誘い池〈後篇〉

 翌日、たっぷり上司にしぼられた私は、嫌なものを振り払おうとして昔のことを思い出していました。いや、正確に言えば、昨夜の出来事から昔の思い出が連想されていったのです。


 というのも私は、まだ池へ行ってしまった後悔とも不安とも言い難い感情を咀嚼できていませんでした。


 あの池は本物だと知っていましたから。


 小学四、五年生の頃、あるいはもっと前のことだったでしょうか。私は子ども会で一緒だったミサちゃんとともに〝誘い池〟へ行ったのです。


 池へ行こうと言いだしたのは、ミサちゃんのほうでした。私は臆病な子だったので、必死で断ろうとしましたが、強気なミサちゃんは「私が守ってあげるから!」と、どうしても聞いてくれませんでした。


 こうして不承不承ながら頷くしかなかった私は、たった二人で裏山に入り、池を見たのでした。


 なんということはない、ただの池でした。近く雨の降った日はなかったはずなのに、濡れている松だけが奇妙だとは感じましたが、それだけです。水も意外なほど澄んでいて、むしろ気持ちの好い場所だと感じられました。


 ミサちゃんの反応も概ねそんなものでした。ただ、彼女の場合は「なにもなくて、つまんないねぇ」と、はっきり言っていましたが。


 事件が起きたのは、その晩のことです。


 夕食を終えて、さあお風呂に入ろうと思った折、不意に呼び鈴が鳴ったのです。時刻は午後九時を回った頃でした。人様の家を訪ねるにはずいぶん晩い時間です。


 玄関には父が出ました。私はなんとなくその背中を追いかけて、ドアの隙間から玄関の様子を覗いていました。

 父が「はぁい」と気の抜けた声で引き戸をガラガラと開きます。その音が私の耳には、引き戸の悲鳴のように聞こえました。あるいは私自身の悲鳴だったのかもしれません。


 玄関には女の人が一人ぽつねんと立ち尽くしていました。長い髪を後ろにではなく、前に垂らした女でした。身体をすっぽりと覆う青いワンピースの裾だけが、風もないのに時折微かに揺れていました。


 私はすっかり身をかたくしてしまい、首を引っこめることも、視線を逸らすこともできませんでした。父もその異様な姿に驚いて、喉を詰まらせていたようです。


 ところが、そうして張りつめた時間も長くは続きませんでした。

 女はふいに小さく会釈のような仕種をすると、ついに一言も口を利かず去っていったのです。


 ずる、ずると、まるで水に濡れた衣服を引きずるような音をたてながら。


 当然、その夜、布団に入っても寝付けませんでした。また呼び鈴が鳴って、あの女の人が来るかもしれない。あるいは閉めきったカーテンの向こうで、私を探しているかもしれない。そんな想像が消えなかったのです。


 ですが、いつの間にか眠りはやってきて、気が付くと朝でした。頭の奥のほうがじんと疼いて、若干寝不足の気はありましたが、健康そのものでしたし、悪い夢にもうなされませんでした。


