、まだ終わってないけど」
「そう? 私は長かった。特に午前中。お腹減っちゃって」
「あはは。あー、もうすぐ夏休みだね」
「うん、待ち遠しい」
「どこか行く?」
「わかんないけど……お祖母ちゃんの家には行くんじゃないかな」
「どこに住んでるんだっけ?」
「京都」
「うわあ、遠いねえ」
たわいない話をしながら、のろのろと下校する。友達と喋っているとき、歩く足は遅くなる。その時間を、なるべく引き延ばそうとするみたいに。
三つ目の信号機まで来て、私たちはお互いに手を振った。ここからは、帰り道が同じじゃない。
「また明日ね」
「うん、ばいばい」
向日葵が遠ざかっていくのを、私はずっと見ていた。ポニーテールが左右に揺れて、角を曲がる。それを見届けてから、回れ右をした。
緩い登り坂を上がっていく。坂のてっぺんを左に曲がると、川沿いの道になり、まっすぐ行くと
この川は
堤が二つもあるというのに、川は二段も下がったところにある。用心深いことだが、昔はたびたび洪水になったかららしい。たしかに大きな川だと思うが、私は他の川を知らないから比較はできない。
道を外れて、外側の堤に登った。いつもそうやって、堤の上を歩いていく。その方が、川がよく見える。
太陽の光をはね返す川面が、きらきらと眩しい。こうやって歩いているこの瞬間も、私にはなぜか、とても貴重なものに思えた。
陽光の作用は不思議だ。
陽の光があるだけで、空間は穏やかで眠たげになる。誰かが喋っていたとしても、柔らかな静寂に包まれる。そんな風に、思えてならない。私が『陽子』という名前が好きな理由の一つも、太陽の陽が入っているから。
歩きながら辺りを見まわして、私はふと、一つの人影に目をとめた。
内側の堤の上に、少女が一人立っていた。近くに他の人はいない。少女はじっと動かないで、川を見つめている。
川辺に人がいるのは珍しくない。もし『犬の散歩の途中です』といったような感じの人なら、私は認識すらしなかっただろう。
その人は、全然そんな風ではなかった。それどころか、人間として見ることさえためらわれた。そう、ヒトよりも、妖精や何かに近いような。
膝まで伸びたまっすぐな黒髪が、風になびいている。服はよく見えないけど、全身黒ずくめであることは確か。普通にこんな格好の人が歩いていたら、少し怪しいだろうな。ここから見える横顔は整っていて、肌がびっくりするくらい白い。
でも、決定的だったのはそんな、服装とか髪とか顔とか、目に見えるものではない。
少女のまとっている雰囲気、そのものだった。
午後四時前の、温かな空気にそぐわない、異質なもの。喩えるならば、まるで夜空の月のような。
私は思わず、彼女の姿に見いった。それでも足はいつものように動き、ちょうど、彼女の後ろに来る。
その時、少女はくるりとふりかえった。
私の瞳と彼女の視線がぶつかる。闇色の、大きな瞳。こちらの心は見透かされているのに、彼女の心は全く見えない。そんな視線だった。
私は、思わず足を止めた。
不意に立ち止まった私を見て、少女は首を傾げた。私と、それほど年が離れているわけではないようだ……あんまりよくわからないけど。自分より幼いようにも、老成しているようにも見える。
と思ったら、少女は突然堤を駆けおりた。しかもその勢いのまま、こちら側に登ってくる。
少女は、唖然としている私の目の前にすっくと立った。私の仕草――とも言えない化石状態をどう解釈したのか、彼女は不意に、わかったというように、にっこりと笑んだ。凛とした表情が消え、人懐っこそうな顔になる。
少女はなんと、踝まで隠れる、真っ黒なマントを身にまとっていた。風が吹いてマントがめくれる。マントの下は真っ黒な袖なしのワンピースだ。どちらにしろ黒ずくめ。
「私はつばめ。あなたは?」
……? 『わたしはつばめあなたは』――?
