第2話 「秘密軍事協約」

二 「秘密軍事協約」

 ディオゲネス・クラブは、ペルメル街にある比較的小さなクラブだが、ゴチック様式で建てられた重厚な建物だった。玄関を入ると吹き抜けのある広々としたロビーで、ドーム型の大天井にはめ込まれた窓のせいで中は明るかった。しかし、一歩奥に入ると、装飾を施した歩廊、階段、円柱、絵画やタペストリーで覆われた壁等で窓はほとんどなく、薄暗い内部は森閑と静まりかえっていた。

 常識破りの奇矯な言動で知られた 古代ギリシャの哲学者の名を冠したこのクラブは、その名の通りロンドン屈指の風変わりで、閉鎖的なクラブだった。会話は会員同士でも来客室以外では禁じられ、規則を破った者は即刻退会処分となるという。しかし、クラブで供される料理は最高級で、ワインもとびきり上等だった。美食家のマイクロフトは、毎晩必ずここで過ごし、晩餐をゆっくりと楽しむらしい。クラブの創始者の一人である彼は、2階に自分専用の部屋を持っていたが、会員以外の者は1階までしか立ち入りを許されないため、我々は1階の来客室に通された。

 マイクロフトがでっぷり太った巨体を肘掛け椅子に押し込むように座って、ブランディーグラスを手に葉巻をふかしながら待っていた。鋭い鉄灰色の目と厳しく引き締まった口は、威厳に満ちてなんとなく近寄りがたいが、それでいて、鷹揚で悠揚迫らぬ雰囲気も漂わせていた。

 彼は英国政府のとある小部門の会計官という肩書だが、実はこれは彼の一面にすぎず、本当は絶大な影響力を持った、政府にとって欠くべからざる重要人物であった。首相を始めホワイトホール(ロンドンにある中央官庁街)の高官に繋がりを持ち、薨去されたヴィクトリア女王陛下以来、王室とも関係が深いという。彼はさまざまな国家機密に関する事項に参画しており、 「ブルース・パーティントン設計書事件」の際、これは国の最高機密に属する潜水艦の設計書があやうくドイツのスパイに盗まれそうになった事件であったが、この設計図を奪い返す作戦を主導したのもマイクロフトだった。

 我々の顔を見ると、彼は懐中時計を出して、

「5分遅れたな。あの程度の解読で遅くなったわけではあるまい?」

「おりよくワトソンが訪ねてきてね、つもる話に出かけるのが遅くなったのさ。」。

マイクロフトは目を細めて

「ほう、ワトソン君は、今、住まいは別か。ということは、往診をやめて昔のように医院を再開したわけだ。きっかけは結婚だな?」

私は驚いて言った。

「いえ、まだ婚約しただけで、挙式は十月の予定です。よい女性と出会いまして、再婚ともう一度医院を開く決心をしました。適当な家を見つけたもので、いろいろ準備が大変でしたが、ようやく一段落がついて、先週から診察を始めたところです。それにしてよく分かりましたね。」

私は彼にすべてを見抜かれているようで、なんとなく気味が悪かった。

「君の服装、立ち居振る舞いをみればすぐ分かる。君は独身者のように見えないよ。」

ホームズは笑って、

「僕や兄のような独身主義者と違って、男は家庭を持つと野放図さがなくなるのさ。」

「さて、本題に入ろう。今日来てもらったのは、電報で知らせたように外国政府が絡んだ非常に厄介な事件が起きたためだ。事件は我が国が結んだ軍事協定の書類を相手国の交渉担当官が紛失してしまったのだ。詳しくはこれから私といっしょに外務省に行って聞いてもらう。すでに向こうは来て我々を待っていると思うので、すぐ出かけよう。」

こういうとマイクロフトはたち上がって、あわただしく部屋を出て行った。我々も急いで彼のあとを追った。玄関の外にはすでにハックニー・キャリッジ(2頭立て四輪箱馬車)が待たせてあった。マイクロフトは太った体に似合わず、身軽に馬車に乗り、早く乗るように促した。馬車は蹄の音も高く走り出した。