 私の中で、ちっと音をたてた感情は、だから恐怖ではありませんでした。


 それはミサちゃんに対する怒りだったのです。

 行きたくないと、あれほど態度で示したのに。それでも無理やり私を同行させた彼女を許せない気持ちがしたのです。


 放課後、私は電話をかけ、ミサちゃんを近くの公園に呼び出しました。

 彼女はすぐ駆けつけてきて、開口一番「今日はなにして遊ぶ?」と言いました。


 それが私の怒りを、より強く大きなものにしました。きっと彼女の許に、あの長い髪の女は来なかったのだろうと、なぜ来なかったのだと、理不尽に恨みさえしたのです。


 私は大人しい子どもだったと記憶していますが、その時ばかりは声を限りに怒鳴ってしまいました。


 ミサちゃんは黙って私の言葉に耳を傾けていました。悄然とする様子もなく、ただじっと私の言葉を聞いていました。


 却って、それが我慢なりませんでした。

 ちっとも反省の色がない。

 そんな風に思えて。


 だから、あんなひどいことも言ってしまったのでしょう。


「あんたが、あの怖い女の人に連れてかれちゃえばいいんだっ!」


 と。


 その時初めて、ミサちゃんが傷ついたような表情をしたのを、今でも忘れられません。


 けれど当時の私は、すっかり我を忘れていて、わけも分からず泣きだすまで、ずっと罵詈雑言の限りを彼女へぶつけたのでした。


 ミサちゃんはというと、ついに反論することもなく「また遊ぼうね」と言って、去っていきました。


 その背中がひどく小さくて。傷ついているように思えて。

 なんとか呼び止めようと思った頃には、あれだけ溢れでた言葉がなにも出てきてくれませんでした。


 それから結局、ミサちゃんとは連絡を取ることができず、疎遠になってしまいました。謝罪の一つを言うこともできずに、気付けばそんな時間を回想している自分があるのです。


 うとうとと眠ってしまったのは、様々な後悔が涙となって枕を濡らしはじめた頃だったのでしょう。

 はっとして目を覚ますと、こめかみがじっとりと濡れていました。カーテンから射す光はなく、時計を見上げれば九時でした。

 楽しみにしていたドラマを見損ね、まだ夕食を口にしていない事実に絶望的な気持ちがこみ上げます。


 憂鬱と息を吐きだせば――。

 突如、遠い過去に首根っこを掴まれたかのような感覚に襲われました。


 茫洋とした意識で、しかしはっきりと聞いたのです。

 ぽーんと頭の中を転がるような呼び鈴の音を。


 まさか。

 来た。来てしまった。


 全身からどっと汗が噴きだしました。

 ベッドに置いた枕を引っ掴み、頭の上から被ります。耳も目も塞ぐと、深い井戸の底で独りきりになったような心地がしました。助けてくれる人も、逃げる場所もありません。背に氷を押しつけられたように、ぶるると震えがこみあげます。


 ぽーん。ぽーん。

 と、呼び鈴が鳴ります。


 その度に、あの髪の長い女が思い出され、吐き気にも似た恐怖が胸を衝きました。


 ドン、ドンドンドン。


 次いで、ドアを叩く音まで。

 私はますます枕を強く押し当て、音という音を殺そうとしますが、なかなか遮ることはできません。


 ドンドン。


 お願い、帰って……!


