川のある屋敷〈後篇〉

 ビロードの空をくり抜いた満月の明かりが、夜の断面を削ぐように、一面をほの白く煌めかせている。

 月明かりを受けて舞い上がる霞めいた光の粒子は、紺の闇とグラデーションを描き、一夜を一層煌びやかに彩る。


 その白夜めいた幻想的な夜。


 ただ一つだけ、空白があった。黒く塗りたくったキャンバス、そこに色を重ねることを忘れたかのように、黒々と凝った闇があった。


 屋敷である。


 光を栄養とでもしているのか、その屋敷の表面は奥行きが感じられぬほど黒い。火を焚くこともできなくなった炭のようであり、黄昏に育てられた影のようである。あたりをぐるりと囲う塀までが、底なしの闇であった。


 レンとテルキの二人は、想像以上の禍々しい屋敷の姿に、しばらく顔を見合わせ、茫然とするしかなかった。唾を嚥下する音が、とんと闇に落ちれば、誰かが耳をそばだてているような気がして、つい踵を返してしまいたくなる。


 つまりは、そういうことなのだろう。


 願いが叶うという甘言で誘い、挑戦者の度胸を試す。

 肝試しのスポットとして喧伝される文句にまんまと誘い出されたのだ。


 ゆえに、願いが叶わぬであろうことは、すでに悟っていた。もはや踏破する意味があるのか、迷うのも致し方がないように思われる。


 だが、せっかくここまで来ておいて、さっさと回れ右では、なんのために重い足を運んできたのか分からない。それに、もとより願いが叶うなどとは思っていなかったはずだ。現実の無情なるところを認め、踏み出すための糧とする。それが今宵の冒険の目的であるはずだった。


 よし……!


 先に踏み出したのは、レンのほうだった。

 テルキはそんな友人の姿を、ぎょっとした眼差しで一瞥したが、すぐに意を決した。


 屋敷に通ずる大門は、無論、固く閉ざされていた。しかし、塀には無数のひびが生じている。二人は人目を憚りながら、ひびや亀裂を足がかりに、敷地の中へと侵入する。


 おどろおどろしい屋敷だが、寝静まった世界の中を、たった二人で冒険するというのは、なんだか昂揚させられるものがある。塀をよじ登ってこっそり侵入するというのも背徳的でワクワクした。


 しかしそんな安っぽい感情は、すぐに打ち砕かれる。


 風が一つ吹けば、枯れかけた柳の葉が、ざわざわと鳴く。霧めいた雲が動けば、屋敷が一つの巨大な生き物のように蠢いて見える。

 些細な変化から、いちいち恐怖が滲みだしてくる。砕けた感情の隙間を、ズルズルと割りながら成長する植物のように。


 何度も立ち止まりながら、それでも二人は必死に歩を進めた。せめて、これが一つの覚悟を編むならば、と。


 やがて二人は、意外にも小さな門戸を見出す。そこは、なぜか閉ざされることなく、闇を吐きだし続けていた。中の様子など一切判らない。踏みこめば最後、この身が闇と同化し、融けていってしまうような気がする。


 再び顔を見合わせ、闇の中に光る眼差しだけで「どうする」と囁き合う。


 無論、どちらも答えない。


 急かすのは空。散らばった綿のようだった雲が、少しずつ厚く紡がれてゆく。月はその中で、ちらちらと黄金こがねの相貌を現し、緩慢と払暁へせまる時の流れを見る者たちに突き付ける。


 レンはきつく瞼を閉じると、不意にかっと見開いた。

 テルキが恐るおそる頷きを返した。


 二人は同時に懐中電灯をともした。弾き出された光の刃が、わだかまっていた闇を切り払った。


 その僅かな隙間の中へ、二人してえいっと跳びこんだ。

 途端に土間がガサ、と嫌な音をたてた。老爺のうつろな笑い声のようで不気味だ。


 かぶりを振って、さらに前へ。

 闇を近寄らせない明かりが頼もしかった。


 いざ屋敷へ踏み入ってみると、中はなんてことはない、ただの家だ。壁も天井も恐ろしく黒ずんでいるが、それだけである。狭い土間から框を上がれば、長い廊下が真っ直ぐに続いていた。


