川のある屋敷〈前篇〉
窓から射した明かりが、部屋を斜めに切り裂いている。風もないのに舞い上がった埃が、ちらちらと辺りに弾けて、無人の病室はいっぱいの光に埋もれて見えた。
対するレンの心は、悲痛に翳って底を見ることなどできそうにない。仮に底を探り当てたとして、それに意味があるとも思えなかった。
悲しみの出処は知れているし、知ったところで、心が癒えるわけではない。
半身を失ったような喪失感。爆竹のように弾けて胸を裂く悲哀。
戻ってこない者のために生ずる感傷を、知ることで癒せるなら、レンはすでに病室を去っているはずだった。
空っぽのベッドに歩み寄る。
綺麗にメイキングされた、しわひとつないシーツ。まるで最初から誰もいなかったかのような。
笑って手を振ってくれたアミが、ここにいたはずなのに。
時折、訪れたはずの看護師も、もう現れない。今では廊下をパタパタ小走りに、別の病室へと吸いこまれてゆく。アミの死なんてなかったかのように、患者の名を呼んで笑うのだ。
レンは踵を返し、去り際にもう一度、愛しい人の残滓を探した。
けれど、ベッドは空のままだった。
彼女の存在した証は、もはや痛みの中にしか残されていない。
アミが亡くなってから、およそ一月半が経った。ほんのりと涼しかった風も、今では窒息しそうな熱気を孕んでいる。それを喜んでいるみたいに、セミたちは騒がしく一生を終えていく。
レンの悲しみは未だ癒えない。きっと一生癒えることはないだろう。癒えて欲しくないとも思っている。この痛みこそ、アミへの愛情のような気がするから。
一方で、日常には変わりがない。アミの見舞いへ行くことはなくなったけれど、大学の講義を受け、バイトをして、日々のつまらないことを消化すると眠る。
ふと、がらんどうの病室を思い出し、アミは最初からいなかったんじゃないかと思う。そう思いたいのかもしれない。そんな自分にひどく嫌気がした。
四畳一間の狭いアパートのベッドの上。嘆息を漏らせば、スプリングより床が軋む。どうしてこんなボロを選んでしまったのかと、今更ながらに後悔するものの、すぐに些細なことだと忘れる。
ボロアパートだろうと生活はできる。窮屈であることと生きられないことは違う。窮屈を不満にハジけてしまう奴は、生きているという、たったそれだけの幸福を知らない馬鹿者だ。
皮肉なことに、アミを喪ってからようやくそれに気付かされたのだけども。
一方で、こうも思う。
生きられなかった死者を憐れむことは、正しいことだろうか、と。
最期の瞬間に居合わせることもできなかった自分が、彼女の幸不幸をどうして決めつけてしまえるだろう。
結局は、そう思って自分を慰めたいだけではないか。生と死によって別たれ、愛するがゆえに悲しみ、彼女にもそうあって欲しかったと思いたいだけなのではないだろうか。
残された自分が憐れで、不幸で、死にたいと思うことさえ、生きることを許された者の慰めでしかないのではないか。
そんなことを考えるうち、なにもかもが分からなくなってきた。
恵まれた自分は強く生きるべきなのか。恵まれたと思うことさえ傲慢なのか。彼女を追って死にたいと思うのは罪なのか。果たして自分は、本当にアミを愛していただろうか――。
レンはかぶりを振って、湧き上がる自己嫌悪を噛み殺す。スマホを取り出し、明るくなったディスプレイに、わけも分からずほっと胸を撫で下ろした。
なにをするでもなく、画面を見つめる。
そうしているうち、次第に気付きはじめる。
アミから連絡が来るんじゃないかと思っている自分に。
空白の病室が、彼女の存在を感じさせなかったように、すべてが夢だったのではないかと、まだ疑っている自分がいるのだ。
恐るおそるアミからのメッセージを確認すると、やり取りは一月半前から途切れていた。
『また明日ね。おやすみ』の言葉を最後に。
それからあと、どちらからもメッセージを送っていない。だからアミからのレスポンスがないだけではないか、と思ったりする。
着信履歴からアミを探す。
これにかけたら、声を聞けやしないか。
〈発信〉に触れかけた指が震える。
細い息が漏れる。ディスプレイがかすかに白くぼやけた。
「あああああ……っ!」
触れる直前で、レンはスマホを投げ出した。ローテーブルの上を跳ね、床を滑って、防護フィルムに蜘蛛の巣が刻まれる。
レンは頭を抱えた。ごわごわとした髪の感触が指に痛かった。
たっぷりとワックスを塗りつけて、しゃれこんでいた頃の自分はもういない。胎児のように身体を丸めて、頭をかきむしるのが今の自分だ。
情熱などどこにもない。それを見て欲しい人もいなくなってしまった。
なにをして生きればいいのか。
間断なくやって来る日常に、明日も耐えられる自信がない。
そのとき、フォーンと間抜けな音が部屋を満たした。呼び鈴の音だった。
心は、よりささくれ立った。
どうしてこんなときに……!
