梟の怪〈後篇〉
「ホー……ホー……」
赤ん坊を山に埋めた、その日の夜からだ。
オレたちが梟の幻聴を聞くようになったのは。
最初は「お湯沸いてるぞ?」くらいにしか思ってなかった。
けれど呼びかけられたサエコは、怪訝な顔で「お湯なんか沸かしてない」と言う。聞き間違いかと思ったが、耳をそばだてればやはり聞こえる。どこからか「ホー……ホー……」音がする。「やっぱ、なんか音しねぇ?」とサエコに訊ねれば、首を傾げる。目を瞑ると、やがて「するかも」と返ってきた。
オレは恐るおそる台所に立った。すると、洗い場に放置された薬缶があるのを見てとった。おかしいな。オレは首を捻った。
コンロの上に視線を滑らせれば、小さな鍋が置かれていた。薄らと水が張られている。気泡が残っているものの、もう冷めているようだ。コンロは沈黙している。つまみを確認してみても『止』の部分で固定され、においもない。ガス漏れでもなさそうだ。風呂場を覗いてみても何もなかった。外にでてガスボンベを確認するも異状はない。不審な輩も見当たらない。
気味が悪かった。
とはいえ、鳴き声はほんの小さなもので、静寂の
「湿気かなんかじゃねぇの?」
サエコが不安そうに肩をすくめるので、適当な言葉で繕ってやった。
単純な彼女は、すぐにそれを信じたようだった。
「そうだねェ」
それでもなお聞こえてくる鳴き声は、嬌声でかき消すことにした。セックスして、疲れると眠った。悪い夢も見なかった。あの騒ぎが起こるまでは。
◆◆◆◆◆
梟の鳴き声は日に日に大きくなっていき、一週間後の夜には、空耳では済まされない音量に達していた。まるで、耳の中に梟を飼っているようだ。あるいは、頭の中に梟が棲みはじめたのか?
ありえない。ありえるはずがない。
そうは思うけれど、大音量で音楽を流そうが、耳栓をしようが、鳴き声を潰すことはできなかった。
もちろん、サエコの嬌声でも。そもそも気味が悪くてセックスする気も起きなくなっていた。
オレもサエコも体調を崩し始めた。睡眠時間は刻々と零に近づき、毎夜の騒音で気が狂いそうだった。
オレは仕事を辞めた。代わりに夜勤のアルバイトを始めた。家に原因があるのかもしれないと、狭いアパートに引っ越しもした。けれど鳴き声が止むことはなかった。夜になると「ホー……ホー……」心を苛んだ。
眠かった。それなのに眠るのが怖かった。
昼に寝て夜に起きれば、あの鳴き声が聞こえてくるから。
少しでも長い間、静寂を味わっていたかった。
サエコに限界が訪れたのは、赤ん坊を殺してから二週間が経った夜だった。
仕事に出かけようとしたオレの足許に、サエコが縋りついてきた。滂沱のごとく涙を流しながら「独りにしないで」と言うのだ。
「ホー……ホー……」
「うるせぇな……!」
鳴き声に悪態をつくと、サエコは自分のことを言われていると勘違いしたらしかった。両の瞳がひび割れて見えた。洟を垂らし、涎までこぼしてその場に崩れ落ちた。
すぐに「違う! お前のことじゃない!」と弁明した。震えるサエコを抱きよせた。彼女の温もりが熱かった。痛いほどだった。苦痛を共有すればするだけ、別の苦痛がオレを苛んだ。独りであの鳴き声に耐えるのは無理だ。オレもサエコがいなければ、仕事仲間がいなければ、とてもこの地獄の夜を乗り切ることなどできないはずだった。
だが、金がなければ生きていけない。昼に働くのが無理なら、夜に働くしかない。ずっと傍にいてやることはできない。恋人が心配だから仕事を休む。そんなことは、この社会では通用しない。
オレの取る道は一つしかなかった。
サエコの肩を掴み、初めて怒鳴った。
「お前も働きゃいいんだよ! 夜勤して耐えんだよ! 誰かと一緒に仕事すんだ、そうすりゃ、気分も紛れる!」
オレだけじゃない。サエコが救われる望みも、そこにしかなかった。だから強硬になるしかなかった。長いながい夜を乗り越えるには、気を紛らわせ、朝を待つより他になかった。
ところが、オレの気持ちは届かなかった。サエコは「壁に血が、血が……」とわけの分からないことを呟き、ひたすら泣きつづけていた。
「ホー……ホー……」
その慟哭も、すぐ梟にかき消された。肌に鋭い爪の感触が食いこんだ。
「赤ちゃんの、赤ちゃんの泣き声が……」
「うるせぇっつってんだよ!」
もはや何に怒鳴っているのか判らなかった。
梟にだろうか。サエコにだろうか。自分にだろうか。ああ、あるいは社会とか?