 本来なら靴を脱ぐべきだったろうが、床の上にこんもりと積もった埃を見ると、その気も失せた。


 土足で床を踏む。


 ギィ。


 やはり、なにかが笑っているように聞こえる。

 嫌な想像を振り払い、互いに身を寄せ合いながら進んだ。


 すると、どういうわけか、奥から緩やかに風が吹いてくるのを感じる。ひんやりと冷たく、けれどどこか粘着質な風だ。どことなく草木の香りが混じっているように思われるのが妙だった。


 構わず二人は息も殺し進んだ。軋む床の音から逃げるように、自然、足早になりながら。


 風の冷たさにも慣れてきた頃、ようやく一文字の廊下が十字にひらけた。

 そこで改めて、この屋敷を不気味に感じた。


 どこにも扉や襖に類するものが見当たらないからだ。

 まるで迷路のように、道だけが続いているのである。


 折れた廊下の先も床、壁、天井があるばかり。部屋らしきものはなかった。それを伝えると、テルキも同じことを不気味に感じていたらしかった。


「べつにわざわざ部屋でゆっくりしたいわけでもないけど、こうも異質だと気味が悪いな」


「……本当に。ところで、どうする。奥って言うからには、真っ直ぐ進むべきなのかな。それともどこかで折れる必要があるのか」


「とりあえず、真っ直ぐ行こう。二手に分かれるのは、正直怖いし……前進するだけなら道にも迷わないだろうから」


「そうだな。そうしよう」


 短いやり取りのあと、二人は前進を再開した。

 すると間もなくして二人は、己が身を抱き寄せるように、二の腕を撫ではじめた。


 風が急激に冷たくなってゆくのを感じていた。肌を撫でるようだった風が、今では空気に傷をつけるように、すぅと耳もとをかすめ抜けてゆく。冷えた女の指先と、絶えずすれ違っているように思えた。


