【お絹という女】

「てやんでいばあろうちくしょおめい!」


 あたしはありったけの力を込めて怒鳴ってやった。


「何でお前さんはいっつもそうなんでい! あたしが左と言ったら右、右と言ったら左を向きやがる! 天の邪鬼ってえ言葉があるが、お前さんにはそれがぴったしカンカンお似合いだよ! 何時からそんなに聞き分けのねえ男になっちまいやがったんでい!」


 事の起こりは今日の昼時分。幼馴染みの男、浜野彫吉はまのちょうきちがあたしの家にふらっとやって来たことから始まった。

 この男、お国でも有名な腰元彫りの名人を師匠に持つ見習いの彫り師で、筋が良いと師匠から何かと目をかけてもらっているという恵まれた才の持ち主だ。

 風に聞く噂では、やれ彫吉の彫った兎が小柄こづかから飛び出して逃げちまったとか、やれ番頭台の金具に彫った猫は手招きして客を呼ぶだとか、やってもいない仕事を噂されちまうくらいの腕前になっている。

 流石は名人のお弟子になる奴だよと、幼馴染みのあたしとしては褒めてやりたいし自慢の一つもしたいところだけれど、この彫吉という男、何だか分からねえが、人当たりは良いくせにあたしにだけ何かと突っ掛かってきやがる。

 あたしもこんな性格なもんだから突っ掛かって来られたらついつい言いたくもないこと言っちまってその度に大喧嘩だ。

 町内を走り回って彫吉を追い掛けるあたしの姿はもう町の風物詩だなあなんて、ご隠居や大工の棟梁にもからかわれちまっていけねえ。

 こんなんじゃ嫁の貰い手が何時まで経っても見付からねえ訳だよ。

 おとっつぁんもおっかさんも、こんな男勝りなあたしの手綱を引くことはとうの昔に諦めちまったようで、『少しは名前の様におしとやかにしなさい』だとか『女なのだから男の人を立てなさい』だとか言わなくなった(よく知りもしねぇ男を立てるだなんて器用なことはあたしには出来やしないが)

 まあその内良い男がひょろっと現れてがばぁーっとあたしの心を掴んでばぁーっとどっか行っちまうんじゃねえかと思っちゃあいるんだが。

……いや、考えてみたけれどそんな盗人ぬすっとみたいな男にあたしが惚れる訳がないね。そんなことなら彫吉に惚れたほうがなんぼかましってもんだよ。

 おっと、話がそれちまった。いけねえいけねえ。


 そんな彫吉が昼間っからあたしの家に上がり込んで来て、お絹さんを嫁に貰いたいなんて冗談抜かしやがるから、此度の喧嘩になっちまっている。

 寝言は寝て言えってんだ!


(次話へ続く)

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