オレはアパートをとびだしていた。
泣き崩れたサエコを置いて。
背中に叩きつけられる「助けてェ!」の悲鳴は無視して。
「ホー……ホー……」
仕事場に駆けこんだ。
見えない敵にぶつぶつ悪態をつきながら。頭を掻きむしりながら仕事をした。
仲間からは「大丈夫か?」と心配されたが、大丈夫なはずはなかった。早くこの地獄から抜け出したかった。「ホー……ホー……」だいじょうぶと答えれば、大丈夫な気がした。
「ホー……ホー……」
いや、そんな気はしない。
日が出始めても、声が聞こえるような気がしてならなかった。仕事を終え、アパートへ帰るまでの間、イヤホンをして大音量で音楽を流した。
ベースが「ホー……ホー……」、コーラスが「ホー……ホー……」、夜は明けていないのか? 朝はまだ来ていない?
「あれ? ハハ……!」
いや、朝は来ていた。
アパートに帰れば、朝陽が昇っていた。
とても、とても近い朝陽があった。
朝陽がごおごお。燃えている。
こんなに近い朝陽は珍しかった。だから周りに人だかりができているのだろう。雑踏の顔が眩しいほどに赤く映るのだろう。
喧騒は「ホー……ホー……」うるさい。
消防車の赤。赤色灯の赤。炎の赤。
サイレンの「ホー……ホー……」うるさい。うるさいな。
「おい、なんだよ、ハッハ……これ」
うるさい。何もかもうるさかった。
野次馬の喧騒も。
家の燃える音も。
サイレンも、消防士の怒号も。
朝の訪れを見せつけるように、アパートが燃えていた。
誰かが「中に人がいるんです!」と喚き散らしていた。誰のことかは判らなかった。判りたくもなかった。
「ホー……ホー……」
屋根が崩れ落ちた。炎のなかで火の粉が爆ぜて、幾つもの乾いた音が鳴った。喉を涸らした、女の悲鳴のようだった。それでも炎は燃え続けた。オレに見せつけ続けていた。
幸せを舐め尽くす悪魔の舌のように。
赫々と明かりが映えて、炎が「ホー……ホー……」燃えている。
◆◆◆◆◆
あれから毎日「ホー……ホー……」夢の中でサエコが燃えるようになった。梟の小さな嘴が、燃えた枝を運んできて家を燃やす。家の中にはくずおれたサエコがいる。「ホー……ホー……」叫んでいる。なにを叫んでいる? 鳴き声で聞こえない。そんなことはどうでもいい。オレは助けに向かおうとする。踏みだそうとする。その足を掴む手がある。無数の手がある。「ホー……ホー……」手があった。
小さなちいさな手だった。柔らかそうな手だった。
けれど力強くて、オレは一歩も踏みだすことができない。
燃えていくサエコを見ていることしかできない。流れる涙が蒸発して、肌がただれて、サエコが過去になっていく様を。「ホー……ホー……」見ていることしかできない。
過去は現在になんら影響を与えることができない。手にした唯一の幸せは、オレが生きる今に「ホー……ホー……」なんら影響を与えることができない――。
「やめてくれぇぇェ!」
オレは全身汗まみれになって、がばりと半身を起こした。身体の下に敷いた段ボールが「ホー……ホー……」汗を吸い濡れていた。
辺りは暗かった。遠く街灯の明かりがうかがえるばかりの夜だった。
公園のゾウの滑り台の中。頂上へのぼるための通路は、雨風を凌ぐのに最適だった。好い寝床だった。だが夢の中にさえ、もはや安寧はなかった。目が覚めても、悪夢は終わらなかった。
「アハ、アハハ……」
乾いた笑いを笑いながら、オレは自問した。
オレを起こした声はなんだった?
悪夢に呻吟した自分自身の声か?
サエコの悲鳴か?
猫の断末魔か?
「ホー……ホー……」
いや、違う。
こいつだ。こいつの所為だ。
オレの所為じゃない。サエコの所為じゃない。
「ホー……ホー……」
そうだよな、じいちゃん?
オレはすっかり過去になった人に縋った。
影響のない過去。もう力にはなってくれない人。
そこにしか縋るべき標がなかった。
そうだ、じいちゃんが言っていた。優しいじいちゃんだったけど。あの時だけは、オレの目をまっすぐに見つめて「ホー……ホー……」叱るような調子だった。
遠い日の言葉だけが、責めるように反響した。
『命は大切にせにゃいかん。決して殺めてはならんし、貶めてもならん。特に……というのは正しくないかもしれんが、赤ん坊は大切にせにゃ。他人の子も自分の子も蔑ろにするなよ。命を脅かすなんて以ての外じゃ。祟られるぞ。何に? 赤子の怨念にじゃ。そういうのを、タタリモッケという。努々忘れてはいかんぞ』
ああ、オレは忘れてた。「ホー……ホー……」そもそも、あんな言葉信じちゃいなかった。だってオレは、ずっと祟りなんかとは無縁だったし、サエコがいれば「ホー……ホー……」幸せだったから。他の命なんてどうでもよかった。死者も霊も祟りも、怖くなんかなかった。
でも、じいちゃん。
サエコ。ハハ。
今は怖いよ。
だって、ほら、聞いてよ。聞こえるでしょ?
赤ん坊の悲鳴が、
「ホァ……ホァ……」
止んでくれないよ。
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