ホームズは、マイクロフトに尋ねた

「兄さん、相手国とは日本だね? 日英同盟の条約公文はとっくに公開されているから、これとは別に秘密の協定が結ばれたのかい?」

「そうだ。だが、内容については極秘なので私の口からは言えない。首相、外務省、陸軍省等のごく一部の関係者しか知らないことなのだ。これについては向こうで詳しい話が聞けるだろう。」

「書類の紛失にロシアやフランス、ドイツはどの程度関わっているのだろう?」

「陸軍の諜報局は彼らの仕業と決めつけている。ただし、現在のところ確証はないようだ。もし、彼らが協定交渉を察知していたならば、関与した疑いは濃厚となるが。」

「秘密交渉が行われたことは、どの程度知られているのだい?」

「分からない。両国とも直接交渉に関わったのは、陸海軍のごく少数の軍事部門だけで、一部を除いて政府関係者もほとんど知らないはずだ。私もこの事件によって始めて知ったよ。」


 まもなく、キング・チャールズ・ストリートの北側にある外務省に着いた。マイクロフトが検問所の門衛に鑑札を見せて車を乗り入れ、通用門の前で下車し、イタリア様式で作られた瀟洒な建物の中に入った。この建物は、外務省のほか、インド省、内務省、植民省が入居した大建築物で、内部の壮麗さで聞こえていた。役所というよりホテルに入ったような感じで、実際、外務省などは、夜会や公式レセプションなどにも使うという。  

 マイクロフトは勝手知ったようすで、案内もなしにさっさと奥に向かい、我々を大臣室に導いた。扉の前で呼び鈴を押すと秘書官が現れた。マイクロフトが大臣への取り次ぎを依頼すると、我々の到着を知らされていたようで、直ちに奥の執務室に通された。

 中に入るとすでに4人の人物が安楽椅子とソファに腰掛けて、なにやら議論の最中であった。この内2人は東洋人で、年配の方は外交官らしくフロックコートの正装姿、もう一人は中年の高級軍人で、勲章を並べた肋骨服を着用していた。残りの2人は英国人で、一人は将官の階級章を付けた英国陸軍の軍人、もう一人は仕立ての良い上等な背広をきちんと着こなした紳士だった。刈り込まれた口髭を蓄え、背が高く鶴のように細身で、生え際が大きく後退して禿げ上がっていた。これが第5代ランズダウン侯爵ヘンリー・ペティ・フリッツモーリス外相と思われた。

 マイクロフトは背広の人物に向かってホームズと私を紹介し、さらにこちらがランズダウン外務大臣だと紹介してくれた。彼は立ち上がって握手を求め、我々をねぎらい次のように言った。

「マイクロフト、無理を言って弟さんを引っ張りだしてもらってご苦労をかけた。ホームズ君、ワトソン博士、おいで頂いてありがとう。君たちの活躍はかねがね耳にしているよ。ワトソン博士の著書もたびたび拝見させていただいている。マイクロフトから聞いていると思うが、外務省は以前にも君たちに助けを求めたが、今回もまたご無理をお願いすることになった。」

そして、2人の東洋人を我々に紹介して、

「こちらは、日本帝国特命全権公使タダス・ハヤシ子爵、ご承知のように我が国と日本は今年1月から同盟関係に入ったが、ハヤシ公使はその締結交渉に大いなる貢献をされた方だ。」

林董公使は立ち上がって一礼し、我々に握手を求めた。大臣は続いて、肋骨服の軍人を紹介し、

「こちらは日本陸軍のヤスマサ・フクシマ少将、 10年前単騎で真冬のシベリアを横断されたことで有名な方だ。また2年前の 拳匪の乱の際、八カ国連合軍の一員として日本軍の指揮を執り、北京籠城の外交団救出に大いに貢献された。」

福島少将はやはり立ち上がってお辞儀して、握手を求めた。最後に、大臣は自分の横にいる大柄で赤毛の英国陸軍の将官を、ニコルソン陸軍中将で陸軍省動員・諜報局長を務めていると紹介した。

 一通り紹介と挨拶が済んで一同が腰を下ろすと、大臣は秘書官の運んできたキュウラソー入りのコーヒーを勧め、林公使にホームズを呼んだ事情を説明してもらえないかと頼んだ。林公使は、大臣に会釈して語り出した。

