第3話 ジューンは女魔族と再会する。
「遅せぇ」
ジューンは逆立ちそうになった眉毛をなでつけながら、馬車の御者台に寝転んでいた。
敵情視察にでかけたセイヤーが一向に戻ってこないのでイライラしているのだ。
コウガはすでに「僕の家がどうなってるのか見てくる」と自宅がある南地区に行ってしまったし、コイオスは「フッ、メスたちの淫靡な匂いがプンプンする」と言いながらいかがわしい街に消えていった。
残されたジューンは聖馬リィンと馬車を守って、ずっとセイヤーの帰りを待っているのだ。
だが、さすがに日が暮れたあたりで諦めた。
本来この街は、魔力発電によって夜になると自動で街灯が燦々と輝くはずだが、まったく明るくならない。
風俗店の看板は明るく光っているので、街灯への電力供給だけが止まっている……完全にメンテナンスの手が入っていないようだ。
「まったく。セイヤーもいい年したおっさんなんだから、どうにかして連絡付けてくるだろ」
そう言い聞かせ、明かりをつけたランタンを馬車の軒先に吊り下げたジューンは、馬車を動かすように聖馬リィンに命じた。
『人の子ジューンよ。私達はこれからどうするのですか?』
「とりあえず俺の家がある東地区に行く」
『というか、この馬車必要ですか? 荷もないのですから引っ張る意味がないのですが』
「黙って持っていけ。こんなところに捨てておくわけにもいかないだろ」
尻を軽く蹴られ、リィンは『はぁい♡』と威厳の欠片もない声を出して馬車を引く。
街中でリィンの美しさはかなり目立ったが、近寄ってくるものはいない。堕落してしまったこの街の住民では近寄れないほどの神々しさがあるせいだろう。
お陰で物取りや物乞いも寄ってこないので楽ではある。
そして寄ってこられた所でジューンは一文無しだ。
「しまったな。武器も金も全部セイヤーの亜空間の中だ。ってか、【
ブツブツ文句を言っているうちに、ジューンの邸宅に着いた。
邸宅前には手提げランタンを持った女がいて、灯り一つ付いていない屋敷の方を見ている。
黒と赤紫色のドレスを金魚の尾びれのようにゆらゆらとさせながら、屋敷に人の気配がないのを確認した女は、ため息混じりに振り返った。
馬車の接近にも気が付いていなかったのだろうか………御者台のジューンと女の目があって女はビクゥッ!と背を伸ばした。
「……」
「……」
その女の肌の色は薄紫色で、額には一本角がある。コウモリのような皮膜の翼をゆったり動かして、驚きで上昇した体温を下げようとしている────もちろんこの女は魔族だ。
この街は種族差別を無くす意味でも作られたので、魔族がいても何ら違和感はないのだが、その女魔族が、かつて旅を共にしていたエリゴスだとわかった時、ジューンは違和感に包まれていた。
真紅の衣とよばれる勇者専用フルプレートメイルを守護するために現れたエリゴス……魔族とは言えただの農家の娘である彼女は大した戦力ではなかったが、ジューンたちの身の回りの世話に関してはピカイチだった。
しかし、闇の勇者の呪いによっておっさん勇者に関する記憶を失っているはずのエリゴスが、なぜここで邸宅の様子をうかがっているのか。
『もしかして呪いが解けて記憶が戻った? いや、それはないな』
呪いを解くにはこの聖竜リィンの涙が必要だ。
エリゴスはじっとジューンを見つめている。
『なんて言おう? こちらのことは忘れているはずだし……』
ジューンは迂闊に声をかけられずにいた。
もし記憶が無くてもエリゴスが幸せに過ごしているのであれば、おっさん勇者とは違う所で生きていくのも道の一つだ。それをわざわざおっさんたちの方から破棄させるような手は使いたくないのだ。
「ちょっといいですか?」
御者台の上で考え込んでいると、エリゴスの方から話しかけられた。
「あなた、勇者ジューンの邸宅に御用?」
「俺がそのジューンだからな」
「え………」
「……」
「で、では聞きますが、あなたは私のことをご存知?」
「エリゴスだろ?」
「え………」
「……」
「なんで知ってるの……ああ、やっぱり何か変だわ」
エリゴスは記憶と事実の剥離に苦しんでいた。
勇者に関する記憶はまったくない。
だが、周囲の話によると勇者と共に旅をしていた事実は消えないし、実際にリンド王朝の宮廷魔術師クシャナや、旧神たる女巨人テミスと一緒に旅をした記憶はある。
なんのために旅をした?