 あの時はすぐに帰ってくれました。なので今回も、隠れていれば帰ってくれるはずだと言い聞かせました。


 ドンドン。ドンドン……。

 ……。


 その願いが届いたのでしょうか。

 次第にドアを叩く音も、呼び鈴の音も途絶えていきました。


 恐るおそる枕を離せば、耳に痛いほどの静寂が室内に張りつめていました。まるで短い夢を見ていたような気分です。


 ……ん。……ゃん。


 ところがじっと静寂に耳を傾けていると、玄関のほうで、なにか小さな音が聞こえてくるではありませんか。


 足を引きずる音でも。物を動かす音でもなく。

 それは、


「……ちゃん。……ないの?」


 くぐもった声のようでした。


 心臓を鷲掴まれるような心地がしました。〝誘い池〟の使いが私を呼んでいるのだと考えたからです。


 にもかかわらず私の中に、もう一つの考えが浮上してきます。

 この声は本当に人の声ではないか。ただの訪問者なのではないか、と。


 恐れていたからこそ、一縷の望みに縋りたかったのかもしれません。

 やがて、じっとしている事もできなくなり、そっと、そおっと、立ちあがりました。 


 足音を殺し、息を殺し、玄関へしのび寄ります。一歩踏みだす度に、拍動は激しくなっていきます。その音が、ドアの向こうにまで聞こえていないかと不安になるほどに。


 部屋から漏れた照明の明かり。

 それを受けた玄関のドアが、幽かに揺らめいて見えた時でした。

 私は、はっきりと外の音を聞いたのです。


「……おっかしいなぁ。ここのはずなんだけどなぁ」


 若い女の声でした。亡霊に抱く陰鬱な調子など感じさせない、張りのある声でした。


 怪訝に思いましたが、油断はできません。

 なおも足音を殺し、ドアへ近付きます。

 靴も履かず土間へのりだし、いよいよ覗き穴に目を重ねました。


 すると、丸く切り取られた世界に、幾つかの円が重なって見えました。


 外の景観なんかでは、決してありません。

 ややあって、血管の一本一本すべてをゾゾッと恐怖がめぐりました。


 それはまぎれもなく、あちらからこちらを覗くだったからです。


「わああああああああぁぁぁっ!」


 空を割るような悲鳴が轟きました。

 私は、ばったばったと跳ねながら後ずさります。

 ところが、悲鳴を上げたのは私ではありません。


「びっくりしたぁ! いるじゃん!」


 そう気安く放たれた声に、一度はふくれ上がった恐怖が、急速に萎れていきました。

 改めて覗き穴から外を見れば、立っているのは眉をひそめた髪の長い女でした。幼い頃に見た女とは明らかに違います。てんで見覚えがありません。


 改めてぞっとこみあげるものがありました。


 突然、知らない女が訪ねてきて、覗き穴までのぞきこみ「いるじゃん!」などと声を上げるのです。亡霊めいた女が訪ねてくるより、ある意味もっと恐ろしいことではありませんか。


 ですが、見られてしまった以上は、もう居留守を使うこともできません。

 私は恐怖を噛み殺すようにして、あえて高圧的に「どなたですか!」と怒鳴るように言いました。


 すると外の女は「なんだ、喋れるじゃん!」と、これまた気安く返してくるのです。


 ここで、ようやく合点がいきました。

 この人、きっと部屋を間違えてるんだと。


 私はようやく胸を撫でおろし、それを相手に伝えようとしました。

 ところが、その矢先、彼女が放ったのは予想外の一言でした。


「ねぇ、ナオちゃんだよね? あたしミサ。憶えてない?」

「……」


 私はなにも答えませんでした。

 その代わりというのは正しくないのでしょうが、気付けばドアを開けていました。

 

 いつドアロックを回したのかも憶えていません。もしかしたら、鍵をかけ忘れたままでいたのかもしれない、そんな風にすら思える一瞬の出来事でした。


「「あ」」


 互いにぽかんと口をあけ、それだけ言うと私たちは、合図するでもなく同時に笑い始めました。この子がミサちゃんを騙っているんじゃないかとか、疑う気持ちは露ほども湧いてはこず、懐かしい笑いだけがとめどなく泉のように溢れるのでした。


 面影を見て取ったわけではありませんでした。ただ直感的にこの子がミサちゃんであるとすぐに判ったのです。


 そうして笑っていると、お隣のスギハラさんがドアからひょっこり顔を出し「ちょっと静かにしてくれる」と険のある声で言いました。私は慌ててへこへこ頭を下げ「すみません」を繰り返します。すると、ミサちゃんは口許を押さえ、またくすくすと笑うのです。


 うなじをくすぐられるような恥ずかしさがあって、私は拗ねたようにミサちゃんを中へ招きいれました。

 いや、引きずりこんで、押しこんだ。そう言ったほうが正しかったかもしれません。


 ミサちゃんは終始笑い続けていて「ナオちゃんって、意外と短気だよねぇ」などと肘で小突いてきます。嫌なところを蒸し返されたような気がしてむっとしましたが、ここで言い返したら、彼女の言葉を肯定するのと同じなので黙っていました。


 適当なところに腰を下ろさせ、二つのコップにそれぞれ麦茶を注ぎます。

 コップのふちが冷たくなっていくのが、なんだか気持ちが良く感じられました。


「びっくりしたよ。どうして急に?」


 ミサちゃんとはあれ以来、一度も会っていません。もう十数年ちかく経つはずです。それなのにどうして急に訪ねてきたのか、理由が解りませんでした。


 こんなにもあっさりと彼女を中へ入れてしまった自分にも、当惑していました。不用心だろ、と心の中でもう一人の私が囁きます。それでも彼女に出ていって欲しいとは思いませんでした。むしろ、積もる話を語りあいたいとさえ思っていたのです。