「高名なシャーロック・ホームズ氏にこうしてお会いいただいて光栄です。このたびおいでいただいたのは、我が帝国と大英帝国の両国にとって重大な事件、とりわけ我が国にとりましては国の命運に係わる事件が起こりました。事件の詳細は後ほど福島少将からご説明しますが、解決は困難を極めており、是非ともホームズ氏のご協力を賜りたいと願う次第です。ランズダウン外相のお話によると、ホームズ氏は数々の難事件を解決され、また、たびたび貴国政府、あるいは外国政府の要請に応じて内政・外交に係わる複雑な事件の解決に多大の貢献をされたと聞いております。このたびランズダウン外相の推奨もあり、我が国もホームズ氏のご協力を賜りたいと強く願うものです。」

 林公使は、ここまでを見事なキングズイングリッシュで一気に語った。公使はは白毛混じりの口髭をピンと伸ばした、押し出しも堂々とした重厚な人物で、なかなか能弁であった。ランズダウン外相はホームズの顔を見ながら言った。

「ホームズ君、兄上のマイクロフトにも話をしていたのだが、これは日本だけでなく我々英国にとっても重大な問題なのだ。この事件が解決出来ないと我が国も大きな打撃を受ける可能性がある。まだ納得できないかもしれないが、私からも是非協力をお願いしたい。」

マイクロフトはホームズを振り返りながら、

「車の中でも言ったがこの件は極秘で、我が国ではダウニング街(首相官邸)、陸軍省、外務省のごく一部の関係者しか知らない。いま両国で必死に捜査に当たっているが、事件の性質上、スコットランドヤード(ロンドン警視庁)は、公式には通常の犯罪捜査の範囲しか行えない。したがって、秘密裏の捜査については、ぜひ君たちの協力が必要なのだ。」

ホームズは、少し考え込むようにして言った。

「日本のような外国ですとことばの壁もあって捜査はなかなか難しい問題があります。ともかく、我々が関わるかどうかの前に、事件の内容を聞かせてもらえませんか?」

 林公使は、ごもっともとホームズに同意して、福島少将の方を見ながら説明を促した。短髪でがっちりした体躯の福島少将は、軍人らしい意志強固な表情をしていたが、かなり憔悴して顔色も悪く、少し緊張していた。私たちに向かって一礼した後、正確な英語で話し出した。

「私は参謀本部で第二部長を拝命しております。このたびはエドワード7世国王陛下戴冠式に出席される小松宮殿下の随行員として訪英しております。しかし、実際の任務は陸軍代表として両国の軍事協商の交渉のため参りました。」

「ご承知のように、ロシア帝国は義和団事件以来満州に居座り続け、各国の非難によって、ようやくこの四月に清国との撤兵交渉を妥結しましたが、どこまで履行する気があるのか極めて疑わしく思われます。 5年前には、遼東半島の旅順を強引に租借して太平洋艦隊の主力を移し、巨砲を据えて恒久堡塁を構築しております。今後は、全通したばかりのシベリア鉄道経由で、2百万と豪語する陸兵を増派してくるものと思われます。また軍艦も続々と回送しており、ウラジオストック艦隊と旅順艦隊を併せたロシア太平洋艦隊の勢力は我が国の常備艦隊に拮抗しつつあり、我が国のみならず朝鮮国、清国にとって大きな脅威となっております。」

「このような折、貴国が同盟国になっていただいたことは、我が国をどれほど力づけることかわかりません。よく知られているように日英同盟は、その第二条、第三条によって、日英各国の戦争相手国が1カ国だけの場合、他の一方は厳正中立を保ち、第三国が交戦に加わった場合のみ同盟国を支援して戦うという条約です。しかし実は、軍事当局者ではこうした同盟条約とは別に、お互いの協力関係を深める秘密の軍事協商会議が進められていたのです。」

福島少将はここまでの長い話を、何回かにくぎりながら語った。私は始めて耳にする秘密軍事協商の話に大いに興味をそそられたが、ホームズは黙然として聞き入るばかりであった。少将はさらに続けた。

