006. 無数
この世で最も恐ろしい破滅の魔法、決して使ってはいけない魔法。
それは、魔導師のなかでも最も力の大きなものにしか唱えることのできない、十七行の呪文によってもたらされる。
「おまえがその魔法を知るためにここまでやってきたことは、分かっておる」
老師は長い杖を本棚に立て掛けると、本棚ではなくその脇の壁に掛けられた楕円形の鏡に手をかざした。
鏡と手の間に青白く光る文字が浮かび上がる。古い魔術文字だ。大昔につくられた結界にはよくこうした文字が使われる。今では時代遅れで、おれたちは主に紋様の組み合わせを使う。
鏡が魔術文字の放つ光を反射して眩しい。
老師の低い呪文詠唱の声が止むと光は消え、鏡を中心とした空間がまるで水面のように同心円状に波打った。
その波打つ場所から。
老師は、短剣を取り出していた。
「わしは、おまえに世界を滅ぼす力を授ける気はない。これまで知らずに来たのであろうが、『この呪文』を唱えるには、旧世界から来てこの世界を創った最初の魔導師の『紋章』を譲り渡された者でなければならぬ」
「いまは老師がお持ちなのですか?」
「誰が持っているかは秘される決まりじゃ。わしが持っているかも知れぬ、持ってはいないかも知れぬ。それゆえ、いつの間にか継承者は絶えているやも知れぬ。ひょっとすると『この呪文』を唱えられる者は既に一人として存在していないかも知れんのう。わしにもそれを知る術はない」
短剣を手にこちらを向いた老師は、思いのほかあっさりとそれを手渡してきた。
恐れる理由も断る理由もないので受け取り、角度を変えながら全体を観察する。
刃はなまくらだ。押しても叩いても斬れそうにない。
そんなことより、刀身に魔術文字が刻んであった。
思わず身構える。手に取り触れたことによって発動する魔法というものも、無いわけではないからだ。主に暗殺などを目的とする罠の魔法。
禁忌とされる破滅の魔法を手に入れるために危ない橋を渡って身分を偽ることまでして魔法院に潜り込み、物陰を選んで動き回るねずみのようにそこらじゅうを漁り回ってきたことは、老師にはとうにばれている。そしてそういう輩は少なくない。
ある者は魔法薬を、ある者はめずらしい高価な石を、ある者は魔法院に出入りする高官の命を、そしておれのような者は破滅の魔法を求めて入り込む。
そして彼らのほとんどは、この老師をはじめとした幹部連中に静かに消されていくのだ。
だから。
自分も消されるのかと。
普段なら渡されるモノには十分警戒するのに、つい先に手が出てしまったのはあらかじめ老師がこちらの注意力を惑わす魔法をかけていたのかと、瞬間、疑念が起こった。
身構えるな、何も仕込んではおらん、と老師は変わらぬ口調で言った。
「それは幻よ。本物はいずこかに眠っておる。そもそも、『紋章』を持つ者にしか引き出せぬ。これはな、魔法院のこの書庫が、文献として持つための幻だ」
嘘かまことか。手のなかの短剣は、形なりの重みを持つ。しかしこれも魔法による幻覚ということのようだった。
「刀身の文字を、口に出して読むでないぞ。と言っても、『紋章』がなければ読めぬがな。途中で舌から焼けて死ぬ」
「黙読はしてしまいましたが」
「それは構わん、口にさえ出さなければ。……で、おまえは、それをどう思う?」
「そうですね、これが究極の破滅魔法だとはとても思えませんが。子供のいたずらみたいな文言だ。これを十七回言うと本当に世界が滅びるのですか?」
分からぬか、と老師は言った。
分からない。いかにもありそうな言葉だ。比較的初級の印象すらある。
「この書式なら、呪文の言葉通りの現象が起こる魔法ですよね?」
「そのとおり。だからこそこの呪文で、世界は破壊される」
分からない。何故これが。
「分からぬか」
老師はうなずいた。微笑んだようだった。
馬鹿にしているのではなく、安心したような笑みだったのを、今でも覚えている。
それから百年近くが経ち、おれ自身が老師と呼ばれるようになった頃、おれは『紋章』の継承者が絶えてはいないという事実を知ることになった。
