梟の怪〈前篇〉

 死者とは過去になったものだ。

 過去は現在になんら影響を与えることはできない。

 あやまちを犯した後に湧く後悔も、結局は今の自分が自分を責めているだけで、過去の何者かが自分を脅かすわけではない。


 したがって、霊なんてものもいるはずがない。いるとするならば、それはそいつの後悔や罪悪感が生みだした幻だ。少なくともオレは信じない。そんなもの生まれてこの方一度も見たことがないし、祟られたことだってないのだから。


 オレの人生は、その事実を肯定し続けてきた。


 小学生の頃だ。

 オレは初めて猫を殺した。


 べつに恨みがあったわけじゃなかった。手を噛まれたとか、玄関に糞を撒かれたとか、猫は何一つ悪い事なんてしなかった。ただオレの虫の居所が悪かっただけだ。命を殺す事にも興味があった。だから、やった。なるべくトロそうなやつを選んで、何度か腹を蹴って転がしてやったのだ。すると五回目くらいで動かなくなった。


 なかなか気持ちの悪い体験だった。爪先に肉のめりこむ感覚とか、骨の折れる振動とか。たぶん中のものが潰れる感触もあった。吐き気がこみ上げた。もしかしたら、少し吐いたかもしれない。


 だけど、それだけだった。オレは猫に祟られるなんて思わなかったし、自分を責めもしなかった。ただ気持ち悪くて、命なんてこんなもんかと思った。人間は支配者気取りで傲岸だと喚く輩がいるが、それは間違いだ。人間は支配者を気取ってるんじゃない。実際、支配者なんだ。あの猫の命は、オレの手中に握られているも同然だった。


 その後もオレは死者に対して実験した。友達の父親が事故で亡くなった直後のことだった。


 何をしたのかと言ったら、死んだ友達の親父さんに対して、あることないこと悪口を言ってやったのだ。水回りでは霊が出やすいというのを聞いて、風呂場で散々詰ってやった。もちろん霊なんて出てこなかったし、祟りめいた不幸に襲われることもなかった。父親の死んだ友達には、本当に父親がいなくなったんだと思うと、なんだか滑稽で愉快な気さえした。


 墓場に行って悪戯をしたこともあった。やはり変化はなかった。生きている人間に怒られたことだってない。悪戯は誰にもバレなかったし、祟りもなかった。悪夢ひとつ見なかった。霊だ、祟りだと世間はうるさいが、結局、そんなものは思いこみだ。社会とか個人の負の感情が生みだした幻なのだ。


 そういえば、昔じいちゃんが言っていた。


『命は大切にせにゃいかん。決して殺めてはならんし、貶めてもならん。――お前は周りの命を大事に大事に守ってやって、とにかく好い事をしなさい。そうすりゃ辛い事があっても、守られた命がお前を必ず幸せに導いてくれる』


 オレは一度も命を大切にしたことがなかった。

 それでもオレは、今、確実に幸せだと断言できた。べつに金持ちというわけではないし、名声もない。誰かに感謝されたことさえほとんどない。


「あー……産まれたな、サエコ」


 ただ、愛する人を見つけた。愛すべき人を見つけた。それだけだ。それだけで充分だった。


 要するに、じいちゃんの言葉には、何の意味もなかったのだ。もう過去になってしまったじいちゃんは、オレという現在になんら影響を与えることはできないのだ。


 だからオレは、これからまた命を貶め、殺めることになる。


「マジで、やるの……?」


 便座にもたれかかったサエコは、疲弊して満身創痍の体だった。初めて一生を共にしたいと願った彼女のそんな姿は、却って新鮮で煽情的ですらあった。全身から噴いた汗の一滴一滴を、オレのものにしたいと。欲望が脈をうって暴れだす。


 もちろん、今しばらくは我慢するつもりだ。まさか股の間を血まみれにした女を襲う趣味はないし、それでサエコに死なれても困る。

 彼女はオレの希望だ。灰のような心に燃える紅蓮の炎だ。明かりがなくては、人生を歩むことなどできない。だから彼女は必要で、それ以外の大概のものは不要だった。


 殺すのは一人でいい。

 オレとサエコの二人以外、誰も存在することを知らない命。オレたちの間に産まれた、産まれてしまった邪魔者を、これから過去に埋めてやるだけでいい。


 オレは懐に抱きあげた真っ赤な赤ん坊の口を塞いで「やるさ」と微笑んだ。サエコも笑ってくれた。「これでまた二人きりになれるね」と笑ってくれた。


 そうだ。オレたちは二人きりでいたかった。誰もこの愛の間に必要としなかった。性交によって、たまたま生じてしまった命まで、愛してやる余裕なんかなかった。

 子どもは可愛い、貴ぶべきだという連中は、そこにしか幸せを見出せず、真の幸福の意味をはき違えた不幸体質のバカどもだ。


「うるさいよ……」


 赤ん坊がギャーギャー泣くので、手のひらで顔を覆い、鼻も塞いでやった。もう一方の手で、細いほそい首をきゅっと絞めてやる。ただでさえ紫がかった頭が、いっそう赤黒く淀む様は、科学の実験みたいで楽しかった。


「ホァ……ホァ……」


 手の中でくぐもった声が聞こえた。「はなして、くるしい」とでも言うように。

 オレの中の何かが疼いた。鉄線のような血液がめぐった。

 気付けば赤ん坊の頭を、ほとんど握りつぶすように力をこめていた。赤黒い肌が、灼けたように白く染まった。「ホァ!」と声がもれた。


 すると、すぐに動かなくなった。ぶよぶよの瞼が半目に開いて、じっとオレを見つめた。だが、なにを語りかけてくるわけでもない。罵詈も糾弾もない。ちっぽけな命が抜け殻になっただけだった。


「あー、死んだ」


 改めて見下ろしてみると、気味の悪い顔立ちをしていた。とてもオレたちの血をひいているとは思えなかった。まったく似ていない。同じ人間とすら思えなかった。


 人間は支配者だ。

 オレは支配者だ。


 支配した命を、どうするかなんてオレの自由だった。猫の命を弄んだときと同じだ。命の抜け落ちた肉体は廃棄する。腐っていくだけのものに価値なんかない。

 どうせ誰も知らない命。愛することも、愛されることもなかった命。山奥の適当なところに埋められて過去になる命。滑稽な弱者だ。


 実際に山のなかへ赴き、赤ん坊を埋めたときは可笑しくてたまらなかった。自分で生みだした命を、この手で殺し、葬るのだ。こんなに愉快で優越的な事が他にあるだろうか?


「ハハ、ハハハハハ……!」


 スコップ片手にオレは笑った。

 蹂躙された命を嗤ってやった。


 すると、そこに声が降りてきた。


「ホー……ホー……」


 見上げれば、名前も分からない木の上に二つの大きな目玉があった。それはこの一帯の木々が流した血のようだった。涙かもしれなかった。あるいは、その両方か?

 樹液と同じ色の双眸が、くるりと瞬いた。


「ホー……ホァ……」


 梟は飛びたたず、なおも鳴いた。

 陰鬱な声で。物憂げな声で。


「ハッハ、ハハハハハ!」


 それがいっそう可笑しかった。


 だってそうだろう? 


 赤ん坊を殺したオレの許にやってきた梟。

 そいつの鳴き声は、まるで赤ん坊が最後にあげた断末魔のようだったのだから。


 ところがその後、邪魔者もいなくなって幸福を甘受するはずだったオレとサエコの間からは、次第に笑顔が消えていくことになる。


 夜になると決まって聞こえてくるのだ。

 あの陰鬱な梟の鳴き声が。

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