その言葉が自己紹介だと悟るには、数秒を要した。
「ひ、陽子……」
やっとのことで言い終えたものの、頬が熱い。名前すらはっきり言えない、自分の人見知りな
彼女は、そんな私の心境を全く知らぬげに言った。
「ひよこちゃん? よろしくね」
大慌ての私に向って、全てが気にならなくなるような、眩しい笑顔を放つ。
なんだろう、この笑顔。何か、とても懐かしいような、不思議に温かい感じ。とても居心地がいい。
初対面の人に対してこんな気持ちを感じたのは、初めてだった。
その笑顔に導かれるように、私はこくりと頷いた。
「うん。こちらこそよろしく、つばめちゃん」
「ねえ、つばめの家ってどこ?」
「ひよこが知らない、遠いところ」
「本当に私が知らないところ? 案外知ってるかもよ?」
「ううん。絶対知らないよ。そのくらい遠いところなの」
つばめは言いたくないのだと思って、私は質問をやめた。いくら遠いところといっても、せめて都道府県とか、もしくはどこの国か言えばわかるのに、それすら言おうしないのは、きっと言いたくないからなんだろう。
「この街じゃないんだね。どうしてここにいるの?」
「私はね、旅人なの」
「たびびと?」
言葉としては、もちろん知っている。でも、会話の中で使われるのを聞くのは初めてだ。
「うん。探してるものがあるから、旅をしてるの」
「へえ。なあに?」
「秘密」
「残念。いつか教えてくれる?」
「さあ、どうかな。教えるかもね」
「じゃあ待ってるよ。見つかるといいね」
「ありがとう」
「一人で探してるの?」
「ううん、違うよ。二人で」
「誰と? 今どこにいるの?」
「今もいるよ」
つばめは、ちょっとピントのずれた答えを返したけど、私は気にしなかった。
「ふうん」
「ひよこは、きょうだいとか、いる?」
今度はつばめが質問してくる。
「お姉ちゃんがいるよ」
「仲いい?」
「うん。とっても頭がいいんだよ」
「へえ」
「つばめは? きょうだいいる?」
「妹がいるの」
「そうなんだ。ひょっとして、妹と旅してるの?」
「よくわかったね。なんでわかった?」
「なんとなく、かな」
「勘が良いんだ」
「ありがと。でも、そんなことないよ」
何が嬉しかったのか、つばめは微笑した。
「ひよこは、やっぱり妹に似てるよ」
「私が?」
「うん。陽子の誕生日っていつ?」
「九月九日。新学期が始まったばっかりの時期だよ。……つばめの誕生日は?」
「七月二日」
「もうすぐなんだね。――あれ、もう暗くなってきちゃった。そろそろ帰らないと」
「またね」
「うん、ばいばい」
風に乗って、川の匂いが流れてくる。
「――ねえ、先輩」
私たち姉妹の部屋で、私の勉強机の椅子に座っている向日葵が、不思議そうに言った。
「うん?」
私の二歳上のお姉ちゃん、
「陽子って最近ちょっと変ですよね」
「そういえばそうね。もともとあんまりお喋りじゃないけど、それに拍車がかかった感じ」
お姉ちゃんは色々と考えを巡らすように、ゆっくりと答えた。お姉ちゃんのいいところは、こういう時に本当に考えているところだ。
「先輩もそう思いますよね。休み時間とかでも、ぼおっと窓の外とか見てるんですよ」
「何があったのかしらね」
本人が目の前にいるというのに、その会話はないでしょう。しかも、ぼおっとしてるなんて。
「ちょっと! 聞こえてるからね?」
ぼおっとしてるんじゃなくて、考えごとをしているのだ。つばめが言ったこととか、つばめ自身のこととか。
「しかもお姉ちゃん、『何か』じゃなくて『何が』って、断定?」
「そりゃそうよ。何もないわけないじゃない」
でしょ? と首を傾げるお姉ちゃん。あいかわらずだ。
「で? 何があったの?」
「……ううん、べつに」