「軍事協商のための陸海軍代表者会議は、今月七日と八日に秘密裏にロンドンのウィンチェスター館の陸軍省別館で行われ、両国の軍事協約が締結されました。軍事協約書は英文で各国ごとに、陸海軍共通の協約書と陸軍単独の協約書が作られました。陸軍単独協約書については各国1通、陸海軍共通協約書については、海軍用と陸軍用に各国2通用意されました。海軍用は海軍側代表の伊集院少将がお持ちになり、陸軍のものはすべて私が携行して、スエズ経由で速やかに本国に届ける予定でした。私はこの陸軍の2通の協約書を厳重に保管しておりましたところ、去る七月十三日になって、このうちの1通、陸軍単独の協約書だけが失われていることが分かったのです。」

 このとき。ホームズは不意に沈黙を破って尋ねた。

「紛失された場所は公使館ですか?」

福島少将は、首を振って言った。

「いいえ、サヴォイホテルの私の部屋です。私は小松宮殿下の随行員の一員ですので、殿下が滞在されたサヴォイホテルに宿泊しています。私の部屋は3階3010号室で、書類は施錠した書類鞄に入れ、鞄はスイートルームの奥の寝室の鍵付き戸棚に収納してありました。」

ホームズはさらに尋ねた。

「無くなった時の部屋の状況を教えてください。盗難に遭われたような形跡はありましたか?」

福島少将は、大きく首を左右に振りながら否定した。

「いいえ、私が見る限り賊が侵入した形跡は全くありませんでした。とくに無くなったものもありませんし、扉も窓も鍵がかかっていました。それにもかかわらず、戸棚も書類鞄も鍵がかかったままの状態で、中の書類だけが無くなっていたのです。ちなみに、鞄の鍵と戸棚の鍵は私が常時所持しておりました。」

マイクロフトが次のように言った。

「モテルのメイドやボーイ等は全員調べたよ。公式には金時計や宝石付き勲章等の貴重品紛失事件として捜査している。書類が部屋に有ったと思われる七月八日夜から十三日までにあの部屋に入った者は、関係者以外は、客室係のメイド一人だけでとくに不審なことは全くないそうだ。こちらも彼女の背後関係を調べたがとくに怪しい点はない。高級ホテルの従業員としてまじめに勤めているよ。ホテル側も信用があるからいろいろ調べてくれて、従業員の中にとくに疑わしい者はいないそうだ。警察は、どこか別の場所で鞄の中身を紛失したか盗まれたのではないかと言っている。」

福島少将はやや憤然とした調子で、

「そうしたことはありえません。八日に陸軍単独協約書が作成された後、書類鞄は公使館付駐在武官の宇都宮少佐が預かり、ホテルにもどるまで彼が肌身離さず所持していました。部屋にもどった後、前日に調印した陸海軍共通協約書も含めて、二通とも書類鞄に入っていることを確認の上、私が施錠して寝室の戸棚に格納しました。以降、鞄は部屋の外には持ち出していません。」

そして次のように付け加えた。

「この事件のあと、一応我々の方でも日本側の関係者を全員調べてみました。疑わしい者は一人もいません。書類に近づけるのは、私以外は宇都宮少佐だけですが、彼は英国側のオルタム陸軍少佐とともにこの協約書を起案した人物で、彼が持ち出す理由がありません。」

 一同がしばらく沈黙した後、ホームズが突然、次のように言った。

「紛失した協約書の内容を教えていただけますか?」

私は、ホームズの単刀直入な質問に驚いた。福島少将は、言いよどんで、

「ええ…、これは日英両国の軍事機密に関することですので…、私の一存では申し上げられません。」

するとホームズは、有無を言はせぬ様子で、

「将軍、書類の紛失事件はこの書類の内容とかかわっています。通常の盗難でないとしたら、犯行の動機は明らかに書類の入手を狙ったものです。外国政府や諜報機関の関与も考えられます。従って、犯人の手がかりをつかむためにも、書類の内容は知っておく必要があります。」

