徒然な箱庭〈後篇〉
電車の歪んだドアの隙間に腐った身体をねじ込んで、臓物をこぼしながらようやくホームに立ったときでした。死神さんが割れた点字ブロックを鎌の先でカリカリひっかいて、暗闇の相貌で私を振り返ったのです。
「そういえば、眠っている間に気は変わらんかったのかえ?」
「え?」
「今なら持ち物を変えてやってもいいと言ってるんさ。あんたが望むならね」
死神さんはキヒヒと笑って、私の手許を見たようでした。顔がないので判然としないのですが、なんとなくそのような気がするのです。
私はおもむろに日記帳を胸の前にかかげると、かぶりを振りました。
「いいえ、結構です」
すると死神さんは、呆れたように肩をすくめました。
「はあ、本当にいいのかえ? あんたの死んだ事故の所為で、その日記帳ボロボロじゃないか。血まみれだし。アタシの力があれば、生前のあんたの持ち物、なんでももって来られるんだよ? 淋しければ、愛する娘の魂と一緒に暮らしたっていいのにさ」
その囁きは、恐ろしいほど烈しく心を揺さぶります。私を「汚い」と言って目を眇めた娘は、しかし死神さんの言うとおり「愛する娘」に他なりませんでしたから。
「ええ……。娘が一緒にいてくれれば、きっと淋しくはないでしょうね。できることなら永遠にあの子といたかった」
「キヒヒ。だからアタシならできると言ってるじゃないか。そんな紙束よりも、娘の魂のほうがずっと高価じゃないかえ?」
「高価ですか。そうかもしれません」
「じゃあ――」
と言いかけた死神さんに、けれど私はかぶりを振り続けるのでした。もちろん死神さんは腑に落ちない様子で首を傾げます。
「解らんね。望むだけで叶うのに。対価さえ必要ないんだがね?」
「そうですね。ですが死神さんは、私の持ち物をなんでも……と言いましたよね。だから違うと思ったのかもしれません」
「ふーん、解らんね」
「あの子は私の持ち物ではないんです」
「娘はあんたの血を受け継いだ者だろう。養い育んできただろう。生まれた後そのまま独りで生き始めたのならともかく、あんたの力で生かされてきた娘が、なぜ持ち物ではないんだね?」
「生きるとはそういうことだからですよ。命は誰の持ち物でもないし、そうであるべきではないと思います。実際は死神さんのような方がいて、命がしょせん全知全能の神様の持ち物であったとしても。命とはただ自由に生きるべきものだと思います」
死神さんは顔なき顔から「ふん」と鼻息を鳴らして、やはり腑に落ちない様子でした。大きな鎌を肩に担ぎなおすと、ずいと顔を寄せて言いました。
「じゃあ、あんたは自由に生きてきたのかえ?」
その声色には私を嘲るような響きがありました。実際、私はその問いに虚しさを覚えたものです。だからこう答えました。
「いいえ、自由ではなかったと思います。しょせんこの世は徒然な箱庭ですから」
「徒然な箱庭?」
「ええ。私たちは生まれながらにして、箱庭を与えられて生まれてくるんだと思います。そこに配置できるものは限られているし、箱庭の大きさもそれぞれ違って、誰も決して満足のいく箱庭を造ることはできない」
「それなのに自由に生きるべきだと、あんたは言うのかえ?」
「ええ、そうです。不自由だからこそ、満足いかないからこそ、足掻き美しく飾ろうとするものなんです。そして、その中にこそ本当の自由があるんですよ」
そう言うと、死神さんは興味を失くしたように身を離しました。
「人の言うことは解らんね。アタシは人なんてものは、欲望に塗れたものだと思ってた。だからあんたも迷わず娘を選ぶとばかり思ってたが、奇妙だね」
「娘と一緒にいたい気持ちは変わりませんよ。ふとした瞬間に、このやり取りを思い出して後悔するかもしれませんね。人の心は移ろいやすいものですから。でも、これを見てください」
私は死神さんの前に血まみれの日記帳を拡げました。それは娘や家内、あるいは友人について記された、なんでもない日々のことでした。
『△月〇日
――愛とはむなしいものだ。報われるとは限らない。「パパ大好き!」と私を抱きしめてくれた娘は幻想だったのだろうか。父とはむなしい生き物だ。
けれど、これも娘の成長の証なのだろう。日々できる事が増えていくのを見守る私は「汚い」と嫌忌される以上の幸せを、すでにあの子から貰っている。抵抗や反発を知らぬまま育っていくのも好い事とは言えない。あの子はあの子の人生のために、少しずつ生きる術を学んでいる。
その姿勢が、彼女の生きているという事実が、私のこれ以上ない幸せだと、きょう思い知らされた』
『〇月×日
――私も家内とそのような出逢い方をしたなら、もっと幸せな人生を送ってこられたのだろうか?
