シャーロック・ホームズ「知られざる事件簿」『消えた軍事協約書』

惟 在人(タダ アリト)

第1話  「奇妙な電報」

 一 「奇妙な電報」

一九〇一年の新年早々、ヴィクトリア女王陛下が亡くなられて64年間続いたヴィクトリア時代も終わりを告げ、エドワード七世陛下の即位が二十世紀の幕開けともなった。

翌一九〇二年、泥沼の ボーア戦争も五月に講和が結ばれてようやく終わり、まもなく行われる戴冠式に向けて、世の中は明るい祝賀ムードに包まれていた。ホームズは、我らが君主エドワード七世の戴冠式に際して、数々の難事件の解決による国家への顕著な功績を称えてナイトの称号を授けられるはずであった。ところが、彼はこれを辞退してしまったのである。

当時、これには皆不思議がり、惜しむ声や非難する声もあったが、あくまで無位無冠の、市井のコンサルティング・ディテクテブ(諮問探偵)でありたいというのが、彼の信念だったのである。

六月二六日の戴冠式はエドワード七世の急病で延期になったが、このころ私は現在の妻と再婚するため、ベイカー街を出て、クイーン・アン街に再び医院を開業したばかりであった。いろいろと忙しかったが、ホームズ自身が引退後、 事件簿「白面の兵士」で書いたように、私は彼を見捨てていたわけでなかった。暇を見つけては、ときどきベイカー街221Bの、かつてのホームズとの共同生活の場を訪れ、彼の求めるまま事件解決に行動を共にしていたのである。


さて、この年の七月も末の二七日、私は午前中の診察を終え、午後も遅くなってしばらくぶりでホームズのもとを訪ねた。この日は暑さが厳しく、ベイカー街には強い陽射しが照りつけていた。汗を拭き拭き、玄関ドアをノックすると給仕の少年が出て家の中に入れてくれた。見慣れた玄関を通って2階に上ると、窓を開け放ちブラインドを下ろして日差しを遮った薄暗い居間で、ホームズがパイプをくわえ、何か紙片を手にして考え込みながら、肘掛け椅子にもたれていた。

「ホームズ、元気かね?」

私が声をかけるとホームズは喜んで言った。

「やあ! よく来てくれたね。その後、足の調子はどうだい?」

「ありがとう。もともとかすり傷だったし、今はたまに足が引きつるだけで、ほとんどよくなったよ。」

「それはよかった。かすり傷とはいえ、あの時はずいぶん出血していたから、本当に心配したよ。君が医者ですぐに適切な処置ができてよかった。」

先月、私は 「三人ガリデブ」事件で偽札づくりの犯人、通称殺し屋エバンズに拳銃で撃たれ、弾は奇跡的に大腿部をかすめて、軽い擦過傷を負ったのであった。

「弾が皮下の筋肉を少しえぐったからね。しかし、見た目ほど出血はひどくないよ。2週間ほどで傷口もふさがって、今は普通に歩ける。」

「本当によかった。ところで、ちょうどいま、君を呼ぼうかどうか迷っていたところさ。でも、ワトソン夫人が機嫌良く君を送り出したところを見ると、独身主義者の気兼ねは不要だったらしい。」

「まだ挙式前なので、メアリー・メイパリー夫人はワトソン夫人ではなく婚約者だが、なぜ彼女が私を送り出したのが分かったのかね?」

「基本だよ! ワトソン。君の身なりを観察すればすぐ分かる。多少汗はにじんでいるが、君のカラーは糊が効いて真新しい。シャツも皺が寄ってないし、朝から着ていたものではないことが分かる。出かける前に彼女が着替えさせたに決まっている。夏向きのクラバットも洋服にうまく合わせて、女性らしい繊細な見立てだ。君の無頓着な選び方とは大違いだ。ここを訪ねることは彼女の勧めだったのだろう。」

私は、いつもながら彼の観察眼の鋭さに舌を巻き、

「驚いたね。その通りさ。昨日、ハロウ・ウィールドの邸宅でメアリーが、『そろそろホームズさんを訪ねたら。』と言ってね。僕が君のことを気にしていることはお見通しで、『私に気兼ねしないで、ぜひ明日にでも行ってくださいな。』と勧めたのさ。今朝もメイドを連れて医院の手伝いに来てくれて、私の出かける前に着替えなど甲斐甲斐しく世話をしてくれたよ。」