 それが却って二人の歩調を速くさせた。怖い、早く帰りたいと思えば思うほど、その裏に付随した、早く件の場所へたどり着きたいという思いが急かすのだ。


 横道にはもはや目も暮れなかった。二人はただ奥というイメージを前進の中に閉じこめ、ひたすら踏みだしていった。


 ただしそれは、行き先もわからぬ道においてのみ。

 突如、視界の端に飛びこんできた襖まで無視することはできなかった。


 廊下は相も変わらず、前へ続いていた。どこまで続いているのか、どれだけ進んできたのかも判然としない。


 ただ右手に、これまでは一度も見ることの叶わなかった襖がある。黒一色に塗りつぶされた屋敷の中、その襖だけが眩しいほどに白かった。


 それは二人に、希望の色を思わせた。


 望みの叶う場所があるとすれば、ここしかあり得ないだろうと確信した。もはや頷き合う必要さえ感じなかった。


 テルキが襖に手をかけた。


 するとその時。

 あの粘着質な風が、拒むように吹き荒んだではないか。


 身体の芯まで凍えるような突風だった。

 レンの身体が、たちまち時を止めた。

 身動ぎ一つできず、呻き声さえ腹の中で凍った。


 対して、テルキは恐れと昂揚に顔をひきつらせたまま、襖の向こうの暗がりへ消えていこうとしている。明かりに光った髪は、少しも乱れていなかった。


 助けてくれと救いを求めようにも、顎が固まったように動かない。舌の根まで氷像と化してしまったかのようだ。


 レンはそのまま立ち尽くす力もなくし、くずおれた。


 次いで身体がゆっくりと傾いでゆく。

 咄嗟に腕に渾身の力をこめた。動け、動けと心中で叫びながら。


 肉体はそれに応えてくれたようだった。

 不意に止まった時が動き出したのだ。

 溺れたように腕がのたうった。

 指先が掻いた。


 しかしそれは、虚空だ。


 あっと声を漏らす間もなく、レンの身体は落下を始めた。


 視界の端には闇。

 懐中電灯の明かりはいつの間にか途切れて、無限に続くかと思われていた廊下は、すとんと落ちこんだ急な段になっていた。


 全身を激しく打擲ちょうちゃくされ、視界は二度も三度も反転した。

 やがて襖の中へ消えていったテルキの明かりも見えなくなり、辺りは真の暗闇の中へ没した。


 ふと思い出したのは、病室で手を振るアミの姿だった。

 メッセージとして残されたのと同じ台詞。


「また明日ね」


 その一言が、脳裏をめぐってこだました。


「あぐっ……!」


 最後にしたたか背中を打った。巨大な金槌を叩きつけられたような痛みだった。

 しばらくは呼吸をすることも、目をひらくこともできなかった。ただただ痛く、怖く、寂しかった。眼裏で明滅するアミの姿に「行かないでくれ!」と声なき叫びを叫んでいた。


 それに応えるかのように、耳もとでちゃぽんと、石ころが水を潜るような音がした。


 レンはおもむろに瞼を持ち上げる。

 そこに満月があった。爪の先ほども欠けることのない真円の月が。


 レンは己が目を疑い、痛む身体を諌めながら半身を起こした。

 辺りを眺めまわし、改めて茫然とした。


「どこだ、ここ……」


 落ちてきたところには階段があった。そこからほど近いところに戸口があり、朽ちかけた扉が大きく口を開けていた。


 おかしなところは、その周りだ。

 戸口の横は、右も左も、果てしなく壁が続いているのだった。

 ふと目を逸らし、反対側に視線を移せば、そこにはさらに信じ難い光景が広がっていた。


 ちゃぽん。


 川だ。川がある。

 満月の光を受けて薄青い、微かに波打つ川があるのだ。


 その幅は果てしなく、どこまでも続いているように見え、一見すれば海のようだった。だがよく目を凝らせば、仄かに光を孕む闇の最奥で、なびく緑が見て取れる。


 そう緑だ。

 川向こうに薄ぼんやりと浮かび上がる地平は、闇の中にあるはずなのに、はっきりと色をもっていた。


 まったくもって、わけがわからない。


 レンは痛みも忘れ当惑していた。

 灰の川岸で立ち上がり、途方に暮れた。


 来た道を戻ろうと思わなかったのは、なにか予感めいたものを感じていたからだろうか。


 階段へは向かわず、果てなく続くほとりを歩いた。ちゃぽんと音のするようほうへ、その出処を探ろうとするように歩いた。


 やがてレンは一艇の小舟を見出す。桟橋もなく、杭も打たれていない川辺に、そのままぷかぷか浮かんでいる。


 舳先に近いところには、船頭と思われる笠を被った人影が一つ。そのすぐ後ろに華奢な人影が一つあった。


 あくまでもここが屋敷の中であることを思い留め、それ以上近づくのを躊躇った。


 ところが船頭らしき人物は、すでにレンに気付いていたようだ。笠の下からぎらりと瞳を光らせ、手の中の櫂を弄びながら言った。


「あんたも乗るかい?」


 意外にも高い声音に、レンはびくりと肩を震わせた。

 果たして、言葉を交わしていい類のものなのか。迷った。

 しかし船頭が苛立ちをまぎらわすように、忙しなく櫂を上下させるのを見ていると、なにも言わずにはおれなかった。


「……この船はどこへ行くんですか?」

「花園だよ」

「花園?」


 おうむ返しに問うと、船頭は向こう岸の緑を指差した。


「痛みも悩みも、悪いものがなぁんにもねぇところさ。あんまりいいところだってんで、今まで帰って来た奴はいねぇ」


「へぇ、そんな素敵なところが」


 船頭の声には、意外にも苛立ったところがなく、頭の芯を蕩けさせるような妙な説得力があった。


「今ちょうど出るところなんだが、一度出ちまうと、次はずっとあとのことになるぜ。今のうちに乗っておいたほうがいいと思うが、どうだね?」