「なんか急に会いたくなったの。わざわざ、おばさんに住んでるところ訊きに行ったんだよ?」


 私は瞠目しました。十数年も連絡を取り合ってこなかった相手に「急に会いたくなったから」という理由だけで会いに行くなんて考えられないことでしたから。


 実際、私も何度かミサちゃんに会いたいと思ったことはありました。ですが、いざ実行するのは、考える以上の何倍も難しいことなのです。


「ミサちゃん、すごいね」


 気付くとそんな言葉がもれていました。

 自嘲的に笑いかけていました。彼女をとても眩しい存在のように感じていました。


 それはあの頃と同じ感情だったと思います。男の子から「ネクラ!ネクラ!」と馬鹿にされていた私にとって、いつ何時も快活に笑うミサちゃんは、憧憬そのものでしたから。


 そんな思いなど露知らぬミサちゃんは、「え、なにが?」と怪訝な表情でこちらの顔を覗きこんできました。

 私はそれに「なんでもない」と答えて笑います。


 ミサちゃんもしつこく詰め寄って来ることはありませんでした。

 そうして私たちは麦茶を飲みながら、なんてことはない、つまらない話をしました。最近できた洋菓子屋さんのケーキが美味しいとか、どこどこの化粧品のノリがいいとか、昔は目立たなかった同級生の男の子がイケメンになっているだとか。


 そんなくだらない話の数々が、どれも心底楽しい時間のように思えました。彼女がミサちゃん本人であるかどうかなんて、たしかめようともしませんでした。あるいは私自身が、そんなことを考えないようにしていたのかもしれません。人生に疲れ切っていた私には、彼女のような友人が必要だったのです。


 だから彼女が「ちょっと散歩に行こうよ」と言い出した時も、私にそれを拒むことなどできませんでした。

 すでに日をまたごうとする時間帯で、明日は仕事でしたが。もうどうにでもなれという気持ちもあったかもしれません。


 私たちは着の身着のまま、じっとりと熱の残る夜の街を徘徊しました。


 日の射す時間には、ちょっとした喧騒や気配に満ちた世界も、真夜中の闇の中では、しんと静まり返って幻のようでした。山のほうから虫のさざめきが下りてきて、月明かりに濡れた薄青い田んぼからは、カエルの合唱が行進しています。


 世界には私とミサちゃん、そして種々雑多な小さな生き物たちだけしか存在していないようでした。暗く静謐な夢の中に守られているような気分だったのです。


 やがて、ミサちゃんが私の手をとり笑いかけた時、私の頭は、幻想的な世界を前に恍惚としていたのか、ぼんやり霞んだようでした。


 笑みを返し、固く手をにぎり返して、どちらからともなく走り出していました。

 行くあてなどありませんでした。目的地を定める必要も感じませんでした。どこへだって行ける。どこへ行ったとしてもこの自由を見失うことはない。根拠もなくそんな確信があったのです。


 だからでしょうか。


 ミサちゃんが例の裏山へ向けて踏みだした時も、恐怖など微塵も感じられなかったのです。ただ「ああ、あそこへ行くんだ」と過ぎっただけでした。


 しかしあの場所には、やはり不思議な力があったのでしょう。

 柔い綿のように思考を包んでいた昂揚が、ふとして晴れ、突如、暗闇の中に放り出されたような心地がしたのです。


 隣を見ればミサちゃんがいます。

 私の手を引き、山の奥へと駆けていきます。

 横顔を見ることはできませんでした。汗に湿ってはりついた長い髪が隠していたからです。


 私はふいにひどく寂しい気持ちになりました。悲嘆のようなものが胸をせり上がってくるのが分かります。けれど、それは嗚咽にまではならず、荒い息にかき消されていきました。