そのとき部屋のドアが開いて、ハドソン夫人が、ティーポットを持った給仕を従えて、アフタヌーンティーのトレイを運んできた。

「まあまあ、ワトソン先生よくいらっしゃいました。久しぶりでお会いできて嬉しいですわ。あなたがいらっしゃらないと家中さびしくって。ちょうどお茶の時間でよかったわ。ケーキもスコーンも焼きたてですよ。さあさあ、どうぞ。」

とにこにこしながら、取り散らかしたテーブルの上を片付け、お茶の用意をしてくれた。トレイには、ティーカップ、ミルク入れ、焼きたてのスコーン、レーズン入りバウンドケーキ、キュウリとハムのサンドイッチ、クロテッドクリーム(イギリス伝統の煮詰めたミルクから作った濃厚クリーム)、アプリコットジャムなどを入れた小皿が載っている。

「ここでしか食べられないハドソンさんご自慢のスウィーツだ。我らのワトソンをもてなすにはちょうどいい。さあ、いただこう。」

こう言うとホームズは、早速食べ始めた。ハドソンさんは、ごゆっくり召し上がれと言って部屋を出て行った。私は、入れ立てのダージリンティーを味わいながら聞いた。

「僕を呼ぼうというからには、何か大きな事件でもあったのかね?」

ホームズは口を動かしながら、テーブルの上に置いた先ほどの紙片を取り、黙って私に寄越した。紙は電報でつぎのように書かれていた。

 《食い道楽にはパイプがいる。ポストマーク5番の沈黙の誓いに、聴診器があればよい。二振りのサーベルの契約書を探している。月桂樹とオークの上で金の鷹がねらっている。ハンドルバーはNEに向き、海より陸の従弟を好む。ライオンは傷口をなめている。》

差出人の名もなく、意味不明の奇妙な電報を前に考え込んでいる私を見て、ホームズは、ナプキンで口をぬぐいながら言った。

「君が来るしばらく前に届いたのだ。何を意味しているか推測できるかい。」

私はほとんど分からなかったが、ふと思いついていった。

「電報は、君の兄さんが出したのだろう。『食い道楽』は、たぶん食通で美食家のマイクロフトのことだね?」

ホームズは、ご名答と言って、

「もう分かったと思うが、『パイプ』とはパイプ煙草を愛好する僕のことさ。『聴診器』も分かるね?」

私は、なるほどと思って、

「つまり僕のことかい。ということは、これはマイクロフトが君と僕に会いたいというメッセージなのだね?」

「その通りだよ、ワトソン。前にも言ったが、推理力というのは伝染するようだね、」

「いつものことさ、君の暗示のおかげで、僕の推理能力も向上したよ。」

「それはよかった。さて、兄は、ぼくらに何か探し物で、協力を求めているらしい。」

「うん、『二振りのサーベルの契約書を探している』とあるね。ところで、その前の『ポストマーク5番の沈黙の誓い』とはなんのことだろう。消印(postmark)の5番目とは出した手紙の順番かな?」

私が首をかしげると、ホームズは、

「いや、郵便の消印には日付、時間が記されている。つまり『ポストマーク』とは、おそらく時間を意味したものだろう。それに『ポスト』の頭文字はP、『マーク』はMだから、PMでラテン語のポスト・メリーデェイム(post meridiem 午後の意)つまり午後のことを表しているのだと思う。」

「なるほど、すると『5番』は、午後の5番目、つまり午後5時のことだね。」

「そうさ。」

私は、じゃあ『沈黙の誓い』はなんだろうと、しばらく考えた上で、はっと気づいて勢い込んで言った。

「そういえば、君の兄さんが入会しているディオゲネス・クラブは、会則で私語は来客室を除いて一切禁止しているそうじゃないか。『沈黙の誓い』とはディオゲネス・クラブのことじゃないかな!」

「その通りさ。君の推理力もずいぶん進歩したね。」

ホームズは、ひやかし気味にほめた。私は、それほどでもないさと受け流して、

「ところで『二振りのサーベルの契約書』とはなんのことだい?」

「これを考えるためには、後の部分が手がかりになる。『月桂樹とオーク』とは何だろう。第三共和制のフランス共和国の国章に、月桂樹とオークの枝の十字架があるのは知っているね。つまりこれはフランスのことだ。『月桂樹とオーク』が国を表していると分かれば後は簡単だ。」

