待ち人〈後篇〉

 凍えた息が尾を引く。冬の紫紺の夜に、焦燥の息はよく映える。

 これがドラマや映画のワンシーンだったら、きっと見入ってしまうだろうけれど、夜の街に融ける息の名残りを、いちいち目で追う余裕なんて今の俺にはなかった。


「やばいっ……!」


 ポケットからスマホを取り出して画面に食い入る。バスの発車時刻まで十五分を切っていた。


 まずい。バスが出てしまう。せっかく約束したのに、このままじゃあの子を独りきりにしてしまう。


 車も人もろくに通らない田舎の夜の下り坂を、全力で踏んで蹴飛ばす。肺が焼けそうに熱くて、風の音と混じったスーツケースの跳ねる音が急かすように五月蠅かった。


 坂が終わると、ぼんやり見えていたはずの駅が、いやに大きく目に飛びこんできた。普段なら、どうしてこの駅はこんなにちっぽけでみすぼらしいんだと思うのに、今は何故か頼もしさすら感じられた。


 もうすぐだ。もうすぐ。


 運よく信号が赤から青へ変わる。ここで事故ったりしたら目も当てられない。周囲の車が止まるの待って、俺は横断歩道へととび出した。


 みるみる近くなってくる駅。

 正面に弧を描くバスターミナル。

 スマホを見れば、残り八分。


 安堵のあまり姿勢が崩れて、スーツケースが手から離れた。


 ゴロゴロ、ゴロゴロ、ガタンッ!


 幸い、人にぶつかることはなかった。バスの前にできた短い列の中から、ちょっとした侮蔑の眼差しが飛んできたけれど。


「すみません、すみませんっ……」


 へこへこ頭を下げながら、俺は列の中にあの子の姿を探した。


 けれどどこにも、それらしき人影は見当たらない。


 もしかしたら、先に中へ入ったのかもしれない。「ちょっと遅くなる」とメッセージを入れた時には「分かった」と返信があった。きっと中だ。座席はちゃんと隣同士で取ってある。時間に間に合ったのだから、なにも問題はないはずだ。


 荷物を預けて、列の最後尾に加わる。汗ばむ手でスマホを覗きこんだ。


「おっと……!」


 そのとき不意に、強い衝撃に打たれた気がした。ふらついて横へ倒れてしまいそうになるのを、なんとか堪えた。長い間走って疲れた所為だろう。足許が覚束なかった。


 メッセージにあの子からの追加連絡はない。普通なら焦りそうなものだが、鷹揚というか暢気というか。そんなところも嫌いじゃなかった。


 列が前に進むたびに、昂揚してくるのが判る。あの子との初めての旅行だ。そりゃあウキウキもする。


 いよいよ自分の番がやってきてチケットを切って貰った時だった。手の中に握ったままのスマホからピロンと小さな通知音が鳴った。


「中ではマナーモードでお願いしますね」


 と、おじさんから釘を刺されて、俺は苦笑しながら設定を変更した。


 バスの中に入ると、むっとこもった熱気が押し寄せてくる。これも走ってきた所為だ。


 息が上がっているので、他の乗客から奇異な目で見られる。早く席に着いて息を整えたかった。


「お待たせ」


 やがて自分の席を見つけて、彼女の座っている隣へ腰を下ろした。

 彼女は「いらっしゃーい」なんて欠伸するみたいな調子だった。まったく暢気で可愛らしい奴だ。たぶん、そういうところに惚れたんだと思う。


 袖で汗を拭っていると、またピロンと通知音が鳴った。


「あれ?」


 ふうとひと心地つくつもりが、間抜けな声が出た。

 彼女は俺を一瞥しただけで、おもむろに瞼を下ろした。


 俺はスマホを見て、首を傾げた。

 さっき設定をいじったはずなのに、メッセージのチャット画面になっている。


 ピロン。


 メッセージが更新された。


 俺は隣の彼女を見た。もうすでに寝息をたて始めている。手にはスマホが握られているけれど、いじっている様子はなかった。


 そもそもなんで音が……?