私はわざとそっぽを向いた。お姉ちゃんはやれやれと首を振る。
「ま、言いたくないならいいけどね」
「そういえば――」
向日葵が学校の話を始め、お姉ちゃんがそれに応じる。
話は日常に戻り、日常は平穏に戻る。とりあえずは、いつもどおりの土曜日だった。
「おーい、つばめ!」
私は川沿いの道を走りながら、大声でつばめの名を呼んだ。堤の上で川を見ていたつばめはもちろん、すぐに私に気づいて、にこにことふりむいた。
「どうしたの、そんなに走って」
私は息を切らせて言った。
「つばめ、お誕生日おめでとう」
つばめは驚いたように目をまるくしてから、ふっと微笑んだ。
「覚えててくれたんだ」
「当たり前でしょ」
私はちょっと誇らしげに言って、鞄から小さな包みを取り出した。水色の袋に、細い白いリボンが掛かったものだ。
「あのね、プレゼントなんだけど……」
包みをさし出す。どんなプレゼントが良いかわからなかったから、自分としてはいちばん良いものを選んだつもりなのだが、やっぱりこれはちょっと変だったかもしれない。
「今、開けていい?」
「うん」
つばめはそっと包装用のリボンをほどいて、中身を取り出した。
中に入っていたのは、白いリボン。結構太くて、かなりの長さがある。レースの飾りもついている、白一色のリボンだ。
「うわあ……綺麗。ありがとう、ひよこ!」
つばめは弾んだ声でそう言った。
「喜んでくれた?」
「もちろん! とっても嬉しいよ」
つばめは大きく頷いた。私は、ほっと胸をなでおろした。安心した途端、言葉が転がり出る。
「つばめの服って、黒一色でしょ? すごく似合ってるけど、やっぱり寂しいから、腰で結んだらどうかな、と思って」
「腰に?」
つばめが実際にやろうとしているのを見て、私は言った。
「貸して。私が結ぶよ。つばめはマント持ってて」
「じゃあ、お願い」
つばめはマントを前の方に回した。私はリボンを巻きながらつばめの後ろへ回って、蝶結びをした。
「んー、こんな感じかなー」
私は正面からつばめを見た。
「うん、かわいい」
いや、つばめはもともとかわいいから、何でも似合うだろう。でも、リボンがあったほうがもっとすてきだ。
「ありがとう」
つばめはそう言って、晴れやかに微笑んだ。
「私は幸せね。こんなプレゼントをしてくれる友達がいて」
友達。つばめの口からその言葉を聞くと無性に嬉しくて、私はつばめに抱きついた。
「ひよこ……?」
私のオーバーリアクションにとまどったつばめの声。
私はつばめを放して言った。
「私、つばめと友達になれて良かった」
「私も、そう思うよ」
つばめは、にっこりと笑んだ。
私はいつものように、学校の帰りに河原へ向かった。そこにはいつものように、つばめがいた。
「やっほう!」
「やっほう。今日は早いね」
「うん、明日から夏休みだからね。楽しみ」
「そっかあ。いいね」
「うん」
私たちはいつものように、のんびりと歩きながら話をした。
「今日も暑いね」
「ほんと。川に入りたくなっちゃう」
ひとしきり話して、ただ黙って歩いている時だった。そんなことはたくさんあったけど、私はちっとも気にならなかった。黙っているだけでも、心地が良かったから。
つばめは突然言った。
「ひよことこうしてお喋りできるのも、今日で最後だね」
「え?」
それはあまりにも唐突な別れの言葉で、私は驚いてつばめの顔を見た。
「なんで? 私、夏休みになっても河原に来るよ?」
「それでも、今日で最後なの」
つばめは少し寂しそうに、でも満足そうに笑った。
「探していたものが見つかったから、旅はおしまいなの」
私が贈った白いリボンが、眩しい。
「おしまいって……どこへ行くの?」
「行くべきところに。私が、本当ならずっと前に行くべきだったところに」
