*器-うつわ-

 ──昼食を済ませ、カイルとベリルはビングでバーボンを傾けていた。

 ラシードは食器の片付けは自分がやるから置いといてと告げ、友達の家に遊びに行ってしまった。

 これで片付けをしようものなら、何故だか怒られてしまうという理不尽さにベリルはシンクの食器に手が出せないでいる。

 4Kテレビにはニュースが流れているが、二人がそれを見ている素振りはない。

「なあ」

「はい」

「今さらだけどよ」

 なんであのガキ、連れてきた。

 ふいに投げられた問いに、ベリルは手にあるグラスを見下ろした。かつてのバーボン・ウィスキーはケンタッキー州で生産されたコーン・ウィスキーのことを差した呼称だった。

 世界五大ウィスキーのなかで唯一、着色料の使用が禁止されており現在はアメリカ国内で消費されるバーボンは幾つかの要件を満たす必要がある。

 これはスモール・バッチ・バーボン──ウィスキーと比べると、より甘い香りと味わいを楽しめる。カイルの好きな酒だ。

「何故でしょうね」

 ベリルは琥珀色の液体を揺らす。

 すがりつく少年に、昔の自分と重ねた訳ではない。ただ、彼の手を振り払えなかった。

 ──生まれる場所は選べない。

 それが、怒りと死の連鎖を生み出す要因の一つではある。だからといって許される行為ではない。その中でも、乗り越えようとする者がいるのだから。

 されど、本当に選べずに生まれ出でてきたのかは、未だ解らない部分でもある。もしかすると、自らでそこを選んだのかもしれない。

 苦境を乗り越え、自らの魂の輝きを高めるために──

 真実は解らない。しかし、もしそうだとするならば、私はなんだ。作られた器を私自身が選んだとでもいうのか。

「人間か」

 人とはなんなのか。死ぬまで、いや、死んでも解らないのかもしれない。

 ベリルはふと、施設にいた頃の事を思い出す──あれはまだ五歳のときだったか。私は夜中に寝付けず、施設内を彷徨いていた。あんなことは珍しいのだが、大きな地震が隣国で起こった前夜だったと思う。

 ふと、施設内には稀な、ノブのある扉に目がまる。自動扉やガラス張りの扉が多いなか、何故かこの部屋だけは無骨なノブがついていた。

 冷たい鈍色のノブに手を掛けると、いつもはかけられているはずの鍵がかけられておらず、小さなきしみをあげて開いていく。

 不思議に思いつつ、扉の隙間から中を覗く。そこは薄暗く、いくつもの低い電子音が不気味に響いていた。

 その暗さは何かを隠そうという意図ではなく、明るさに敏感なものがあるように思えた。まるで狭い水族館のように、青白く光る四角い水槽がいくつも並べられている。

 水槽の一つに顔を近づける。

 それは、今まで学んだ生物とはまるで違った形をしていた。何かに似ているかもしれないし、そうとも言えないかもしれない。

 しかしどこかで見たような、解りやすく言い表す言葉が見つからない。強いて言えば、赤子と呼ばれる前の姿に似ている。

 その姿を目にした瞬間、ベリルは理解した。これは、もしかすると人間になったかもしれないものだ。

 三歳のときに聞かされた真実と、目の前にある水槽とが強く結びつく。

 世界で進められているヒトDNAの解読は終わっていない(ベリルが誕生した数年後に解読は完了した)。現段階ではそれを切り刻み、つなぎ合わせて一個の人を造り出す事など不可能に近い。

 その実現のための礎がここにある。

 骨の無いもの。皮膚がなく、心臓が肥大化したもの。足があるはずの部分に手があるもの。そのほとんどはすぐに死んだのか、ホルマリンに浸されていた。

 かろうじて生きているものには酸素が送り込まれているものの、酸素を止めれば直ぐにでも息絶えるだろう。

 異様な光景である事に間違いはなく、普通の人間が見れば吐き気を起こす部屋にベリルは無表情に一人、立っていた。

「私の、仲間」

 生きる事を許されない生物。ただ作られては消えるもの。私はそれに、何かしらの感情を抱いていたのだろうか。

 あの光景の記憶は鮮明であるのに、自身の感情は酷く曖昧だ。

 無言で水槽を眺めていくベリルはふいに、一つの水槽で立ち止まる。それは、子どもと呼べるにふさわしい姿と成長を見せていた。

 ベリルと同じ歳か一つ上ほどだろうか。液体に浸された体はとても小さく、瞳は淡いブルーをしており、何も映すことのない目はじっとベリルを見つめている。

 男の子だったのだろう。初めて人と呼べる形はしていても、ベリルのように健康には育たなかった。

 正常な子どもの体格に比べてふた回りほど小さくその体には生前、生命維持装置が付けられていた事が窺えた。

 言うなれば、ベリルの兄であろうか。

 体格だけでなく、頭部が異様なほど小さい。これでは脳の大半がなかっただろう。なるほど、生命維持装置が欠かせなかったはずだ。

 この状態で五年も生きられた事にむしろ驚きを隠せない。

「ベリル? どうしてここに──」

 扉が開いている事をいぶかしげに思ったアントーニが部屋に入ると、ベリルが一人でいる事に目を見開いた。

「ここに入ってはいかん」

「すみません」

 あれからしばらくは自身の感情に整理を付けるべくふさぎ込んでいたが、数日たらずでどうにか落ち着いた。

 研究チームのメンバーは、自分たちの研究を良しとは思っていない。それは接していればこそ自然と伝わってくるものだ。

 彼らは彼らなりに苦しんでいる。それが解っていて尚も私が苦しめる事など出来はしない。

 彼らは無愛想なりにでも私に愛情を注いでいる。その苦しみからひとときでも解放されるのなら、私は彼らと共にいよう。

 人工生命体の研究理由が生命の神秘を読み解くことだったのか、他の理由があったのかは解らない。

 ベリルに関する資料は全て灰になったからだ。

 襲撃を受け一端、外に逃げたベリルが死体の転がる施設に再び足を踏み入れたとき、いくつかの部屋が焼け落ちていた事を確認した。

 情報を奪われないための措置が施されていたのだろう。防火設備が整えられた施設は、指定の部屋を完全に消失させるに実に役立ってくれたらしい。

 ベリルは施設にいた三百人、全ての人間の名を覚えている。

 別れは、庭に咲いていた花を一つ、一つと添えていく。

 ここには戻らないという決意と、何も解らずに死んでいった人々への哀しみと──襲撃した連中が戻ってくるかもしれないという恐怖はあったが、どうしてもそれだけはして行きたかった。

 何故、私だけが成功したのか。どうして生まれたのか。そんな事は解らないし、知ろうとも思わない。

 誰がどんな理由をまくしたてようとも、己の意志が現実なのだ。今ここにいる事が、その全てなのだから。

 戦いでしか救えない命があるのなら、その罪を私は背負おう。

 これは、決して正義などではない。どんな理由があるにせよ、人が人を裁くなどあってはならない。

 どのみち私は生まれながらに罪人だ。人のわざで作られた私でも、この世界は生きる事を許してくれている。

 いつか、その日が来るまで──死が訪れるまで、私は戦い続けよう。

 それが自分のすべきことであるかのように、ベリルは真っ直ぐに前を見据える。

 過去は現在いまの糧でしかない。過去に囚われては、自分のすべきことを見失う。重要なのは過去に何をしたかではなく、これから何をするかだ。



 かくして、たゆたう波は終わりを告げ、見い出した己の道をひたすらに突き進み切り開いていく。

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