ない

鍍金 紫陽花(めっき あじさい)

第1話

 自分の部屋でパソコンの電源を押す。テッシュ箱を足で蹴った。


「はー、うるさ」


 テレビの音量が二階まで届いている。妹と母親は普段と変わらずにテレビへ、ヤジを飛ばしているのだろう。


「よし……」


 目を擦ってパソコンのエンターキーを押す。俺の目はブルーライトに馴染んでくれた。

 パソコンのブックマークから掲示板を選んだ。画面をスクロールして、他人のやり取りを読み漁る。


「つまんね」


 掲示板に甘さが残されていて、その残骸を齧り付いた。

 匿名で悪口を書き込むのは躊躇いがあった。しかし、現時点において罪悪感は薄らいでしまった。人として大切なものを抜け落としたわけだ。

 パソコンの右下で、時計は2時だと教えている。


 俺はパソコンで掲示板を眺める。これを趣味と呼ぶには恥ずかしかった。でも、他にやることがない。


 若さは有限で、ほかに有効活用するべきだろう。そのような綺麗事は、鋭利な刃物に変貌して、心に穴を開けてくる。

 他にやることあるんじゃないかって、自分でわかっていた。分かっているはずだ。

 空の暗闇はどこか遠いところに追いやられる。一階の付けっぱなしにされたテレビからニュースが流れていた。俺はパソコンを閉じる。画面を消し欠伸をした。



 空は白み朝を迎える。俺は徹夜でパソコンを前にしていた。

 頭を内側から押し出されているようだった。階段を降りて洗面台に目を向ける。妹が鏡で髪をとかしていた。彼女の目線と俺は合ってしまう。


「チッ」


 妹は床を踏みしめて背後のリビングへ小走りしてる。狭い通路だから俺の肩は強く当てられた。


「触んな」


 唯一の兄弟は露骨な態度をとった。見えるように肩をはらって舌打ちする。首を反対に曲げたら、洗面台の鏡に自分が写っている。目の下のクマが、マーカーで書いたようにほりが深くなっている。目やにを取り除くから鼻の横を圧迫した。汚れをなくしてリビングにかける。


 今日は日差しが暑くて頭に響く。リビングに置かれたパンの袋を掴む。コップに冷たい麦茶をつぐ。


「早く食べて」

「……」


 コップを台所の水で湿らせた。妹は麦茶の手の跡を気にしている。パンの袋をゴミ箱に捨てた。鞄を背負って、家の扉を開ける。

 夏の匂いがしたから死にたくなった。受け入れない人なんて死んでくれ。


 俺は一軒家の隙間を駆け足ですり抜けていく。ブロック塀の上に猫が歩行し、小学生が道を塞ぎながら談笑している。大通りは女子高生が携帯を弄っていた。上着は白い服だけど透けていない。足は細長く、信号待ちで疲れたのかバタバタその場で足踏みしている。信号を渡って学校が見えてくる。

 ホームレスの大人が、公園でブルーシートから顔を出した。

 ああいった大人になったら終わりだな。ネットにも書いてあるし。



「おはよう」


 俺は教室の扉を開き、友達の元へ駆け寄った。彼は手だけを動かして、携帯に集中している。画面を覗くとソーシャルゲームのガチャをしているようだ。


「また課金したの?」

「だって欲しいキャラがいるから」


 それは波のように教室へ人が入ってくる。誰かと話しているものや、ポケットからイヤホンが飛び出しているもの。俺の嫌いな矢島も仏頂面で席につく。


「クソが! 当たんねえな」


 教室での彼は携帯を投げなかった。悪態ついたその顔はどこに恨みを言おうか選んでいた。


「そういえば、鹿島って矢島と別れたらしいぜ」

「え、そうなの?」


 だから、矢島は機嫌が悪かったのか。取り巻きの苦労が想像できる。


「ま、クラスで騒ぐやつのどこがいいんだって話だし」


 矢島は皆の視線を受けている。反応するでもなく携帯を偉そうにいじっていた。


「そういえば、佐久間は昨日のスレ見た?」

「……。見たけど覚えてない」


 携帯を机の下に直している。鞄から教科書を取り出していた。


「ほら、あのまとめ面白かったよな。名前なんだっけ」

「覚えてねえって」


 彼の唾が机に付着する。いつ拭かれるかとじっと観察した。


「いやさ、ネットに乗ってたことなんだけどさ。あの有名人が不倫したらしいって」

「草。これだからリア充は」


 彼は話題を止めたがった。それに同調するように沈黙する。佐久間はあっと思い出したように呟いて天上を見上げた。


「アニメ見た?」

「あー、ごめん。そんな暇なくて」


 すると担任が扉を開ける。チャイムが同時に流れた。


「ほら、席につけ」


 後方の右側にある席に接近し椅子を引く。腰を下ろして、ポケットから携帯を抜き出す。

 担任の目線は矢島を睨んでいる。


 携帯に書いてあることが全てじゃない。書き込みで傷つく人もいる。それを引っ括めて、俺は罵倒を投げかけている。他人の本性は変わらない。悪口を放つ俺が、自分の知らない自分だろう。