このとき、林公使が日本語で福島少将に話しかけ、しばらく二人でやりとりした後、公使は次のようにホームズに言った。

「失礼いたしました。これはホームズ氏の言う通りで、この件では小村寿太郎外相から、英国側に捜査をお願いする以上、英国の関係方面に全面的に協力するように訓令されている。機密の解除は英国側もすでに了承しているし、小村外相を通じて参謀総長、陸軍大臣にも要請していただくので、差し支えない範囲で説明されたらどうか、という話をいたしまして、ただいま福島将軍も了解されました。」

すると、今まで黙っていたニコルソン中将がきびしい表情で口を挟んだ。

「軍人としてフクシマ将軍の懸念は当然で、我々英国側も軍機保護の点から慎重に取り扱っていただきたい。今回は政府首脳の要請もあり、機密の一部解除に同意するが、ホームズ氏にはあくまでも特例中の特例と考えてほしい。」

福島少将は、お許しをいただいたようなのでと言いながら、慚愧に堪えないといった様子を見せて、

「まずは、外務大臣閣下、公使閣下、ニコルソン中将閣下、今回の私の慎重さを欠いた不手際で、大英帝国並びに我が国に多大の迷惑をおかけしたことを改めて深くお詫びしたいと思います。責任をとるための私自身の進退も当然考えておりますが、まず、紛失した書類の行方を突き止めるのが先決で、今はその発見に全力を尽くすべきであると考 えております。ホームズ様、よろしくお願いいたします。」

 こう言い終わるとホームズに深々と頭を下げた。ホームズは恐縮して答礼し、林公使は将軍の責任など誰も考えていないと言い、ランズダウン外相もこれは我が国の警備体制にも問題があったのだと慰めた。

福島少将は感謝しながら話し始めた。

「紛失した書類には、我が国がロシアと開戦することを前提にした日英両陸軍の秘密協定が記されていました。先ほど申し上げた通り、今年の一月三十日に締結された日英同盟は、日英各国が1ヶ国とのみ戦う場合は、各国とも厳正中立を保つという同盟ですが、軍事協約に関してはそれ以上のより突っ込んだ内容の交渉が行われたのです。」

「交渉はまず、今年の五月、日本の横須賀で予備会談が行われました。この時は主として海軍に関する軍事協定の協議が中心に進められ、陸軍に関しては、作戦方針、船舶支援、作戦地誌、兵站地誌等が協議されました。七月七日のロンドンの会議は、陸海軍合同で横須賀の協議を踏まえ、正式の陸海軍共通協約書が作成されて調印されました。しかし、これとは別に陸軍独自の本格的な軍事協定が極秘に作られたのです。これは、七日の陸海軍の会議の後、日英の陸軍のみで秘密の会議が行われ、翌八日に相互の協定が締結されました。」

ここまで言うと福島少将はニコルソン中将に向かって、陸軍協約書の詳細については、英国側から説明していただけないかと頼んだ。

 ニコルソン中将はやむを得ないという表情で、しぶしぶ語り出した。

「我が陸軍は、4年にわたるボーア人との戦争に勝利したものの、この間数億ポンドの戦費と多大の人的損害を受け、海軍とは違って実のところ日本を支援する力はない。しかし、日本側の強い要望として、強大なロシア軍に対抗するためには、地上戦力においてもぜひとも英軍の具体的支援の保障が必要ということでこの協定が結ばれたのだ。もちろん、これは正規の同盟条文に抵触することだが、現政府首脳の英断によって極秘にうちに行われた。」

こう言って、ニコルソン中将はランズダウン外相のほうをちらりと見た。

「協定の内容は、今後1年以内に限定して日露開戦があった場合、英国は1個軍団以上の兵力を速やかに満州に送ること、それからアフガン方面から国境地帯のロシアを攻撃することだ。その代わり日本は台湾に混成旅団をいくつか置き、ロシアの協商国フランスが介入した場合は、直ちに英軍とともにトンキン・安南方面の仏軍を撃攘してフランス植民地を制圧、英領インドシナの安定確保に当たることになっている。」

 これを聞いて私は、 アフガニスタン戦争に従軍し、負傷もした経験があるので、驚いて口を挟んだ。

「ニコルソン閣下、アフガンでは私も戦った経験がありますが、我々イギリス人には気候、風土、住民とも最悪ともいうべき土地で、この地で戦う困難さは南アフリカ以上だと思われますが、本当に戦うのでしょうか?」

