とある夜に
笹野にゃん吉
待ち人〈前篇〉
バスターミナルのベンチに腰を下ろすと、しんとした冷たさがお尻に沁みた。私の身体は大袈裟にぶるぶるっと震える。ちょっと恥ずかしい。
見られてやいないかと辺りを見渡せば、ターミナルの光を受けて、スーツケース片手に佇むカップルが何組もぼんやりと浮かび上がって見えた。それぞれ二人だけの秘密を語り合うみたいに、頬を寄せ合いながら囁いて、時々くすくすと笑う。
私は空白のベンチに視線を滑らせて、誰にも聞こえないように溜め息を吐いた。それが大きな白い塊になって、鼻先をかすめる。
また恥ずかしくなって俯くと、独りぼっちの自分を認めたみたいで、胸の奥がきゅっと痛くなった。
……大丈夫、ナオヤくんはきっと来る。
約束したんだ。
こんなちっぽけで窮屈な街を抜け出して、東京へ行こうって。
私たちは東京行きの夜行バスのチケットも買って、今日を迎えた。
家族の目を盗んで、中学生の男女二人きり。冒険へ出るんだ。
ここからずっと東へ行った東京には、きっと私たちを知る人なんて誰もいない。給食を牛乳まみれにしたり、机に罵詈雑言を書き連ねたり、教科書をびりびりに破ってロッカーに詰めこんだりする人なんかきっといない。
そんな夢のような世界を、ナオヤくんと共有できる。同じ痛みを抱えて、たまたま保健室で出会った私たちは、もっと沢山の、もっとハッピーなものを共有する。
――はずだったのに。
アナウンスが聞こえてきて、ロータリーにのろのろとやって来るバス。
プスー、と間抜けな音をたてて目の前で停まる。「ああ、来たきた」と誰かが安堵の声を漏らすのが、やけに恨めしかった。
腕時計に視線を落とす。
もしかしたらこれは、一つ早いバスかもしれないと思ったから。
だけど、時計とチケットを比べてみればすぐに判る。これが私たちの乗るバスだってことくらい。
リュックの紐を握りしめて、小さく首を振る。
まだ十分ある。バスが出るまでまだ十分。大丈夫。
きつく目をつむる。大丈夫と何度も言い聞かせる。
この目を開けたら、ナオヤくんが息を切らしてやって来るんだ。そして私たちは、いよいよバスに乗りこんで、大胆な家出をしてやるんだ。弱虫だと思われていた私たちが勇気を振り絞った様を、あの子たちに見せつけてやる。私たちに手を差し伸べてくれなかった大人たちを困らせてやる。
色んな思いが綯い交ぜになって、冬の風がひゅるりとこめかみを撫でると、クラクラした。ずっと目をつむっていたら、このまま気を失ってしまう気がして怖かった。
お願い、ナオヤくん。来て。
バスへ近づく人たちのスーツケースの音。
コロコロ。コロコロ。
その中にナオヤくんのものが混じっていないか耳をそばだて、恐るおそる瞼を持ち上げた。
だけど、ベンチは空白のまま。傍らに立つ人影も見当たらない。それを埋めてゆくのは、私の身体まで透かして吹き抜けてゆく冷たい風ばかり。
コロコロ。コロコロ。
バスの横で、チケットをさばくおじさん。その流れを待つ列の中に、ナオヤくんの姿を探すけれど――。
ああ……。
やっぱり、いない。
冬の空から鉛の玉が落ちてきて、私の胸の奥でどすんと音をたてたような気がした。肺が冷たいものでいっぱいになって、息ができなくなる。目尻に熱いものが湧いた。
悲しくなんてないもん。きっと、かじかんだ手が痛い所為。
ナオヤくん……。
ベンチから立ち上がれないまま、薄らと雪を積もらせた地面に目を落とした、その時だった。
ゴロゴロ、ゴロゴロ、ガタンッ!
雷のような激しい音が鳴って、私は思わず顔を上げていた。
「すみません、すみませんっ……」
愕然とした。
へこへこと頭を下げるその人に見覚えがあったから。
「ナオヤくん!」
来てくれた。やっと来てくれた。
派手にスーツケースを倒したナオヤくんのもとへ、私は駆け寄っていく。
ああ、二人きりの冒険が始まる。
昂揚と歓喜を胸に、私はナオヤくんへと抱きついた。
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