 レンは船頭と緑の地平とを見比べ、逡巡した。

 なにを迷っているのか、自分でも判らなかった。痛みも悩みもない、悪いもののない花園が、川向こうにあるというのだ。そんな素敵な楽園に、行かぬ理由などあるはずがない。


 だが、なにかが引っかかっていた。

 腰に巻きついた糸が、踏み出そうとするレンを引き戻そうとするような、妙に強い引力を感じていた。


 それを断ちきろうとでもするように、一歩踏みだす。

 湿った灰が重い。

 また、ちゃぽんと水に沈む音が聞こえる。

 微睡が押し寄せてくる。


 ふと舟へ視線を戻した。

 船頭の後ろ。そこにじっと座りこんだ華奢な人影。


「……っ!」


 ばちんと全身を電流がめぐった。強烈な既視感があった。

 次いで、朧になりかけていた意識の中に、どんと重いものが落ちてくる。

 吹き荒ぶ風のように険しく、凍えたように痛いもの。


 光の中に満ちた空白だった。

 整えられたベッド。

 人のあった残滓もなく、静まり返った白の一室――。


 そうか。


 レンはようやく気付いた。

 華奢な人影が何者なのか。花園とはどこなのか。自分がどこに迷いこんでしまったのか。


「乗るなら六文だよ」


 レンは船頭の声を無視し、けれど舟へと歩み寄った。

 そしてそこに座りこんだ人影を呼んだ。


「……アミ」


 影が小さく身動ぎし、振り向いた。

 見覚えのある顔だった。

 忘れられるはずもない顔だった。


 この世で最も会いたい人が、そこにいた。


 感情が奔流となり、たちまち胸をいっぱいにした。中で留めておくことができず、まなじりが濡れた。


 アミは微かに笑っていた。


『屋敷の奥へ行くと、願いが叶うんだって』


 テルキはそう言っていた。

 こういうことだったのか。


 満月の夜、レンは屋敷の奥へ辿り着いた。

 願いを叶えたのだ。


 最愛の人と再会し、そして願いを。


 舟に乗り、三途の川を渡るのだ。涸れ果てた世界に別れを告げ、誰よりも共にありたい人と死を迎えるのだ。


 レンは舟のへりに足をかけた。

 一抹の逡巡も感じなかった。


 その手に、冷たく柔らかなものが触れるまでは。


 はっとして顔を上げると、アミが微笑んでいた。空を穿つ黄金の輝きより遥かに美しいそれは、けれど切なく濡れていた。


 アミが小さくかぶりを振った。


「どうして……」

「……」


 まなじりに滲んだ涙がついにこぼれ、声を震わせ問いかけても、アミはなにも言わなかった。


 ただ頬を濡らし、微笑を保ちながら、静かに頭を横に振り続けた。


 レンの指先から力が抜け落ちた。

 ふらりと足が灰を踏んだ。


 それが不可視の綱を断ちきったのだろうか。

 舟の舳先が、音もなく水面を裂き始めた。


「待っ……」


 咄嗟に追おうとした爪先に水が滲みた。しんと冷えた感触があった。

 レンにはそれが、アミの声のように思えた。言葉を紡ぐことのない唇の代わりに、水面は託されたのかもしれない。


「まだ来ちゃだめ」


 その一言を。


 アミが小さく手を振っていた。


 斟酌したレンは、踏みとどまるしかなかった。

 心をずたずたに引き裂かれながら。眼前に伸びる川面よりも深い悲しみを宿しながら。立ち止まるしかなかった。


 緩やかに見えた舟が、もう、一回りも二回りも小さくなったように映る。

 アミはまだ手を振り続けている。

 レンは次々と溢れ出す熱いものを拭っては、手を振り返した。


 やがてその口許が闇の中に融けようとする頃、アミの閉ざされていた唇が小さく動いたのを見た。


「――」


 声は聞こえなかった。

 小さすぎたのか。端から声などなかったのか。


 けれどレンには、その言葉が分かった。

 五つの形で紡がれた声を、誰よりもよく知っていたから。


「うん……また明日」






 次の満月の夜のこと。

 レンはテルキをアパートへと誘った。


 テルキは、あの川のことは知らないようだった。

 いや、あるいは知っていながら、知らないと言い張っているのかもしれない。


 とにかく二人はあの日、無事に屋敷を出て、それぞれの思いを秘めながら帰路についたのだった。


 そして今日が来た。

 レンはすべてを打ち明けようと決めていた。


 アミという恋人がいたこと。彼女が病で命を落としてしまったこと。黒い屋敷の中に川があったこと。そこでアミと最後の別れをしたこと。


 ようやく整理がついたのだと思う。

 アミの死を乗り越えた上で、生きようと思えたのだと思う。


 結局、レンにはアミがどんな思いを抱えていたのか、そのすべてを知ることはできなかった。別れの瞬間、彼女はなにも語らなかったし、レンも訊ねなかったから。


 けれど一つだけ分かることがあった。たしかなことがあった。

 だからレンはあの時、舟を下り、明日を約束したのだ。


 アミは信じていた。

 愛していた。

 またやって来る明日を。


 だからレンもまた、それを信じ愛するのだ。

 それがきっと、アミと自分を出逢わせてくれたものなのだと思うから。

 

 フォーン。

 間抜けなインターホンが鳴る。どうやらテルキがやって来たらしい。


 こちらも「はいはーい」と間抜けな声を返して玄関に立った。


 開いたドアの先、親友の頭上に大きな満月があった。

 ちぎれ雲に揺れるそれは、水面に浮いた幻想のようだった。


 ちゃぽんとどこかで音がした。


 レンは微笑み、親友を中へ招き入れた。

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