005. 迷
飛ぼうか潜ろうか。
飛ぼうか潜ろうか。
飛ぼうか、それとも、潜ろうか。
そうは言っても、選択肢はないようなものだった。最初からこうする予定で計画を立てていた。土壇場の変更はあまり望ましくはないだろう。準備したものも大幅に無駄になってしまう。
それにもうボーディングブリッジを渡るだけ。
刑事ドラマだったら、サングラスをかけキャリーケースを引いて歩く私を刑事が呼び止めて謎解きを仕上げ、私が認めてゲーム終了だ。しかし、結局誰も来なかった。
そらそうよ、と私はスマホを触りながら心のなかで呟く。だって、誰も死んでないし怪我もしてないし詐欺に遭ってもいないもの。
刑事犯罪は起こっていない。公権力が私を追ってくるはずがない。
ただ、4LDKサイズの地獄みたいなものを、置き去りにしてきただけ。
プライドばかり高くてだらしない父親と、うまくいかないことを全て無理やり子供のせいにする母親と、スポイルされて部屋から出てこない暴君の妹を、ドアも壁もボコボコで上下左右のお宅から騒音苦情が絶えないマンションに置いてきただけ。
文句を言われる筋合いはない。私は成人だ。両親の保護下にはない。どこに引っ越そうが私の自由だ。両親と妹がそれを否定しようとも。
暴れているんだろうなあ、とスマホを見ながら思った。家族に番号を知られている方の端末にはひっきりなしに通話やメールの着信がある。
電話に出ろ、LINE返せ、買い物してこい、クレカを渡せ、どこにいるか答えろ、場所と時間のわかる写真を撮って送れ、会社に電話するからな、すぐ帰ってきて謝れ、晩飯を作れ、無視か、生意気な真似してどうなるか分かってるのか、会社辞めたって言われたけど嘘をつかせてるのか、お前のボーナスで買うものがあるから早く来い、私を怒らせるな、早くしなさい、早くどこにいるか返事しなさい、早く戻って謝りなさい。
うるせえ。
搭乗開始を知らせるアナウンスが流れた。確保した座席番号は最初に搭乗口に呼ばれる列のアルファベットが振ってあった。
ここで。
無視するか、応えるか。
無視するか、応えるか。
着信すべてこのまま永遠に無視するか、いまひとつだけ応えるか。
スマホを持つ手が強張った。
長年恐れてきた。
けれどももうこの足は、当分この国の土を踏むことはない。
もう追い付かれることはない。
ぶん殴ってやりたい、言葉ででもいいから、きっと言葉の意味は届かないのだろうから、それでも私が言葉で対抗するということ自体に激昂させ、私があいつらに服従などしておらず対等以上の位置にいることを気付かせて、愕然とさせたい。
私を失うことを恐怖させたい。
哀願に転じかける顔面を12センチヒールで勢いよく踏みつけたい。
無視するか、応えるか。
アナウンスが続いている。
スマホの画面には着信通知がどんどん流れていく。
私は。
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