009. かけら

 昨日、私の名前を呼んだ。

 今日、私の顔を見て微笑んだ。

 明日、あなたは何を忘れているだろう。



 うららかな春の光を浴びて、淡い青空の下に枝をのべ咲き誇る花の名前をあなたは、一番最初に失くした。

 それは私たちが初めて出会い、いつも待ち合わせ場所にしていた思い出の桜だった。


 ある程度は、あらかじめ分かっていたことだった。いま、この病にかかる人はとても多くなっている。

 ある日、記憶が砕けはじめて、少しずつそれが頭の中から失われてしまう。


 カーダール症候群。

 カーダール型健忘症。

 俗に、歯抜け型記憶喪失とも言われる。

 近年になって発見されるようになった病気で、たしか昨年度のデータでは、日本人では20代のなんと6%が発症すると推定されている。発症率は加齢に従い上昇する。そしてどの年代の発症率も、年々増加していた。


 この病気では、記憶のみが僅かずつ抜け落ちていくが、記銘力や見当識の目立った低下はなく、身体的な能力にもあまり影響がないためもあり、それ単体での致死率は低い。


 桜という、私たち二人の人生にとってあまりにも重要な花の名を思い出せなくなった様子を見て、私は彼を無理矢理病院に連れていき、悪い予感は当たってカーダールの診断が降りた。

 この病気にはマーカーがある。専用の問診と血液検査、頭の画像診断で、診断は比較的短時間に行える。

 他の『治せる』病気はすべて除外された。

 除外されてしまった。


 私の愛する人は、20代にして明白に過去を失いはじめた。


 私は彼のために、手当たり次第本を読み、教科書を読み、苦手な英語で論文を読んだ。

 患者の会や、家族の会にも参加した。

 性格のマイルドな何人かとは親しい友人にもなった。



 出先の田舎町で奥村さんとばったり再会したのは、彼の発症から10年ほどした頃だった。


 私が家族の会に参加しはじめた頃に付き合いのあった人だ。新入りの私にとてもよくしてもらったが、患者であるご家族が併発した病気がよくないとかで、ある時から姿を見せなくなった。


 久し振りに会う奥村さんはすっかり白髪になっており、記憶していたより小さく細くなっていた。

 聞けば、看病していたご家族はあのあとすぐに併発のほうの病気で亡くなり、今は奥村さん自身がカーダール症候群と診断されて8年になるという。


 結局あたしはあの人の気持ち本当には分かっていなかったんだわ、どういう不安、恐怖、どういう焦りでいっぱいになる毎日だったか、気がついてなかったわ、と奥村さんは微笑んだ。

 そっちはどうなの、と問われて私は、まあ予定通りと言うか、と下手くそな答え方をした。


 昨日は私の名前を呼びました。8回忘れたんですけどね。そのたび覚え直して。で、今朝はまた忘れてた。

 でも、私の顔を見て微笑んでくれました。顔は多分まだ、いちども忘れずに覚えてると思う。

 だけど彼はもう、自分の名前を14回忘れてるし、双子の弟の顔が分からなくなったし、成人する前の学校でのことなんかは殆ど思い出せなくなったみたいです。

 信号についての知識がスポッと抜けるみたいなこともあって、軽いですけど交通事故で怪我したりもあったので、まあ気は抜けないですね。

 言葉とかは新しく覚え直す努力をしていて少しは成功するんですけど、忘れるスピードと追いかけっこなので、なかなか。


 奥村さんは私の話を聞きながらにこにこしてうなずいていた。そうだね、そうだね、と小声で言いながら。


 私たちは近況を報告し合いながら、人気のない港をゆっくり歩く。

 高い声で海の鳥が鳴いていた。


 人のいない漁船の揺れる横を通り過ぎながら、奥村さんはゆっくり話した。



 ねえあなた信じないでしょうけどね、ちょっと聞いてほしいの。あたしの主治医も信じないんだけど。


 うちの人が死んで、しばらくしてあたし、夢を見たのよ。


 うちの人が、生涯まともに持って歩いたためしのないきれいな白いハンカチを片手に広げて、もう片方の手にピンセットっていうの? あれを持ってね、家の中とか、庭とか、うろうろしているの。


 何してんのよ、って聞いたら、あの人ね。

 お前の記憶を拾ってるんだよ、って言うわけよ。


 春一番に咲く大好きな花の名前、落としただろう、これは福寿草だよ、って言いながらハンカチの上の何かピンセットでつまんで見せてくるのよ。

 見たらそれが、黄色のような光の、何かの破片なの。

 それからこれが眼鏡という名前、これは孫の周哉の名前、これは友達の春香さんの顔、これは水という名前、これは、これは、って次々別の破片を持ち上げて見せてくる。


 何それ、私忘れてないよ、って言ったらね。

 これから忘れるんだよ、でも大丈夫だぞ、夢には時間がないからな、おれがこれから全部拾っといてやるから、安心して落として、安心して死になよ、って言うの。


 嫌でしょう、安心して死になよなんて言われてもねえ。

 気持ち悪いこと言わないでよどうしたのあんた、って聞いたらね。


 あの人、滅多にしないようなニコニコ顔でね。

 俺のは、お前がちゃんと拾っといてくれたろ。だから俺もう全部思い出せるんだよ。ありがとうな。今度は俺が同じことをする。お前が死んでこっちに来たら、お前が失くしたものを全部戻してやるからな。だから安心して落としとけ、忘れたって心配ないよ。

