誘い池〈前篇〉

 何故、神もお化けもサンタクロースも信じない大人になってから、あの場所を訪れたのか、今以てしても解りません。


 ただ凪いだ海の潮騒のような予感をうちに感じたのかもしれませんし、日々の営みにほとほと疲れて、神霊の類を信じたくなったのかもしれません。あるいは、心の深淵に疼く信心深いところが「あそこに行けば死ねるんじゃないの?」と教えていたのでしょうか。


 やはり今になって考えてみると、理解し難いことだったと思います。


 あれは夜気も煮えたような夏の夜のことでした。


 当時の私は仕事がちっとも上手くいかず、毎日上司に怒られ、上達しない自分に苛立っていました。家に帰ればひとまず胸のつかえも下りますが、夜も更けてくると憂鬱でたまりませんでした。明日が来るのが嫌で眠れず、目の下に濃い隈を作りながら、それでもなんとか日々を生きていたものです。


 こんな日々がいつまで続くんだろう。早く終わって欲しい。


 そう思いながらも、特に死にたいと思うわけでなく、ふと考えたとしても永久の闇に落ちるのは恐ろしくて堪らず、暗澹とした心のまま、忙しない毎日に耐えていたのです。


 そんな私の支えに恋人の存在がありましたが、件の夜、彼から寄越されたのはこんな電話でした。


『悪いけど、もう終わりしよう』


 もちろん私は、その理由を問いただしました。

 柱に入ったひびを、なんとか正さねばならない。そうしなければ、生きていけない。本気でそう思っていましたから。


 ところが彼は、こう続けたのです。


『正直言ってさ、お前マジメすぎてつまんないんだよね』


 返す言葉がありませんでした。その残酷な一言に対して「ふざけんじゃないわよ!」と激昂をあらわにすることさえ空しい気がしたのです。


 私にとって、真面目であること、誠実であることは、人が具えておかなければならない最低限の資質でした。真面目で、誠実で、あるいは健全であることが、私の美点だと信じてきました。まさかそれが、愛する人との別れの原因になるなどとは、考えてもいなかったのです。


 先程も申し上げたように、当時の私の心の支えは彼でした。聞く人によっては「そんなつまらないことがなんだ」とお思いになるでしょうが。当時の私には、それがトンネルの先に見えていた光を奪われたような絶望的な出来事だったのです。


 そうして私は破れかぶれになったのでしょう。

 通話を終えるやいなや家を飛び出していました。


 私はあの頃からずっと一人暮らしを続けていますが、実家はほんの三十分ばかり歩いたところにあります。

 なので、そこへ駆けこんだ――かと言えばそうではなく、私が向かったのは、実家の背に負われるようにしてそびえる裏山のほうでした。まだうら若かった女が、夜晩くに全身を汗びたしにして山に入っていったなんて、本当に改めて思い返してみると、馬鹿なことをしたものです。


 裏山には当然、明かりと呼べるようなものはありませんでした。雑多に生えた木々の枝葉の隙間から、かすかに月明かりが覗くばかり。地上は墨を融かしたような暗闇です。


 それでも足を止めず、ずんずん山の中へ入っていきました。目頭は脈打つように熱く、胸は潰れたように痛く、恐れなど抱く余地はありませんでした。どこまで行けば、この脚が止まるのか。そんなことも念頭になかったでしょう。


 だから、ぴちゃ、と水面をはじく音が聞こえた時、ようやく過ちに気付いたのです。毒々しい色彩を攪拌した心に、恐怖の色がとんと落ちて、私は蒼褪めた顔で足を止めました。


 我に返って辺りを見回してみれば、すっかり闇の中です。山に茂った木々は存外背が高く、密集し、振り返っても来た道は見えません。そっと正面に手をかざすと、白い手がぼんやりと闇に形を与えます。だからと言って、それで自分がどれだけ奥へ来てしまったのか知ることはできませんでした。


 喉が震えてきます。ですから、「あうあう」と鼓膜を揺らすのは、喉からもれた自分の声。だのに、闇の中から赤ん坊の泣き声が私を呼ばっているようで。

 それを鎮めようと弱く長く息を吐きますが、恐怖のほうはちっとも去ってくれません。


 どうしよう。

 不安が頭をもたげます。


 その時また、ぴちゃ、と水の音が聞こえました。

 正面から。


「……あァ」


 私には解っていました。

 これは〝誘い池〟の水音に違いないと。


 小さな頃、祖母に教えられた、決して近付いてはいけない池。一度その淵に立ったなら、たとえ家の門を潜ろうとも、髪の長い女がやってきて無理矢理に連れ戻されてしまうという曰くつきの池です。

 その傍らには、決して枯れることない松が生えていて、あの尖った葉が年中水に濡れていると言います。それが定期的に滴り落ち、池の上でぴちゃとカエルの足音めいた音を鳴らすのです。


 私は咄嗟に、踵を返しました。池を反対に進めば帰れるという確信がありましたし、神仏やオカルトを馬鹿らしいと思う私にも、それが本物だと解っていたからです。


 来た時よりも無我夢中で走ったと思います。草木の濃いにおいに今更ながらむせ返り、枝ですり切った頬の痛みが滲む中、背中に感じる冷たさに追い立てられるようにして山を抜け出したのでした。


 視界がひらけた時は、心底ほっとしましたが、背中の冷たい感触は拭えませんでした。動悸がして、自分の呼吸がうるさくて、山から降ってくる虫の鳴き声が感じられました。


 そこで改めてはっとしたものです。

 私はその音色を、山をでて初めて聞いたのですから。


 

 胸をかるく撫でながら住処のコーポに着いた時、すぐには中へ駆けこまず、まず遠くから様子を窺いました。

 池の近くに行ってしまった所為で〝誘い池〟の迎えが来ているかもしれないと危惧したのです。


 幸い私の部屋の前には、女どころか野良猫一匹見つかりませんでした。


 ほっと胸を撫で下ろした次の瞬間には、尻に帆をかけ部屋へ駆けこみ、鍵をしました。ガシャン、と重い施錠音が聞こえると、この上ない安堵に涙が滲み、遅れて恋人に捨てられたことを思い出し、また泣きました。


 べったりと濡れた衣服を洗濯機に放りこんで、風呂に入り、また泣きます。


 明日もきっと上司に怒られる。

 つい数分前までの恐怖はどこへやら、私の気持ちは別の沢山のもので憂鬱になっていきました。


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