額に紋章を輝かせて短剣を手にしていたのは、あまりにも凡庸そうな青年。
青年は、学友と時間潰しの駄話をするかのようなやわらかい気安さで言った。
「これを十七回言うと本当に世界が滅びるのかな」
分からんか、とおれは言った。
「わかんない。この書式なら、呪文の言葉通りの現象が起こる魔法なんだよね?」
そのとおり。だからこそこの呪文で、世界は破壊される。
「わかんね。何でこれが」
「分からんか」
あのときの老師と違って、おれは安心できなかった。
あのときのおれは紋章を持たず呪文の詠唱ができなかった。意味も分からなかったし世界を滅ぼす恐れはなかった。
だが今、この青年は、紋章を持っている。
わからないからやってみよう、という選択肢を気軽にとる可能性がある。
「だってなんか、こんなの、魔法習い始めの頃にやりそうなやつじゃん。『牛の頭ほどの石が無数に降る』。こんだけだよ。意味が分かんなくて。それであんたに聞きに来たんだよね」
声に出して言いやがった。
だが十七回唱えなければ魔法は発動しない。
「おれも若い頃は分からなかった。だがその簡単な言葉が破滅的なのだ」
「何で? もっと大きい石を出す魔法だってあるだろ」
「大きさは問題じゃない」
この話をするのは亡き老師とのあのとき以来だ。心なしか足が震える。
青年は、じゃあなんなの、と言いながらこっちを見ている。おれは小さくため息をついた。耳鳴りがする。年は取りたくないものだ。
だがこいつに、意味を知らせねば。
止めなければ。
「いいか、この『無数』という言葉を使った呪文は、他にないんだ」
「は」
「ない」
「あるよ。『無数の花』を含む呪文とかいっぱいあるだろ」
「ああ。だが発音が違う」
あの日、老師が微笑んだまま、教えてくれたこと。
おまえは真に邪悪な者ではない、つまらない考えを捨ててその魔法の才を伸ばし、人を救い人を育てて欲しい、という話をし始める前に。
「……全ての魔導師は、生涯で一番最初に魔法を使うとき、即ち他の魔導師から血を受けるとき、その血によってひとつの呪いを受けている。それ以降、『無数』という言葉を、本当は発音していない。ただ発音しているかのように本人にも周囲にも感じられる、そうした呪いだ。大規模なもので贄も要る。しかしそれはこの世界に存在するたくさんの魔導師ひとりひとりが負担を分け持つことで成り立ってきた。ただし、『紋章』をもつ魔導師は、その破滅の魔法に限り、『無数』を発音できる」
青年は、まだぴんときていないようだった。
この青年はどういった身の上の魔導師なのだろう。おれのいる魔法院では見掛けなかった顔だ。
「無数ってどういうことか分かるか」
「すごくたくさんの数」
「不正確だ。無数とは、無限の数だ。無限だ。無限に石が降り注ぐ。無限にだ」
青年がはっとした気配。
おれは、彼の方に一歩進み出た。
「もとが無限の数だから、減らす魔法をあとからかけても、弱めることさえできない。止めることはできない。いいか、だからそれを絶対に使うな。さっきみたいに読み上げるのもやめろ。十七回言ったらおしまいだ。永遠に石が降り続けて全てが崩壊し世界は終わる」
青年はあらぬ方を見たまま両手の指を順番に追っている。
なんだ、何をしている。
何を――数えている。
耳鳴りがする。遠くから、轟くように。
「おい?」
青年は、ゆっくりとこちらを見た。
目を見開いて。
驚愕の表情で。
「あのさ――おれ、意味がわかんなかったから、偉い魔導師に色々聞いて回って、それからここにきたの。それが」
「おい」
まさか。
「あんたの前に、たぶん、十六人」
「毎回、その、呪文を」
「言った。ひとりにつき、いちどは」
耳鳴りがする。
耳鳴りではなく。
この、
この若造。
天が不意に陰る。
音が、轟いて。
「クソガキが……!」
「ごめ、」
世界は破壊された。
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