魔王討伐のため?
魔族なのにどうしてそんなことをした?
その目的を果たそうとする者が一緒にいたから?
それが勇者?
どうして勇者と旅をした?
どこで出会った?
どんな相手だった?
………記憶は、一切ない。
まるで勇者のところだけ霧がかっているような、虫食いの答案用紙を見つめている気分だ。
勇者は存在する。その証拠がこの邸宅だ。
しかもエリゴスはこの中のことを覚えている。屋敷の間取りも覚えている。ここで誰かのために仕えていたはずなのだ。
なのに「どうしてこの屋敷のことを知っているのかわからない」状態だった。
ここにいるとされた勇者本人に会えば、この辻褄が合わない矛盾が解かれるのではないかと、毎日通っていたら……やっと会えた。
だが、顔を見てもやはり記憶にない。
「うーん。説明するから、とりあえず中に入らないか?」
「え、ええ……変なことしない?」
「この街の連中じゃあるまいし。そんなことする気力と性欲があれば、今頃街でどんちゃん騒ぎしてる」
とジューンは自嘲気味に言った。
「けど……」
「……あれだけ子孫繁栄のために強い子種が欲しいとか言ってた女が、よくもまぁ」
「え?」
「なんでもない独り言だ」
『ぷふっ』
聖竜リィンは笑いを堪えきれずに吹き出した。
『人の子よ、また私の涙が必要なのですよね? ふふん♪』
急に口調が偉そうになっている。
馬が喋りだしたのでエリゴスは驚いているが、御者台のジューンは憮然としている。
『ふふふ、残念ですが私はそうそう泣きませんよ。あー残念ですよねぇ。あなたが苦しむ様など見たくないのですが、あぁ、残念です。いえ、いつも私を虐げてくれるあなたにお礼の涙を流して差し上げたいのですが、泣けないものは泣けませんからね~♪』
聖竜リィンはいつもイジられている復讐をしてみようと思ったのだろう。
「お前が喜ぶからいたぶっていたのに、恨まれていたとしたら心外だ」
『人の子ジューンよ。そういういじめっ子の論理はやめなさい。いたぶられて喜んでいたのは、私の生涯でそんなことをされた経験がなく、珍しく、ちょっとそういうことをされる自分が面白かったからです』
「やっぱり喜んでたんじゃねぇかよ」
「ち、ちょっと待ってください。なんなんですか、その馬」
エリゴスがたまらずツッコミを入れる。
『はじめまして魔族の子よ。私は透明竜……皆の者が聖竜と呼びし十色ドラゴンの長。名はリィンです』
馬が光りに包まれ、馬と同じサイズ感でドラゴンの姿に戻る。
本来は見上げるほど巨大なのだが、本来の大きさになったら騒ぎになるのは間違いないので、小さなまま正体を表したのだ。
「おい、リィン。お前、俺達と一緒にいる理由を忘れてないか? 移動要塞ファラリスが必要なくなったからお前の魔石も必要なくなったが、涙出すために一緒にいるんだぞ? 涙出せないのなら眼球くり抜くぞ」
『竜使いの荒いことを言いますね……ふふ、しかし今のあなたにはあの大剣がありません。私に勝てますか?』
「どうだろうな」
ジューンはコキコキと首の骨を鳴らしてボクシングポーズを取った。
それだけでジューンの全身からみなぎる覇気。
体術においてもアホのようにひたすら反復練習を繰り返し、拳一つで原子を分解するに至ったジューンのパンチは、いかに聖竜であろうと耐えられるものではないだろう。
闇の勇者に呪われて勇者能力の大半を引き下げられているとは言え、ジューンなら体術だけで
『あ、なんでもないです、すいません』
リィンはぺたりと長い首を地面につけた。服従のポーズらしい。
「駄馬には鞭を。駄竜には拳を」
『いやいやいや! 人の子ジューンよ! すいませんでした! 泣きます! 泣く努力をしますから
涙目で訴える聖竜リィンを見たジューンは拳を下ろす。
「まぁ、彼女にいろいろ説明してから考えよう」