ニコルソン中将は、余計な事をといった表情で、

「それほど大規模な出兵にはならないと思う。ロシアもこの地で戦う困難さは十分分かっているので拡大を望まないだろう。おそらく国境線を越えて進出しているロシア軍を駆逐する程度の限定的な作戦となると思う。」

そのとき、ランズダウン外相が次のように言った

「かなり以前からロシアはしきりにインド・アフガン方面へ進出しようと、しばしば国境の侵犯を繰り返してきた。とくにアフガンは、我が国がボーア戦争で気を取られているうちに、山岳地帯では国境線を越えてロシア軍が不法占拠した地域がいくつもある。また、インドについても反英的傾向を持つ土侯国をそそのかしてイギリス排斥の暴動をたくらむなど、実に悪辣な策動を行っている。その意味で今回の出兵は、侵略に対する我々の強い意思表示を示す意味でよい機会かもしれないのだよ。」

 ここで、今まで黙って聞き入っていたホームズが、

「たいへん重要な軍事機密をお聞かせいただき、まことにありがとうございました。ところで、この軍事協約書の存在を知っているのは、どのような方々ですか?」。

福島少将は、

「我が国では協約書はまだ天皇陛下の御裁可を頂いておりません。したがって、国内的にはいまだ案の段階に置かれていますので、今のところ、軍事協約書の中身を知っている関係者は、桂首相、小村外相、寺内陸相などの陸海軍の首脳部及び直接交渉に当たった陸海軍の参謀将校、駐在武官のみです。とりわけ陸軍独自の単独協約書の詳細については、まだ海軍のほうにも詳しく伝えておりませんし、本国の陸軍部内でも、中身はおろか存在すら知らない者が大半です。」

ニコルソン中将も引き続いて、

「英国についても同様で、陸海軍共通の分はともかく、陸軍単独の協約書の中身を知っているのは、バルフォア首相、ランズダウン外相及び陸軍大臣と陸軍省の中枢部に限られ、ソルズベリ前首相や海軍にもまだ知らされていないと思う。」

ホームズは、今度はランズダウン外相に向かって尋ねた。

「この協約書に関心を示す国は、ロシア以外にどの国でしょうか?」 

「多くの国が関心を持つだろうが、とくに強く関心を持つのはフランスだろう。フランスは英国が日本を支援して戦った場合、ロシアの協商国だから参戦の義務がある。彼らはロシアを支援するにしても、ロシア国債を引き受けて財政援助をする程度で、何としても戦争には巻き込まれたくないのが本音だ。したがって日英の軍事協商にはずいぶん気にしている。この間もデルカッセ(フランス外相)が日英同盟の中立条項の確認を問い合わせてきたよ。フランスはドイツを牽制するために露仏協商を結んだのであって、英国と戦う理由はないそうだ。」

ニコルソン中将が、口を挟んだ。

「ドイツもそれに劣らぬ関心を示すと思われます。」

外相は、うなずいて、

「もちろんドイツも関心を示すだろう。ドイツはロシアと日本を戦わせたくてしかたがないのだ。ここだけの話だが、ドイツはロシアの南進を防ぐためと称して英独日の三カ国同盟を提起してきた。カイゼルもドイツ政府も三カ国同盟が必要と強く主張して、我が国を誘い込み、日本にも強く勧めて交渉が後に引けない時点で、突然身を引いてしまった。ロシアの矛先を極東に向けるために、慎重な日本を戦争に駆り立てるカイゼル一流の策略だろう。ハヤシ公使を前にしてこんな言い方をして申し訳ないが、日本も英国もドイツの策謀に乗せられたのだ。」

林公使は、すぐに強い調子で語った。

「大臣閣下、ドイツの思惑はどうあれ、我が国はロシアの専横に対しては断固対決する所存です。天皇陛下の極力戦争は避けよとの仰せにより、交渉は続けて参りますが、万やむを得ない時には、政府・国民一丸となって戦う覚悟です。これは貴国を恃んで我々に戦う決心をさせるというドイツの画策とは無縁な国民感情から出発しております。」