 不思議と恐怖はありませんでした。寂寥や悲哀ばかりがありました。それらを訴えるために、ミサちゃんの手を、より固く握りしめた時でした。


 私たちが足を止めているのに気付いたのは。


 ぴちゃ。


 そして、この場所が、あの〝誘い池〟の淵だと気付いたのは、その時でした。


 深淵の闇に閉ざされた視界に、私は幽かに揺れる水面を見ました。


 細い糸のように、枝葉の間を縫って垂れる月明かり。

 私はそれを手繰り寄せようと手を前にさし出して、ゆっくりと懐に戻しました。


 そうしてみて初めて、はっきりと判ったのです。


 私の手を握るミサちゃんの手が、ひどく冷たいことに。


 ミサちゃんとは、十数年もの間連絡を取っていませんでした。

 それもそのはずです。

 あの理不尽な糾弾のあと、ミサちゃんは事故で命を落としていたのですから。


 私は傍らに佇むミサちゃんに、目を凝らしました。その像が却って歪んで見えるほど、目に力をこめたと思います。


 彼女の姿をはっきり見て、決して逸らしてはいけないと思いました。

 十数年ぶりに会う彼女に、言わなければならない言葉があったからです。


 けれど黒い髪に隠された横顔は、こちらへ向いてはくれませんでした。快活に映った大人のミサちゃんは、やはり幻影に過ぎなかったのかもしれません。


 それでも構いませんでした。私には責められる理由があったし、ミサちゃんには責める権利があったのです。私のすべき事は、それを受けいれ、ただ伝えることでした。


「ごめんね、ミサちゃん」


 もっと早くに言うべき言葉でした。


 彼女を責める道理など、端から私にはありませんでした。本当にここへ来るのが嫌だったのなら、はっきり嫌だと伝えればよかったのです。それでもあの日、この場所へ来たのは、断る勇気がなかったのではなく、ミサちゃんと二人だけの秘密を共有できることに、密かな期待を抱いていたからに他なりませんでした。


「ミサちゃんのこと、責めちゃった……。本当にごめんなさい」


 彼女への想いを胸に、私は深く腰を折りました。


 すると不意に、池の向こう側から、無数の悲鳴を一緒くたにしたような激しい破砕音が聞こえてくるではありませんか。


 見れば、あの濡れた松が倒れ、池の中に沈んでゆこうとしています。


 私は奇妙な予感をおぼえ、ミサちゃんに視線を戻しました。

 光を遮っていた松の巨木がなくなると、ミサちゃんの姿をよく見ることができました。


 彼女がゆっくりとこちらへ向き直る姿が、脳裏に刻みこまれます。その姿が愛おしく美しく思えたのです。


 そして目が合った時、ミサちゃんの口許には小さな笑みがありました。


「これ」


 ミサちゃんが言いました。

 その手に小さな紙片が握られていました。

 私はわけも分からず、おずおずと紙片を受け取り、しばらくの間、じっとそれを見下ろしていました。


「あ……」


 ふと我に返り見上げると、ミサちゃんの姿は消えていました。

 辺りをどれだけ見回しても、ミサちゃんらしき影はどこにも見当たりません。


 私は大きく肩を落としました。

 けれどミサちゃんは、本来存在しないもののはずなのです。ああして再会できたことが奇異なのです。


 私はひとり裏山を下り、コーポへと戻りました。恐怖などどこにもなく、ただ果てない寂寥だけを感じていました。


 そして部屋に戻った私は、電灯に照らされた部屋の中で、ようやくミサちゃんから渡された紙片に書かれてあったものを見たのです。


 そこにはただ一言、こう書かれていました。


『ごめんね』


 独りきりの室内で、私は何度もなんども、大きくかぶりを振りました。

 思い出したように、涙が溢れてきました。胸の奥が潰れるように痛みました。


 その後、何度も〝誘い池〟へ赴きました。

 すべてが夢だったのではないかと悲しみを抱きながら。


 けれど池のすぐ隣にあった松は、たしかに中ほどから折れていました。

 私の手許にはまだ、ミサちゃんから貰った謝罪の言葉もあります。


 それを見る度に、涙を堪えきれなります。伝えたい言葉を伝えるべき相手がいないことに悲しみ、虚しい気持ちに押し潰されそうになるのです。


 それはひどく辛い痛みです。

 上司に叱られることよりも、恋人に捨てられることよりも、ずっと辛い痛みなのです。


 だから私は生きています。

 強い人間になったわけではありません。


 もう二度とあんな過ちは繰り返すまい。そう思いながら、今日も生きている。


 たったそれだけのことなのです。

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