 俺は改めてスマホの画面に視線を落とした。

 そこでようやく、とんだ思い違いをしていた事に気付いた。


「……え?」


 心臓がしゃっくりでもするみたいに、びくんと跳ね上がるのが分かった。頭からすーっと血の気が引いていったのはそのあとだった。

 

 メッセージを寄越してきたのは、目の前で眠る彼女なんかじゃなかった。


「ユヅル」とあった。


 見覚えのある名前だ。

 中学生の頃に仲良くなった女の子に違いない。学校でいじめられていた俺は、同じくいじめを受けていたユヅルと保健室で出会い、それから仲良くおしゃべりをするようになったのだ。


 だけど、最近は連絡なんてしていなかった。相手のIDなんて知らなかった。


 いや、待て。

 待てよ。


 そもそも――ユヅルは八年前に死んだはずじゃないか。


 俺は「ユヅル」の文字を何度も読み返した。俺の知っているユヅルじゃないと言い聞かせた。


 それなのに足許が小さく震えだす。喉の奥がひきつって、嗚咽のような声が漏れる。


 認めるな。そんなわけない。

 そう思うのに、戦慄は烈しくなっていく。


 ピロン。


 メッセージが更新される。

 俺はそれを、ようやく上から順に読み始め、あれほど荒くなっていた息を止めた。


『ナオヤくん!』

『来てくれた。やっと来てくれた』

『ああ、二人きりの冒険が始まる』

『ねぇ、どうしたの、ナオヤくん?」

『なにか言ってよ』

『ねぇってば』

『ねぇ。ねぇねぇねェ!』


 俺は怖くなってスマホから目を上げた。


 詰まっていた息を吐き出すと、途端に呼吸が荒くなった。走った所為だけじゃなかった。恐ろしくて堪らなかった。


 八年前、ユヅルが死ぬ前にした約束が思い出された。俺がそれを破ってしまったことも。


 バスがぐわんと前後に揺れて、ゆっくりと走り出す。呑み込んだ唾の音が五月蠅い。


 ピロン。

 音につられて、画面を見てしまう。


『ナオヤくん、その女の人だアれ?』


 咄嗟に眠った彼女を一瞥し、周囲を見渡した。けれど、どこにもユヅルらしき人影はない。人影があったところで、俺になにができるかも分からない。バスはもう出発してしまった。逃げ場なんてどこにもない。


 ゴトン。


 バスが小さく上下に揺れた。

 その衝撃で彼女の手から、スマホがこぼれ落ちた。


 すると、持ち主と一緒に眠っていたスマホが、不意に覚醒した。

 表示されたのは、例のメッセージ画面。

 そこにある名前は、


「ひっ……!」


 ユヅルだった。


 ピロン。


 誰が動かしたわけでもないのに、お互いのスマホに新しいメッセージが刻まれた。


『タノしみにしてタのにニ。ヒどイ』


 ぴちゃ。


 通知音はもういつの間にか止んでいた。

 代わりに水を弾くような音が鳴って、落ちたスマホのディスプレイに血の指紋がスタンプされた。


『マっテたのニ』


 ぴちゃ。吹き出しとともに指紋が増える。


『マッテたのニ』


 ぴちゃ、ぴちゃ、ぴちゃ。


『マッテたノニマッテたのニマッテタノに!』


 ぴちゃ、ぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃっ!


 あっという間に画面が血に塗り潰された。


「ああっ、あああぁっ! たすけ、たすけ――」


 悲鳴は中途で途切れてしまった。声が詰まって出てこなかった。震えて身体は動かなかった。



 プツッ。



 そんな俺の惨めな姿を見て、ユヅルは許してくれたんだろうか。満足したんだろうか。

 ひとりでにスマホの電源が落ちて、画面は真っ暗になっていた。


 俺は早鐘を打つ心臓を諌め、小さく息を吐いた。


 またあの画面が現れないとも限らない。

 俺は自分のスマホをポケットにしまおうとして、


「あ、あっ……」


 手も息も止めていた。


 見てしまったからだ。

 そこに映った俺を。恐怖に顔を歪ませる俺を。



 その隣で、表情なくこちらを見つめる少女の顔を。



「マッテタノニ」



 声が耳もとで聞こえた。

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