人面犬〈後篇〉
空は紅と紫紺のグラデーション。
夜気を含んだ風は冷たく、けれど僕の身体は燃えるように火照っていた。
呼吸する度に、胸がザリザリと音をたてる。肺にいっぱいの砂をおしこめられたみたいだ。苦しい。
おまけに脚は棒のよう。疼くように脈を打ち、膿んだように熱かった。
「ハァッ! ハァッ……!」
もう限界だ。
電信柱を支えに足をとめた。
すると街灯のともり始めた縞模様の道から、全速力でタカシが駆けよって来た。
互いの荒い呼吸がぶつかった。
「ダメだ……。こっちにも、いない……」
「そっ、か……。どこ、行ったんだろ……」
一時間ばかり前のことだ。
帰宅した僕は、愛犬のチロがいなくなっていることに気付いた。
チロは柴犬の雑種で昔はよく吠えたけれど、近頃は歳のせいか大人しくなった。見知らぬ人が来てもぼんやりして、すっかり人に慣れた様子だった。
とはいえ、決して頭の悪い犬じゃない。リードや目を離しても、勝手にどこかへ行ってしまったことなんて一度もなかった。
それなのに……。
いなくなってしまった。
胸が潰れそうに痛い。友達の前なのに、泣き崩れてしまいそうだ。
小さな頃から、ずっと一緒にいた。大切な家族。もう二度と会えなくなってしまったら――どうしよう。
ほとんどパニックだった。
きっとひどい顔をしていたに違いない。
タカシが優しく肩を叩いて言った。
「……もう一回、探してくる。ゼッタイ、見つかるはずだから」
呼び止める間もなかった。
踵を返した背中が、たちまち遠くへ行ってしまっていた。
僕のために、必死になってくれることが嬉しかった。それと同時に、チロがいなくなってしまった寂寥が、ここに来てまた膨れ上がったように感じた。
汗まみれの身体を酷使して踏みだす。
僕の匂いを嗅げば、きっと戻って来るはずだ。
そう自分を奮い立たせて、はち切れそうな足で駆けだした。
◆◆◆◆◆
「こっち! こっちだ、こっち!」
タカシの声に促され、僕はほとんど転がるようにして駆けていた。
空はいよいよ夜のビロード。
遠方に茜のシミを見出すこともできない。
けれど闇が景色を隠すその頃、ようやくチロの居所が判った。
タカシが見つけてくれたのだ。
僕は興奮と不安で胸がいっぱいになっていた。
大好きなチロが見つかって、心底安堵した。もう二度と会えないような気がしていただけに、その喜びはひとしおだった。
ところがタカシによれば、チロは怪我をしているらしいのだ。
胸に抱えた救急箱の重みが、首筋にひんやりとした悲運の気配を呼び寄せるようだった。
やがて僕たちは、住宅街の端っこに打ち捨てられた工場跡にたどり着いた。
錆のにおいがツンと鼻をついた。それが焼けるような肺まで刺激した。僕ははげしくむせ返った。
「大丈夫か?」
「……な、なんとか。それより、ここに、いるんだよな……?」
「ああ、あのケガじゃ動けないはずだ」
それは工場というより、小屋のようだった。それほど小さくみすぼらしかった。闇の中で身をすくませたように、四角いシルエットはおぼろだ。まるで、夜が去るのをじっと待っているかのよう。あるいは、その小さな身体の下に、見られたくないものを隠しているようにも見えた。
僕は燃えるような身体の悲鳴を殺し、踏みだした。
タカシがドアに手をかけた。ギギィと悶えるような軋みがあった。
すると脱力したように、ドアがひとりでに開いた。
中には闇が充満していた。僕らの背後にたゆたう月明かりが、かろうじて闇の表面を撫でるばかり。奥がどうなっているのかなんて、ちっとも判らなかった。
正直、怖かった。逃げ出したいと思うほど。