外相は、なだめるように

「公使、貴国が信頼すべき国であり、貴国の軍民がいかに勇敢で頼りがいがあるかは2年前の拳匪の乱で証明されています。我が大英帝国が栄光ある孤立を捨てて貴国と同盟に踏み切ったのもこのためです。」

そして、やや皮肉っぽく付け加えた。

「ただ、 イエローペリル(黄禍論)を唱えるカイゼルのような反日主義者のいるドイツに対して、日本は少し警戒心がなさ過ぎる気がします。そういえば貴国には従来から親独派が多く、ここにいるフクシマ将軍などのように、日本陸軍もずいぶんドイツの影響を受けているようですね?」

福島少将は、折り目正しく反論した。

「大臣閣下、我が陸軍はドイツ兵制を取り入れ、留学生も派遣しておりますが、これは英国が海軍国として世界に隔絶した地位を占めているのと同様、陸軍国としては、ドイツに一日の長があり、学ぶものが多いと判断したからにすぎません。確かに私も陸軍大学において メッケル教官のドイツ兵学を学びましたが、あくまで参謀将校としての作戦技術を習得するためで、ドイツの政治的意図や主張を信奉するものではありません。」

外相は、笑いながら釈明した。

「もちろん、その辺のことはよく分かっているつもりです。15年前、ドイツにはビスマルクのような偉大で賢明な首相もいたが、現在はカイゼル一人で国を統治しています。彼は繁栄する英国に嫉妬し、絶えず英国の弱体化を狙っています。その彼が、中立を装ってロシアの後押しをしていることを忘れてはならない、という意味で申し上げました。」

ここでマイクロフトが話を戻して、

「かなり時間も過ぎたし、この辺でホームズの返事を聞かせてもらうのがよいと思いますが、ホームズ、まだ質問があるかね?」

「事件についてはいまのところはありません。事件の詳細は後日くわしく聞き取りできますし、現場も実際に見なければなりませんから。ところで、この事件が軍事機密を狙ったものならば、国内だけでなくロシア等の外国勢力が介在していることが考えられます。先ほど述べた外国スパイ、秘密諜報組織の関与は十分考えられますが、これについては当然我が国の防諜機関のほうで対処していると思うのですが、いかがですか?」

ニコルソン中将は、ホームズに向かって、

「おっしゃる通り我が諜報局は、最初からこの事件がロシアかフランス、ドイルのスパイ、若しくはその影響下の人間の手によるものとにらんでいる。専門的な訓練を受けた諜報員ならば、施錠した部屋への侵入や機密書類の窃取はそう難しいことではない。ただ残念ながら、内部協力者なしでどのように侵入して証拠も残さず書類だけを盗み取ったのか、まだその手口がまだ分からない。この辺については警察も同様だ。これに関してはホームズ氏の手腕に期待している。それから、書類が失われたからすでに2週間以上経つのに、ロシアやフランス等がこの軍事機密を知った形跡が見られない。我々はいろいろなルートで探索しているが、通常、こういった情報を知った場合、両国は緊急に協議や電信を交わしたり、英国側に対抗手段を取ったりして何らかの反応やアクションを起こすものだ。今回はそうした兆候が全く見られないのも謎だ。」

マイクロフトは、

「情報を入手していることを秘匿しているかもしれない。とくにロシアは政府の内部で穏健派が押さえていて、まだ皇帝や軍首脳部に伝えていないかもしれない。ロシアの情勢は複雑だ。政府も保守派と改革派分かれているし、対外進出に反対し、日英と協調しようとする穏健派と、武力によって南下政策を推進しようとする強硬派がいがみ合っている。ニコライ二世は、人柄は好いが優柔不断だ。強硬派がこの情報を知れば黙っていない。これを口実に好戦的な軍部とともに皇帝を突き上げて、フランスを巻き込んで開戦に踏み切るかもしれない。穏健派のウィッテ蔵相やラムズドルフ外相も抑えきれないだろう。」

