007. 石
およそ本に挟まっている物体としては予想し得ないものであった。
それが音を立ててテーブルの上に転げ出たときには、あぁ?と低い声が出てしまった。
ちょうど通り過ぎるところだったウェイターが振り返る。恥ずかしい。今日はネイルもしたばっかりで、私にしてはお洒落して(それもクール系の)、コーヒーはブラックで、元パラの古い文庫本を取り出して、私にしては、私にしては、キマっていたのに。
それなのに、おっさんみたいなドス声で、あぁ?って。
お育ちは隠せませんわ。ハハッ。
どうでもいいけど何だよ今コトンつって落ちたの。
私としては、久し振りに芝居を観に行くから事前に原作が読みたかっただけだ。
新刊書店より某チェーン古本屋の方が寄りやすかったので寄り、探したらこの見たこともないくらい古い文庫しかなかった。古かろうが別に読めればいいし構わん構わん、と買ってきて、いま開いたら読めなかったので硬直していたところだ。
そうだね、旧仮名遣いとかいうやつだね。私、平成ベビーだし現行の仮名遣いじゃないとスムーズに読めないな。
……と思っていたら、それが転げ出た。
ちょっと嘘でしょと思ったし、指でつまんで持ち上げてみても印象は変わらない。
開いていたページを見直してみるが、こんなものが挟まっていたような痕もなにもない。
というか、これが挟まっていて閉じられるような本ではない。だって、うっすい文庫本だぞ。
なんというか、現実として、承服しかねる。
石である。
無理やり直径をいうなら3cmくらいの。灰色の。小さいがゴツゴツの。
石。
えぇ?
いやいやいやいや。おかしいでしょ。
本から。本から出てくるやつじゃないって、マジで。
では、本から出てきた、という筋を排除すると?
天井から落ちてきた? ……いや、それなら視界に入らなかったのはおかしい。落ち方ももっと激しくなるのでは?
元々テーブルの上にあった? ……いや、なかった。ありません。私がこの席に掛けるとき、テーブルにはまだ前の客の食器があって、ウェイターさんが片付けてくれたのだ。テーブルの全面が拭かれるのを私は見た。石なんかなかった。
じゃあ、幻?
作法として自分の正気を疑う段階まできたところで、
本が、
石を、
食べた。
今度は声も出せなかった。
左手に持っていた石に向かって、右手に持っていた本が吸い寄せられるように動き、ページとページの間に石が消えた。
――受診すべきか。
芝居など見呆けてる場合ではなく真剣に速やかにしかるべき医療機関を訪れるべきなのではないか。
私は一体どうし
『見ちゃった?』
喋った。
誰がだ。
ふざけんじゃねえ。
誰が。
『見ちゃったよねえ。すいませんけど、内緒にしといてもらえます? これバレると、私、また怒られるんで』
「誰に」
いやそうじゃない、自分、反応すべきはそれじゃない。バカか。ダメだろうに。狂人の真似とて走らば狂人なり。記憶は適当。とにかく乗っていくんじゃない、この状況に。
しかしやはり本は喋った。
『世界の境を守る警備人にも上司というものがいましてね。イギリス文学担当はまあ厳格なんすよ。私こないだもこの城の石こぼしちゃいまして、いやほんと崩れまくってるから落ちやすいんですよね、参っちゃう』
掃除機に吸われるみたいに無理やりな速度で頭から血の気が引いていくのが分かった。
ぱん、と音を立てて文庫を閉じ、素早くバッグに差し込み、伝票を掴んで席を立ち、早足でレジに行き一言も発さずカード払いで会計をして、真っ直ぐ店を出た。
駐車場を一直線に横切る。ポケットのキーを取り出して車のロックを外し、運転席に乗り込むと、全てのドアのロックを掛ける。バッグを助手席へ。キーをさしてイグニッションへ、
いや、待て。
私が本格的に狂ってきてるのなら、このまま運転して本当に大丈夫なのか。
『びっくりするのはわかるけどさ』
「ぎゃあ!」
今度こそ色気も何もない声が出てしまった。
恐る恐るバッグの方を見る。ほんのわずかはみ出して見える文庫本の背表紙。
『悪いようにはしないんで、さっきみたいに本を持って、好きなところを開いてもらえます? とくに危険はないです。ほんとほんと。さあ、早く』
おしまいだ。私はどうかしてしまったのだ。こんなはっきりした幻聴。
……幻聴?
本当に?
さっきの石は本当に、幻だったか?
震える手でバッグから文庫本を抜き取った。
元パラがかさりと微かな音をたてる。
本の天、背表紙のところに、スピンのすり切れて取れた跡があった。
ただの本だ。そのはずじゃないか。
ただの、100円ワゴンで拾った、古本じゃないか。
そして私は、その本を開いた。
あれから三年。私のバッグの中には今もあの古い文庫本がある。
私は行く先々で石や花やこまごまとしたものを拾っては本に食べさせ続けている。どれが落とし物なのか、見えるようになってしまった。
本は、世界の境界をこえて、ものを溢すことがある。
古いお城の石垣の欠片。
戸棚に仕舞われていたはずの銀のスプーン。
あの子がくれた野の花の一輪。
砂浜で主人公に拾われるのを待つ貝殻。
境界の警備人たちも万能ではなく、本のページを通して隣り合う世界にどうしても溢れ落ちてしまうそれらを、その世界の人間を相棒として拾うのが任務となっている。
次の探し物は、淡いラベンダー色の糸を通した針だとか。
勘弁してよと私は言った。
「あんたさあ見えてるかどうか知らないけどここ雪国なのよ。いま冬よ。針一本落ちてたってそんなもん分かるかよ!」
『外に落ちたとは限らないでしょ。あなたのお部屋の中とかさ』
「汚部屋だよ。うっさいな!」
『何も言ってませんよ……』
ああ、やかましい。いつまでこんな生活が続くんだろう。
いっそ私も、ページの向こうの世界に落ちてしまいたい。
……やってみるか?
『ちょっと、なんか変なこと考えてるでしょ』
本があからさまに怪訝そうな声を出す。
そのとき、視界の隅にふわりときれいな光を感じた。
銀色のちいさな。
薄いラベンダー色の。
そうして、警備人と私の落とし物探しは、続いていく。
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