 ……なんて言うの。


 何でだか分からないけどあたし、それで、夢の中でわんわん泣いてしまってね。あんな泣き方したの、母親が死んだとき以来よ。


 それで自分が持ってたハンカチで涙を拭いて気がついたの。


 逆の手に、あたしもピンセットを持ってたのよ。


 夢はそれでおしまい。泣きながら目を覚ました。

 あんまりはっきりした夢だったからこれは日記帳に全部書いといたの。


 それから半年くらいした頃だわ。あたしね。

 この世の花の中で一番好きな、福寿草の名前を忘れたの。

 これは来たと思ってすぐ診断を受けに行ったら案の定カーダールだったのね。

 あ、福寿草の名前はそれから改めて覚えたの、都合3回忘れて3回覚え直した。でもねえ、元々覚えてた時と同じ言葉とは感じられないとこがちょっと辛かったよねえ。


 その後も、あの人が夢の中で言ってた通りの記憶を少しずつなくした。

 日記帳に書いといてよかったのよ。読んで確かめれば少しは覚え直せたからね。ただ、夢で言ってた分はほんとに少しだけだったから、それじゃすぐ追っつかなくなったけど。


 あたしねえ、あの人が言ったことは本当なんじゃないかと思うの。

 というのはね。


 あたし、そのあと何年かして、一度死んだのよ。


 まあ、ほら、年でしょう。うちの人がそうだったようにあたしにも別の持病があって。

 急に発作が来て、パタンと倒れてそれっきり意識なくてね。

 病院に運ばれて一度は心臓も呼吸も止まってご臨終って言われたんだって。娘曰くね。


 そのあと息を吹き返して、生還したわけ。


 そしたらさ。

 記憶が全部戻ってたのよ。


 あたし、カーダール寛解なの。

 すごく珍しいんだって。主治医が症例報告とかいうやつを書いたって言ってた。

 生き返ったあとの診察で、夢の話をしたんだけど、信じてもらってはないねえ、あれは。


 でもね。あたし見たんだよ。

 数分間死んでる間、あの人の夢を見た。

 白いハンカチの上に、両手いっぱい何かの破片を持ってこっちに差し出して、ほら全部取ってあるぞ、もう大丈夫だからな、って言った。

 ありがとう、ありがとう、って夢の中でまた泣いていたら、生き返ったの。

 そしたらもう、何でも思い出せるわけ。忘れて覚え直したから違和感あった言葉も、元の感じで思い出せるようになってた。


 だからねえ。

 失う訳じゃないんだわ。

 一旦、ちょっと遠いとこに、置いてあるだけなんだね。

 大切な誰かがそれを大事に持っててくれる。

 だから、落として落としてたくさん分からなくなっても怖くないんだなって、思ったのよ。




 奥村さんと別れて、無人駅から列車に乗った。

 日が落ちて、夜の入り口は空も海も静かに深く青かった。

 先に逝った愛する人が、失くした記憶をあつめて持っていてくれる、のだろうか。

 奥村さんの話が、もし、本当なら。


 本当であってほしいと思った。

 死を通過したあとの、時間のない夢の中で、すべてを取り戻せるなら。

 私が拾い集めた彼の記憶の破片を、彼が取り戻せるなら。


 列車に揺られて少しうたた寝した。


 それで、彼の夢を見た。



 彼は、私のお気に入りの白いレースのハンカチを片手に広げて、もう片方の手に持ったピンセットでつまんだ何かをそっと置くところだった。


 その光景だけで、全てを察した。

 頬を涙が伝うのを感じた。


 ああ、そうなんだ。そうだったんだ。


 彼が私を見る。

 私の名前を呼ぶ。

 元通りの口調で。

 元通りの温度で。


 私はハンカチとピンセットを両手に持ったまま、彼に返事をした。


 ほんとは気がついてたの。

 私は、これから忘れていくんだね。


 そうだよと彼が言う。


 私の記憶、あなたが取っといてくれるんでしょ。


 そうだよとまた彼が言う。


 私はぼろぼろ泣きながら笑って言った。


「私を待っててくれるんだよね」


「当たり前だろ。安心してよ、君のかけらは全部、拾ってあつめておくからね」



 目が覚めると、私は夢の内容を全て紙に書きつけ、次に彼と同じ病院に初診の予約を取った。

 それから、同じような夢を見たということを、さっき別れた人に、


 さっき別れた人に。


 名前が、思い出せない。


 連絡したいのに。

 思い出せない。


 連絡先を交換したっけ?

 スマホや手帳の電話帳を見たが、どの人だったか思い出せない。


 私は。


 ……もう。



 始まっているのだ、と思った。


 私のかけらを、失う旅が。


 そして、


 取り戻すまでの旅が。



 たくさんの私のかけらを、彼から受け取るその日まで。



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