少女と流浪者(六)
「…準備は出来たか?」
翌日、旅支度を整えたクリスの前にはロシャラ翁と、荷をたくさんぶら下げた馬を率いるサロエの姿がある。昨日のブラウスの上に緋色の変わった上着を羽織っていた。
「馬が一頭しかいないの。私と貴方は徒歩で先頭を、あとから長が馬で続くわ」
クリスは頷いた。すっかり体力は回復しているようだ。元々身につけていた武器防具も返してもらった。戦闘による切り傷もだいぶ目立つが仕方がない。
「それでは行こう」
一行は北へと足を進めた。ここからは二日ほどで荒地の外へ、そこから三日か四日程度かけてヨクルの街に到着する。
「おそらく降魔の徘徊地までは三時間ほど…ちょうど昼過ぎに着くことになる。ゆめゆめ油断なされぬようにな」
ロシャラ翁がクリスに話しかける。クリスは黙って頷いた。
歩き出して二時間ほど。あらためて周りを見渡す。村の周辺と違い、細かい砂が地面を覆っていた。風に混ざる砂塵が容赦なく頬に当たる。クリスが意識を失った時も同じような景色が広がっていた気がする。ひょっとするとこの辺りで倒れたのかもしれない。すると、随分見当違いにさ迷っていたのか。自分の命を繋いだ、か細い糸にあらためて感謝をした。
北方、つまり今から向かう地平線には微かだが山々のようなものが浮かんで見える。恐らくはウロド山脈であろう。あの左手にヨクルの街がある。自分の部隊はすでに街に着いているだろうか…。ふと、気にかかった。
「…ヨクルの街へ向かうのか」
クリスがサロエに尋ねた。
「そうね。この近辺では一番栄えている街だし、土地も豊か。…サヴァでの生活は翁には厳しすぎたわ」
「……」
ヨクルは確かに繁栄しているが、これからアルテオン軍が駐留してカラバとの戦いに備えるのだ。今後戦禍に巻き込まれることも十分に考えられる。そんな場所にか弱き老人と少女を連れて行ってもよいのだろうか。アルテオンの領内東部であれば、比較的安全な場所を確保できる。クリスはサロエに向き直った。
「なあ、街道へ出てからのことだが…」
「──静かに」
クリスの言葉を遮って、サロエが背を屈め囁く。クリスも事態を察し、それに倣った。サロエは前方やや左の方向を指し示す。
「…あれが?」
「ええ。降魔よ」
指し示された方向に目を凝らすと、小高い砂丘の上に何か影のようなものが蠢くのが分かる。距離は四百レイルといたところであろうか。
周囲に身を隠す岩などがないか確認した。
「ここは危険だ。あそこ、ちょうど一時の方角に巨岩がある」
指差した方向にクリスの言葉通り、巨大な角のような巨岩が目に入った。ここから三百レイルほど。三人は黙って向かった。
巨岩の下は風が強く吹き抜ける。クリスは注意深く周囲を見渡した。ロシャラ翁はくすんだフードを深く被り、岩場にもたれかかっている。
「…あそこよ」
身を屈めたサロエが顎をくいと上げて指し示した方向に、その影は存在した。巨岩から二百レイルほど西に離れた場所にいる漆黒のそれはキョロキョロと何かを窺っているようだった。
「信じられない…」
クリスは驚きを隠せなかった。確かにヒトの形をしたそれは、しかし凡そ人間と呼ぶものではなかった。全身が闇に包まれ、得体が知れない。二本足で立ってはいるが獣のような振る舞いもしており、眼光は赤く光っているように見えた。クリスは身震いした。
「どうする?」
尋ねるクリスに、サロエが冷静に答える。
「ここより北方には身を隠す場所もない。三人揃って逃げるのは不可能だわ。私と貴方で挟み込みましょう。私が右──北側から誘い出すから、貴方は左に回って後ろから攻撃して」
このような状況下で的確な判断ができる少女にクリスは一瞬気を取られたが、黙って頷いた。恐らくそうするのが一番であろう。彼女を危険に晒すことに抵抗はあったが…なるべく早く飛びかかれるように限られた時間の中、頭の中で可能な限り反芻した。
「長はここに隠れていてください。では…行きます!」
言い終わるか否かのタイミングでサロエは飛び出した。砂地を駆けるのは容易なことではない。普段から訓練をしていなければすぐに足を取られ転んでしまうか、そうでなくともスピードが極端に落ちてしまうのが普通だ。しかし、その砂地を──降魔が待つ小高い砂丘ですら、水鳥が湖面を跳ねるようにサロエは駆けてゆく。
驚いた。ただの少女とは思えない身のこなしだ。しばらく呆気にとられていたが、我に返るとクリスも自身の剣の柄に手をかけ、左方へと走り出した。
影──降魔を背面に捉えた。一見すると毛むくじゃらの熊のようにも思えるが、明らかにそれとは違う。人間が黒い毛皮を纏ったような具合だ。しかしその漆黒はどこまでも深く、やはりこの世のものとは思えなかった。なるほど、化け物の類だ。止めを刺した後に調べる必要があるかもしれない──降魔の背に向かう中でクリスは瞬間的に思考を巡らせていた。