だけどこの奥に、チロがいるのだ。傷ついたチロがいるのだ。放って逃げ出すなんて、できるはずがなかった。
タカシに目線で訴えると、殊勝な頷きが返ってきた。
僕はすっかり鼓舞されて、踏みだした。タカシが隣を歩いてくれた。
「チロ、チロ」
湿った空気が全身を覆う。闇が形をもって、中に取り込もうとするみたいだ。気味が悪い。
闇の中に手を伸ばしても、それを見て取ることさえできない。かろうじてタカシの気配を感じるけれど、それも闇の霧が見せる幻のようだ。
「チロ、大丈夫か? チロ」
自分の声だけが反響する。それもやがて透明になって消えてゆく。
耳をそばだて、呼吸を探す。チロの呼吸。ハッハッハと荒いあの呼吸。
けれど、いくら踏みだしても聞こえない。背中の光は薄らぐばかり。頼りになるのはたった一人。
恐怖と不安に耐えかね、僕はチロでない名を呼ぼうとした。
ところがその時、鋭敏になった僕の耳が、ようやく異常を知らせたのだった。
「……おい、どこ行ったんだよ?」
チロの呼吸を探していた。荒い呼吸ばかりを探していた。それに気をとられ、今まで気付かなかった。
僕以外の呼吸が、どこからも聞こえてこないことに。
「おい、タカシ。タカシ!」
咄嗟に辺りを見回し、親友の姿を探した。
闇の中に浮かんでいたおぼろな影は、今やどこにも見て取ることができなかった。
胸がきゅっと縮んだ。ここにいちゃいけないと本能が叫んだ。
振り返った。
四角く切り取られた蒼白い世界が見えた。出口がちゃんとあった。そんな当然のことに、ほんのちょっと救われた心地がした。
僕はそこへ駆けだそうとした。とにかくここから逃げて、大人の協力を得なくちゃいけない。そう思った。
そう思ったはずだったのだけど。
僕の思考は瞬間、白く弾けた。
「タカシ……?」
ドアのすぐ隣。あえかな明かりに濡れて、タカシが蹲っているのが見えた。消えたと思っていた親友が、何食わぬ顔で、そこにいた。
安堵はなかった。怒りもなかった。なにもなかった。感情のページから、インクが剥がれ落ちてしまっていた。
理解できなかったからだ。
タカシがそこにいたことがじゃない。
その足許が真っ赤だったことがだ。
「……なんだよ、それ?」
ひどく震えた声で、僕は訊ねた。
ドアからもれた蒼白い光。
相反するように黒ずんだ赤い水面。
その中に、ボロ雑巾のような何かが転がっている。
タカシが満面の笑みで振り返った。
「チロだよ」
ますます意味が解らなかった。
僕はチロと呼ばれたそれを凝視した。
解れた荒縄のようなそれを。
タカシがおもむろに立ち上がった。
「チロって、どういうことだよ……?」
「どういうことって、チロだよ。ケガしてるって言ったじゃん」
不意に光が遠ざかった。闇へ呑まれるようにして消えてゆく。
タカシがドアを、閉めた。
「まあ、もう死んじゃったみたいだけど」
その時、初めて事の重大さに気付いた。
怒りよりもなによりも、真っ先に恐怖が立ちのぼってきた。足許から無数の針がせりあがってくるように。
突如、タカシの手許が光った。光の刃が闇を切り裂いた。
懐中電灯。
タカシがそれを投げた。明かりがころころと転がり、まっすぐに僕を貫いた。
「なんで、なんでこんなことするんだよッ……!」
震える足で後ずさった。
タカシが一歩踏み出した。
「なんで? サイヨーって言ったじゃん?」
「さ、さいよう……?」
「人面犬だよ」
不意に心臓が跳ね上がった。杭を打たれたように痛んだ。
タカシがナイフを取り出し、笑った。
「もうつまらない話できねぇな」
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