居留守でやり過ごそうとしたが、呼び鈴は一定の間隔をもってしつこかった。毛布にくるまり、耳を塞いでも、指の隙間を、あるいは繊維の編み目を縫うようにして音が届く。
痺れを切らしたレンは、がばりと起き上がり、やけに足音を強調しながら玄関に立った。
「どなたですか!」
「うわっ! びっくりするなぁ」
部屋を満たした冷気を、ぐにゃりと歪めるぬるい風が吹いた。
ドアチェーンの分だけ開け放たれた外界の切り傷に、見知った顔がある。去年のゼミで仲良くなったテルキだった。
レンはばつ悪く目を逸らした。
「……なに?」
「遊びに行こうかと思って。誘いに来たんだけど」
テルキは、アミの死を知らない。そもそもレンとアミの蜜月のときがあったことさえ知らなかった。
それなのにレンは、理不尽にテルキを恨んだ。どうして今なんだという思いが消えなかった。
「……悪いけど、今日はやめとく。そろそろ勉強集中しないと、単位ヤバそうだし」
「えー、ちょっとくらいいじゃん」
「よくない」
無理矢理ドアを閉めようとすると、テルキが足をねじこんできた。よほど突き飛ばしてやろうかと思ったが、さすがにそこまでのことはできなかった。
「お願い! どうしても行きたいところがあるんだよ! 今日じゃないとダメで」
テルキが拝むように手を合わせて言った。
「……どういうこと?」
「まあ、とりあえずさ、中入れてくれない?」
ここまで図々しいと、却って怒る気力も萎えてくる。レンは大きく嘆息して、仕方なくドアチェーンを外してやった。
「ありがとー、お邪魔しまーす」
本当に邪魔だ、とは思いながらも、入室を許してしまったものは仕方がない。
一応、麦茶くらいは振る舞ってやる。熱中症で倒れられてもたまらない。
氷がカランとマグの中で鳴くと、それだけで喉が潤うような感じがする。喉が渇いていたんだと気付き、真っ先にマグを呷った。
「ははっ、酒飲みのおっさんかよ!」
人のベッドに躊躇なく座りこんだテルキのことは、この際気にしないことにする。レンはほとほと呆れ返っていて、また弱り切っていて、いちいち注意する気力は麦茶を飲みくだしても涸れたままだった。
「それで、行きたいところって?」
近場でなければ、なんとしても断るつもりだった。今は立ち上がるのも辛い。こうしてテルキと向かい合っていることさえ億劫なのだ。
テルキは下戸のように、麦茶をちびちび舐めると、こう言った。
「うちの大学の近くにさ、古い屋敷があるの知ってる?」
「屋敷?」
「うん。家主が亡くなってからもう随分になるんだけど、今も壊されずに残ってるんだって」
「肝試しにでも行くのか?」
外はすっかり夏。肝試しシーズンだ。テルキのようなふわふわした奴が、いかにも好きそうな響きではある。
「そんなところだけど、ちょっと違う。その屋敷、すごいんだって」
「なにが?」
もったいぶった言い方に、苛々してくる。だがそれもすぐに萎んで、アミの笑顔がフラッシュバックした。
それと呼応するかのように、テルキが答えた。
「満月の夜、その屋敷の奥へ行くと、願いが叶うんだってさ」
今日はちょうど満月の夜が来る。テルキが「今日じゃないとダメ」と言った理由が分かった。
「願いね……」
その話を馬鹿馬鹿しいと思うより先に、レンは焦がれた。
アミともう一度会うことができたら。そんな願いが叶うなら。
けれどすぐに、その考えを振り払った。
「ありえないよ、馬鹿馬鹿しい」
「まあ、俺もそう思うんだけどさ。そんなバカみたいなことを信じたフリでもして、気を紛らわせたいんだよね」
不意にテルキが含みのある言い方をしたので気になった。
「なんかあったのか?」
「まあね。大したことじゃないんだけど」
「なんだよ、言えよ」
無理に問い詰めると、テルキがにへらと笑って目を逸らした。
心なしかそこに憂いの色が淀んだように見えて、レンは声を殺し、テルキが話し始めるのを待った。
やがてテルキは、麦茶をいっぱい口に含むと、ごちるようにこう漏らした。
「仲良かったおじさんがいたんだ。叔父とか叔母のおじさん。その人がちょっと前に……死んでさ」
「えっ」
虚を衝かれるような思いがした。
レンは自分が世界で一番不幸なんじゃないかと思えるほど、死別の不条理に悩んできた。
けれど死とは、普遍的に生ずるものなのだ。こんなにも近い場所で、避けようのない悲しみに胸を裂かれ、苦しんでいる者がいるものなのだ。
それに気付かされたからと言って、この胸の悲しみが消えるわけではないけれど。自分だけが不幸の只中にいるような顔は、もうできないと思った。
レンは傲岸な己を恥じ、俯いた。
そして訊いた。
「テルキはさ、それで屋敷に行けば納得できるの?」
「正直、わかんね。でも、なんかさ、なにもなければ、やっぱりなんとかやってくしかないんだって思えるかなって。受け入れるしかないんだって、踏み出せるような気がするっていうか」
「ふぅーん……」
気のない返事を装いながら、そういう考え方もあるのかと思った。
懊悩しながら腐り、死者の背中を追うことさえ考えていた自分なんかとは違って、テルキはずっと前を向いていて殊勝だ。真っ直ぐすぎるのは、正直鬱陶しいけれど、その愚直さが羨ましかった。
レンはもう一度マグを呷って、氷を一つ噛み砕いた。
「……まあ、俺もあわよくばって願いくらいあるし、とりあえず行ってみるか?」
「え、いいの? レンもなんかあった?」
その無垢な問いかけに、今のレンは歪んだ微笑しか返すことができなかった。
「今回だけね。屋敷へ行って整理がついたら、話すかもしれない」
「そっか。あんがとー」
そうして二人は夜を待った。
蝉時雨の降りしきるその日、空には一片の雲もなく、ただ名も知らぬ鳥だけが、ゆらゆらと軌跡を描いていた。
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