私は、なるほどと思って、

 「そうか、そうすると『金の鷹』もやはりどこかの国だね?」

「うん、鷹はいろいろな国で国旗に用いられるが、金の鷹は、ロシア帝国の国旗に使われていて有名だ。現在、ロシアとフランスは協商関係にあるから、『月桂樹とオークの上で金の鷹がねらっている』というのは、フランスの支援のもとにロシアが『二振りのサーベルの契約書』をほしがっているという意味だろう。」

 「ふーん。それじゃ、次の『ハンドルバーはNEに向き』は何のことだろう。舵の柄がNEに向いたとは、何を意味しているのかな?」

「NEは略語だと思うよ。」

「分かった。NEはノースイーストだよ。北東に舵を向けたのだ。」

「NEはその通りだと思うが、北東に舵を向けたでは全体で意味をなさないよ。僕は『ハンドルバー』もやはり国に関係があると思う。」

「どんな関係だい?」

「『ハンドルバー』とは、おそらくハンドルバー・ムスタッシュのことだよ。これは別名エンペラー・ムスタッシュ(カイゼル髭)とも言って、ドイツ皇帝ウィルヘルム二世の髭が2輪車のハンドルに似ていたところから、そう呼ばれている。マイクロフトは『ハンドルバー』で、カイゼル、つまりドイツ帝国のことを表したのじゃないかな。」

「なるほど、そういえば、カイゼルの口髭は有名で、よく風刺画にも書かれているね。そうすると、そのあとの『NEに向き』とは何のことだい?」

「ドイツにとって北東の方角にあるのはロシアだ。おそらくカイゼルが最近、ロシアに何かと肩入れしていることを意味しているのだと思う。」

「そうか、じゃあ『海より陸の従弟を好む』も国に関係があるね? そう言えば、カイゼルとニコライ二世は従兄弟同士だよ。陸の従兄弟とはロシア帝国のニコライ二世のことだね。」

「そう、そして海の従兄弟は、やはり、カイゼルの従兄弟である我が大英帝国の王太子ジョージ・アルバート殿下さ。」

「なるほど、すべて英、独、仏、露の国際関係に関しているわけか。あと残ったのは『ライオンは傷をなめている』だが…。」

私ははっと気づいて、手を打って

「分かったぞ、『ライオン』は英国だ! 獅子の紋章は我が大英帝国の国章だよ。」

「その通り。いずれも国を表していると分かったが、それでは『二振りのサーベルの契約書』とはなんだろう。これも国に関係していると思う。二本のサーベルを使う国はどこだろう。日本のサムライが腰に常に二本のサムライサーベルを差しているのは有名だ。これは日本と関係があると思う。」

私は反問して、

「しかし、日本の国章は、たしかミカドの紋章の菊花ではなかったかな?」

ホームズは、次のように説明した。

「それも考えた。今、戴冠式で世界中から祝賀のための使節が英国に来ている。王族、貴族、大統領、首相、使臣たちが大勢集まって、活発な慶賀外交を行っているようだ。我が国は、ロシアに対抗するため今年の一月に日本と同盟を結んだばかりだ。ロシアとフランスは、早速これを牽制する声明を出している。たぶん、今、訪英中の日本の代表と我が国の間でロシア・フランスに対抗する秘密交渉が行われて、何らかの協定が結ばれたのだと思う。『契約書』とはその協定文書のことだろう。しかもそれは軍事に関する協定で、相手は日本の軍関係者だったと思う。だから『二振りのサーベル』とは、日本の戦士階級サムライの後裔、つまり日本の軍部のことさ。」

私は納得して、

「そうすると、これは日本との攻守同盟の協定文書をめぐる事件ということだね。全体の内容を整理するとどうなるのだろう?」

ホームズは、内容を整理して、

「日本との秘密軍事協定の書類が敵に奪われたか、盗まれたのだと思うよ。それを取り返そうとしているのだ。フランスの支持の下、ロシアが日本と英国の隙をねらっているし、ドイツもロシアをけしかけ、漁夫の利を狙っている、ということさ。」

私は、最後にこうと付け加えた。

「『ライオンは傷口をなめている』とは、つまり我が大英帝国は、長年にわたるボーア人との戦いで疲弊し、ただいまはその傷を癒している最中で、日本との同盟は結んだものの、とても戦える状態ではないということだね?」

ホームズは、カップを飲み干しながら、

「マイクロフトの言いたいことは、そういうことだろう。」

そして、マントルピースの上の時計を眺めて

「さて、5時に来てくれということだから、そろそろ出かけなければならない。君も来てくれるかい?」

「もちろん、行くさ。」

私は張り切って答えた。


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