 携帯の電源をつけた。マナーモードは作動している。

 今日も他人の失点を掲げて欲を満たす。


「ねえ」

「……」


 掲示板の言葉は他人を考慮していない。その鋭利なやり方こそ飽きている理由だけど、止められなかった。捌け口がなくなったら、なんの失敗するか不明だから。


「あ、あの……」

「……」


 携帯の履歴を消去する。人の関係もなくせたら楽なのに。


「ねえって」

「早くホームルーム終わらないかな」


 呟いたら止まった。目を合わせたら、俺の負けになる。嫌いな先生と矢島の背中をテレビでも見るように眺めた。そうしていれば、ホームルームは終わる。


 担任は教室から外へ出た。クラスの人々は後ろを向いたりしている。佐久間は席を立ち俺の元へ近づいた。顔は笑っている。


「ねえ、話しかけられてたね!」


 カバンから体操服を持ち出す。椅子から立ち上がり後ろの時間割を目にした。次の授業は体育だと記されている。


「うるさいな」

「気に入られてるね」


 机に背中を丸め突っ伏している彼。返事を待っている佐久間の笑顔。矢島の話題が飛び交うクラス。


「その言い方、イジメみたいだからやめろよ」

「イジメするほどアイツと仲良くねえよ」


 そのアイツはクラスの騒然とした様子に慌てた。カバンから体操服を抜きとると俺たちをすりぬけていく。


「何が楽しくて学校に来てるんだろうな」

「好きな女の子でもいるんじゃない?」

「鹿島とか」


 学校の廊下に2年の生徒が流れていた。横を通れば見知らぬ男子が手を振っている。きっと俺の後ろにいるクラスのヤツらだ。別クラスで知られるのは難しい。それでも、交流するのは何かがあるのだろう。俺にはない何か。


「鹿島はねえだろ」


 階段を降りて靴箱に立つ。アイツも靴を履き替えている。

 女子も更衣室へ向かうために足音を当ててきた。


「私が何?」


 彼らは後ろに上半身を回した。そこに、話題の人物がきょとんと佐久間の顔面を見ていた。

 彼は距離を取ろうと下がっていき、誤って人と衝突してしまう。


「いま、私の話題をしてなかった?」

「ししてない」

「ぜったいしてたよ」


 彼女の周囲は下品に指をさしてくる。彼女の周りにいる誰かが苦言を示した。


「鹿島、やめなよー」

「え、何で。良いじゃん」


 俺は録音機になろうとした。校則違反の靴下に目を落とし、耳いがいは想像で取り外す。

 俺の身体は風景になり音声を録音していればいい。辛いことは栓が抜かれた風呂見たいに無視していれば流れていく。


「私は矢島と別れたけど、そこが気になるの?」


 体育の先生は時間厳守で、遅刻したものを怒鳴りつける。あの先生に繊細な問題は通用しない。


「つうかさ、矢島もだけど何で充(みちる)を無視するの?」


 ああ、そうだ。アイツは充という下の名前がある。ずっと孤独に学校生活をしていた。


「返事ぐらい返しなよ。イジメだよそれ」

「つうか鹿島。下に虫いる」

「え、ギャー!」


 誰かが笑いを誘い、流れが持っていかれる。虫は女子に叫ばれていた。懸命に地を這う芋虫は行き場所を失っている。

 鹿島は俺に言ってきた。

 俺を見ずに指摘してきた。


「やばっ。授業始まる」


 彼女らは一階の奥に進む。まるで嵐のようだった。くらい感情を俺達は押し付けられる。


「……行くか」


 靴を履き替え、外を歩いていく。お互い目線を合わさなかった。時間はすでに過ぎている。


「あっ」そこで俺は気づいてしまった。


 佐久間に彼女の悪態を押し付けてしまった。俺は最低なことに逃げていたのだ。彼女を例のごとく客観視して、自分だけが助かっている。


「佐久間、あの」

「やめろ」


 彼は俺より前を走る。体育館は近づいてしまう。


「惨めになるからやめろ」


 どうして俺は後悔が遅いんだ。人を傷つけたくないから逃げていた。匿名の殻を被ったら、全てが許される。そんな錯覚も拭われてしまった。

 今すぐ死にたい。死にたいと思うだけだけど。



「パソコン、いつも付けてるよね」


 帰宅したら母親が封筒を一つの束にしていた。手首に輪ゴムを巻いている。


「父さん、帰ってくるって。もう使っちゃダメだから」

「うん」

「あんた、何も否定しないよね。楽に育ってくれて助かった」


 母親はパソコンの返却を催促した。反抗せずリビングまで持ち運ぶ。ノートパソコンをもう持ち上げることはない。

 パソコンは使えなくなってしまった。


「あっ、ブックマーク」

「え、なに?」


 ああ、もう。全部どうでもいいか。えろサイトは登録していなかったから何とかなるはずだ。いや、なんとかならない方がいいか。

 全部ぶっ壊されて正しくなるだろう。そうしたら、俺の惨めなプライドも砕かれる。掲示板に幻想を抱けなくなる。現実という枷が俺を歩かせた。


「……どうしたの?」

「ごめん。体調悪い」


 俺はリビングの扉を閉める。電気をつけないままで階段を上がった。リビングからテレビの音がする。

 自分の部屋に到着する。机にパソコンが置かれていない。テッシュ箱のティッシュは乱雑に破かれている。


 翌日、学校を休んだ。

 LINEで公式アカウントがお知らせをする。メールにはeメールが積もっていた。スクロールして一日が終わる。掲示板をぼんやりと眺めた。鹿島の顔がチラつく。


「あ、今サボったら佐久間ひとりじゃんか」


 何もかもうまくいかなかった。情けない男子の数日に過ぎない。それなのに、俺は携帯をつけては消した。


 明日は学校に行こうと決めた。反省もせず同じことを繰り返していく。

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ない 鍍金 紫陽花(めっき あじさい) @kirokuyou

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