ランズダウン外相が、さらに付け加えて、

「そうなっては大変だから書類が誰の手に落ちたかを一刻も早く知る必要があるわけだ。外国諜報機関の関与が濃厚だが、それにしても書類を盗んだ意図がはっきりしない。もしこの情報をつかんだとして、ロシア、フランスにしてもドイツにしても、何の反応も見せないのはおかしい。いずれにしてホームズ君、大変困難だと思うが、この事件の捜査に協力していただけないだろうか?」

林公使と福島少将も、はなはだ無理なお願いとは重々承知しているが、ぜひとも引き受けてはもらえないかと再び頼んだ。

ホームズは承知して、こう言った。

「ここまでお聞きした以上は、引き受けざるを得ないでしょう。早速、明日サヴォイホテルにお伺いして現場の確認と関係者の聞き取りを行いたいと思いますので、日本の関係者の方々全員の立ち合いをお願いします。」

こうしてランズダウン外相ら日英の要人たちの感謝の言葉とともに、我々は辞去した。マイクロソフトは部屋の外まで見送りに来て、自分は外相との用談があるのであとに残るが、今後何かあればディオゲネス・クラブまでに連絡するように言って別れた。外務省の外に出ると、すでに馬車が手配されて待っていた。


 帰途の馬車の中で、私はホームズにあの日本人たちの印象を聞いてみた。ホームズは、窓の外を眺めながら、

「極めて怜悧で進取的な国民だね。それに勇敢だ。たかだか40年足らずの内に、ほとんど無の状態から仏独伊に匹敵するほどの海軍を作り上げ、今や強国ロシアの侵略にまともに立ち向かおうとしている。」

私は、10年前の新聞記事を思い出して、

「あのフクシマ将軍だが、語学はかなり堪能だね。英語だけでなく、フランス語もロシア語もできるようだ。彼の単騎シベリア横断の話については、当時新聞で読んだことがある。たった一人で厳冬期のシベリアの奥地まで入り込んで旅をしたのだから言葉には不自由しなかったに違いない。たしか冒険旅行にかこつけてロシアの内情や兵用地誌を探ることも目的だったらしい。そうすると彼は優秀な情報将校だったわけだ。」

「指揮官としても優れているのだろうね。彼は拳匪の乱のとき、日本軍を指揮したらしいが、当時の新聞記事によると、日本軍はロシア軍よりはるに規律正しく、勇敢だったらしい。日本軍の武勇と軍規の厳正さは、タイムズも賞賛していたね。将兵の素質もあるが、やはり指揮が優れていたせいもあると思う。」

 私は、真面目で責任感の強そうな福島少将の姿を思い浮かべ、ふと気になって、

「ニコルソン中将だが、私は軍にいたとき名前を聞いたことがあるが、会ったのは初めてだ。極めて有能そうな人物だが、どうもわれわれが関わることには、彼はあまり乗り気でなさそうだね?」

「うんそうだね。軍事に関してぼくらに何が分かるか、といった態度だった。それに日本との軍事協定も内心では反対らしい。本気で協力する気があるのか疑わしいね。」

私は驚いて、どうして分かると訊いた。

「フクシマ将軍の説明の時、僕はニコルソン中将の様子を見ていたが、彼はたいして関心を示さなかった。はじめから問題にしていない態度だ。日本公使に対しても素人扱いをしていると思う。彼は日本をあまり評価していないようだ。」

ホームズの冷たいことばに、私は、東洋人を軽侮する我々白人の差別感情に心が暗くなった。そしてこう聞いてみた。

「今回の事件は、ロシアかフランスによって書類がすでに国外に持ち去られていたら、フクシマ将軍には気の毒だが、取り返すことは不可能じゃないかな?」

「そうだね。その場合はたとえ書類を取り返してもあまり意味がない。軍事機密はすでに相手側に知られてしまったのだから。あとは、政治や外交の問題だね。」

 ホームズはそう言って、その後は何も語らなかった。ベイカー街に到着ののち、ホームズは馬車から降りながら、明日私がサヴォイホテルに同行できるかと尋ねた。

「もちろん、行くよ。戦争になるかどうか国家の重大事だ。それに、明日は予約患者もいないので休診をして、朝早くベイカー街を訪ねるよ。」

そう言って別れ、そのまま家に向かって馬車を走らせた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る