降魔は先に接近するサロエにゆっくりと身体と向ける。どうやら動きは緩慢なようだ。サロエをその赤眼で捉えた降魔が猛り声をあげた。ビリビリと鼓膜を破るような衝撃を受けるが、サロエに動じた様子はない。そして振り下ろされる拳をすらりと躱した。
態勢を崩し、降魔は右半身を大きく落とした。背面に向けクリスはすかさず剣を突く。殺った──その思いもつかの間、ガギン、という鈍い音に阻まれた。
「──なっ?」
降魔の右手にはその躯体と同じ漆黒の槍が握られていた。振り向きざまにクリスの攻撃を弾いていたのである。その衝撃でクリスは左手に倒れ込んだ。
「クリス!」
サロエは叫びながら、自らの武器──短剣で降魔の左腕を刺す。しかしガサリという音がしただけで、手応えというものは無さそうだった。サロエは軽やかにステップしながら回り込み、クリスの左手後方へ下がる際に彼の様子を見た。目の前の状況が飲み込めていないようであった。
「なぜだ、どこから槍を…」
再び体制を立て直し、クリスは降魔と対峙した。影は緩慢な動きでこちらを観察している。クリスは背中に冷たいものが流れる感覚を得た。
漆黒の槍がクリスの頭部へと迫る。クリスは砂地を転がりながら左へと躱し、自らの剣を降魔の右脇腹へと突き刺した。サロエが刺したときと同様、まるで庭園の生け垣が相手のような手応えの無さを感じた。
「どうする!武器が効かない!」
降魔から目を離さずにクリスは後方のサロエに呼びかけた。影は右手の槍をぶらぶらと揺らしながら対峙している。詮無い考えがクリスの頭の中を飛び交っては消えていった。もっと降魔について調べるべきであった。あるいは大幅な迂回路を辿れば…。
クリスは降魔の攻撃の合間を縫って、サロエの様子を窺った。彼女は自分の背後で何かを悟ったかのような表情で短剣をしまい込み、赤い手甲のようなものを左手にはめ込んでいた。そうして手甲を装着した後、クリスに向け静かに、しかし不思議とよく通る声で言った。
「…クリス、というのは偽名ね」
思いもよらない言葉にクリスはサロエの方に向き直ろうとした。瞬間、降魔は槍を突き出しクリスを襲う。クリスは既でそれに気付き、縦に剣を構えそれを弾いた。ギン、という鈍い音が戦いの場に響く。
「何を言っている!こんな時に…」
「こんな時だからよ!答えなさい。クリスというのは偽名ね」
サロエは再び問うた。名を疑われた本人は苦虫を噛み潰したような顔をしたが、度重なる降魔の攻撃を躱しながら観念したように返答した。
「…アルム=ゼンダー。アルテオン軍の大隊将だ」
サロエは対峙する二人の背で距離をとりながら黙って聞いていた。アルムと名乗り直した流浪者は促されているのだと察し、影と対峙しながらも続けた。
「すまない、欺くつもりではなかった。軍将ともなると、行きずりの者に軽々しく名乗るのは憚られるのだ。それにカラバ公国への備えで出兵していたのは本当だ。一軍を率いて、このサヴァ荒地に…」
そこまで話して、背中に電撃が走るような感覚が襲った。アルムは前方を見据えたまま目を見開く。
──なんだ?この違和感…昨夜から感じていたはず──。
なぜ、サヴァの平地が荒野と化した記憶が無い?
なぜ、疲れ果てた流浪者が一人で馬の巨躯をいともたやすく捌くことが出来る?
なぜ、行商がこの人気ない荒地を通りかかる?
なぜ、出されたパロウを食した感覚が、記憶が無い?
なぜ、まだ戦地にも入っていない防具に切り傷の跡が残っている?
なぜ、なぜ──
パシン、と背中に何か冷たいものが当たる感触があった。振り返るとサロエがこちらを見上げている。
(何だ、何をした──?)
瞬間、ぐらりと視界が歪む。いかん、こんな時に──咄嗟に目の前に対峙していた影に向き直ると──信じられないことに、影がぼんやりと姿を変えていき一人の兵士が現れた。酷く怯えた様子でこちらを見ている。呆然と前屈みで立ち尽くすアルムとは対照的に兵士はカタカタと震える切先を向けたまま徐々に後ずさっていたが、やがて箍が外れたのか、断末魔ともとれる奇声とともにアルムに向けて槍を突き出してきた。
(──やられる!)
考えている隙は無かった。ヒュン、と唸り赤錆びた刃がアルムの身体に風穴を開けようと迫る。その刹那、横に躱したアルムの剣は兵士の首を軽やかに掻いた。風がやみ、全てが──停止したかのようであった。
…ゴボ、という音と共に、兵士が黒い血を吐きながら静かに膝をついた。そしてその躯体はゆっくりと前のめりに倒れてゆく。全ての絶望を留めたかのような両目は見開いたまま、しかし確実にアルムを捉えていた。
(──ああ、そうか)
既にその身を横たえた兵士の目の前に呆然と立つアルムは全てを理解した。黒き闇から現れたその男は倒れたまま、シューシューと白煙を吐き、みるみるうちに崩れ去っていく。それを見下ろしながらアルムは呟いた。
「こいつは…俺を亡きものにした男だ」
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