いや、こんな事は考えても詮無いことだ。私の選択してきた人生は、ここにしかないのだから。
それに私は、こうして日々を内省するとき、家内を愛しているのだと改めて思い知らされる。恋愛によって結びついていないからと言って、愛が芽生えぬわけではない。それは互いの芯と芯の間で火花が散り、二人の胸をごうごうと燃えあがらせるような類のものではない。ただ静かに燃えつづけ、一時は消えたように思えてもくすぶり続ける類のものだ。
ケンカはしたくないものだし、連日続けば辟易もする。それでも私は、家内と共にいる事を不幸だとは思わないし、彼女がいない人生を考える瞬間ほど恐ろしい事を他に知らない。その中には非常に現実的で合理的な理由も含まれているのだろうけれど。ただ一言で、この感情の意味を説くとするなら、こういう事だと思う。
私は明日も、彼女の淹れる緑茶が飲みたい』
『□月△日
――頑なだった鋼の心は、今や水銀のように待ち受ける悲哀や押し寄せる苦難を呑みこんでしまえるけれど。ふとした瞬間に鋼の硬さを思い出し、孤独であることを思い知る。私は弱い人間だ。
あるいは、それだけ人と人の繋がりがかけがえのないものなのだろう。かつては疎ましいと感じた日々も、なんと貴く美しかったものか。ああ懐かしい、と胸を浸す柔らかな陽だまりは、孤独を呼び起こしこそすれ、今日まで生きてきた事の恵みを実感させる標のように温かい。
そういえば夕食の際に、山内くんからメールがあった。同窓会の誘いだった。これまでは仕事を理由に断ってきたが、久しぶりに都合があいそうだ。みんなは元気にしているだろうか』
日記を読み終えたらしい死神さんは、ますます解らないという風に肩をすくめました。私は腐った顔で苦笑しました。
「お時間がないと仰ってったのに、すみませんね」
「いいや、どうせ魂を送り届けるだけの仕事だからね。それこそ徒然なもんだ。たまには息抜きしないと、アタシもやってられんよ」
死神さんはそう言うと歩きだしました。その背中を追うということは、ついに私が人生を終えるということです。愛する妻子とも、再会を心待ちにした友人たちとも、もう会うことはできません。
今更になって、私は踏みだす一歩を躊躇しはじめました。
ああ、生きるとはなんとままならないものでしょう。
「さあ、もうすぐ着くよ」
死神さんが振り返ります。
私は胸のうちに様々なものを過ぎらせながらも頷きました。
死神さんは前へ向きなおろうとして、けれど直前で動きを止めました。不自然に斜めを向いたままです。
「どうされたんですか?」
私は問いかけました。
すると死神さんはキヒヒと笑って「最後に」と人差し指をたてました。
「あんたは人生を徒然な箱庭と喩えたね」
「ええ」
「それじゃあ、あんたの人生は退屈だったかい?」
しばらくの間、私たちは互いの視線を交わらせていました。そこにどんな感情が過ぎったかは、はっきりとは判りません。ただ、私の答えは決まっていました。
改めて思えば、平凡な人生でした。普通のサラリーマンとして生き、普通の妻子をもち、普通の友人をもち、金持ちになるわけでも、名誉ある偉業を成し遂げたわけでもありませんでした。
それでもこう答えるのです。
「退屈ではありませんでしたよ。箱庭もついに完成しませんでしたが」
不運にも電車の事故で命を落とした私ですが。
「とことん不自由な自由に恵まれましたから」
死神さんは笑いました。キヒヒと楽しそうな声音で。
「やっぱり解らんね。人間も、人生というのも。だがね、一つだけアタシにも解った事があるよ」
「へぇ、何ですか?」
私もいつの間にか楽しげに返していました。
「あんたの造った箱庭は、さぞ美しかったんだろうって事さ」
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