「そんな……」
私はそれ以上何も言えなかった。自分で自分の道を決めているつばめに、私が言えることは何もなかった。
さわさわと、川の音が響く。私とつばめはしばらく、無言のまま立ちつくしていた。
不意に、つばめが口を開いた。やることはやったという、さっぱりした声。
「ねえ、ひよこ」
「なあに」
ともするとうつむきそうになる視線を、無理に、つばめの黒い瞳に合わせる。
「最後に、名前教えて」
私は首を傾げた。
「私の名前はひよこだよ?」
「字も含めて」
「太陽の陽に、子供の子」
つばめは嬉しそうに目を細めた。
「お姉さんの名前は?」
「えなが。恵みに、永遠の永。――ねえ」
私は、真剣に言った。
「つばめの名前も、教えてよ」
「いいよ」
つばめはふっと微笑んだ。それは、とても優しい微笑。
「月に、羽に、愛で、月羽愛」
私はその名を、心に刻みつけた。
奔流のように、月羽愛との思い出が脳裏を駆ける。短いような長いような、まるで一瞬の夢のように。
息を吸いこんだ。声が震えないように気をつけながら、言葉を紡ぐ。
「ねえ月羽愛。私、月羽愛が大好きだよ。ほんのちょっとしか一緒にいられなかったけど、月羽愛のことは一生忘れないから。月羽愛はずっと、私の友達だからね」
月羽愛は腕を広げて、そっと私を抱きしめた。
「ありがとう。私も、陽子が好きだよ」
じゃあ、と、月羽愛はむしろにこやかに言った。
「ばいばい。陽子に会えて、よかったよ。陽子といて、本当に幸せだった」
幸せ。月羽愛が何度も口にした言葉だ。
彼女はマントをひるがえした。風を受けてふわりと広がるそのマントは、後ろから見るとまるで、燕の羽根のようだ。
突然、辺りに眩い光が満ちて、私は思わず目を閉じた。月羽愛の姿を見届けたいのに。
光の洪水の中で、聞こえたのは月羽愛の声。
『日羽莉、私、見つけたよ。今そっちに行くからね』
ひばり。月羽愛の妹の名前だった。月羽愛の口から聞いたことは一度もなかったけれど、はっきりとわかった。
どうしても開けられない目から、温かいものが零れる。私はその場に
さよなら、月羽愛。
「陽子? 陽子!」
私は驚いた声とともに、ちょっと乱暴に揺り動かされた。
「お、姉ちゃん……?」
そのまま泣きじゃくっていた私を現実に呼び戻したのは、姉の手だった。
「ちょっと、陽子どうしたの?」
お姉ちゃんは、堤の上で泣いている私にとまどっていた。そういえば、月羽愛といる時は、決まって誰も通らなかった。
月羽愛のことを思うとまた涙が溢れてきて、私は姉にすがって泣いた。
「お姉ちゃんっ……」
お姉ちゃんは何が何だかわからないまま、傍に座って私の背中をさすってくれた。
「あれ? 陽子、これなあに」
ひとしきり泣いて、嗚咽が収まってきたとき、お姉ちゃんが私の首に触った。
「え?」
首に手をやると、何かが巻いてある。
「もしかして……」
私はある予感にとらわれながら、そっとそれを外した。胸がどきどきする。
そう、私の首に結んであったのは、私が月羽愛にプレゼントしたリボンだった。でも、不思議なことに、私が贈ったものはこんなに短くない。ちょうど、この倍くらいの長さ。
「これは……」
きっと、あのリボンを半分にしたもの。おそらくもう半分は月羽愛が持っているのだろう。
「どうしたの?」
「ううん、何でもない」
お姉ちゃんは怪訝な顔をしていたが、私が泣きやんだだけで良しとすることにしたようだった。
私は立ち上がると、大きく息をした。風は、川の匂いがした。リボンを握る手にそっと力をこめる。
絶対に忘れないよ。
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