『そうしてください! あなたはセイヤーやコウガより直情的で何をしてくるのかわからなくて怖い!』
御伽噺で語られる伝説の聖竜相手に容赦ないおっさんを見て、エリゴスは「これが勇者……」と薄紫色の肌を青ざめていた。
「人が住んでいないとこうなるのか」
ジューンは麻のハンカチで口元を抑えながら呻いた。
豪華な邸宅の中は、長い間換気されていなかったせいか、とても黴臭く空気が悪い。
セイヤーがかけてくれた防御魔法のおかげか、室内を荒らされたりはしていないが、あちこちに埃が溜まり呼吸にも一苦労する。
「落ち着いて話をする以前の問題だな。すまないエリゴス」
「いえ。あの、掃除しましょうか?」
「いいのか? 俺は掃除が苦手だから助かるが」
元の世界で一人暮らししていたジューンの家は古いアパートだった。
それでも2LDKで家賃5万。いい物件だった。
一人で住むには少し広かったが、掃除が苦手なジューンは、できるだけ物を置かないことで掃除の手間を省いていた。
だが、そこで同棲が始まった。
もともと持ち物が少なかったジューンの家は、気がつくと彼女の私物だらけになっていた。
足の踏み場もない床には彼女の化粧品や小物が散乱し、かといって捨てようものなら「使うものだったのに!」と怒られる。とても掃除できたものではない。
あのときは彼女の存在が煩わしくも思えたし、どんどん足の踏み場がなくなる室内に辟易としたが、それでも毎日が新鮮だったし、女とはそういうものなのだと思えば、許せた。
だが、自分の家の自分たちのベッドで、裸の彼女が知らない男と抱き合っていたのを目撃したことは、歳をとった今でも拭えない痛みだ。
「私は家政婦業で生計立てていますので、掃除は得意です」
エリゴスは教えられていもいないのに、どこからか掃除道具一式を持ってきた。
この街で少しの間暮らしている時、エリゴスはこの屋敷のハウスキーパーとして働いていた。
『その時の記憶はあるんだな』
「談話室を先に掃除しますね」
「あ。ああ……」
不思議な気分になったが、ジューンは少し気を引き締めた。
「聖竜リィン。お前、屋敷の埃を聖なる力でなんとかしろ」
『人の子ジューンよ、無茶言いますね!?』
「いいから働け。キビキビ働け。働かざるものは死ね」
ジューンは玄関先の埃を拳一閃で吹き飛ばし始める。
『もう……では、私も』
リィンは小さなドラゴンの姿でペタペタと屋敷の中に入り、大きく息を吸い込む。
あたりのゴミが一気に吸い込まれ、清々しい空気だけが吐き出される。
「おお、空気清浄機みたいだな。さすがリィンだ」
『げほっげほっげほっ! げほぉっっ!』
埃を吸い込んで思い切り咳き込み、ブワッと涙を撒き散らしたリィン。
「あの、勇者様。水が出ないので拭き掃除が……あっ」
その涙を頭からざぶんとかけられたエリゴス。
「……いろいろ思い出した!!」
エリゴスがパァッと明るい顔をする。
「……え」
エリゴスといろいろと話をした上で今後の選択肢を与え、記憶を戻すべきかどうか考えようと思っていたジューンだったが、それらはすべて徒労に終わった。
「……」
『な、なんですか人の子ジューンよ。私は言われるがまま掃除をお手伝いしただけですよ!』
「お前、なかなか泣かないとか言うけど、実はめっちゃ泣くよな?」
『キノセイデス』
聖竜リィンはそっぽを向き、代わりにエリゴスが「ジューン様ぁぁぁぁぁぁ!!」と泣きそうな顔をしながらタックルするように抱き着いてくる。
「お、おう」
魔族渾身のタックルを軽く受け止めながら、ジューンは「なかなか考えているとおりに物事って進まないものだよなぁ」と天井を仰いだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます