第1話
「お兄さま、起きて下さい」
穏やかな声音で呼びかけられ、ヴァレリは薄く目を開けた。
見慣れた木の天井。自然と木目模様を目で辿っていると、それを阻むように、色素の薄い金髪を揺らしながら、ルネッタが顔を覗かせた。
「もう日が昇りますよ。お父上は既に外にいらっしゃいます」
呼び声は、彼女のものだったようだ。
大きく腕を伸ばしながらあくびをこぼし、ヴァレリは寝間着を脱ぎ始めた。
下着一枚になった彼の側へ、ルネッタが着替えの服を置く。
用意された洋服に袖を通していると、櫛を手にしたルネッタが、顔をほころばせながら言った。
「本日は待ちに待った竜神祭ですね。今年こそ、国の外からもお客様がいらっしゃると嬉しいですが」
「来ないよ。この国は、お前たちを守るために外交を絶っているんだ。祭りだからって、余所者を入れるような馬鹿な真似はしないよ」
「でも・・・・・・わたくしは外の方とお話ししてみたいです」
寂しそうに肩を落とすルネッタ。
ヴァレリは深々とため息をつき、彼女の頭を乱雑に撫でた。
彼自身、外の世界に関心がない訳ではない。
むしろ逆だ。
古から続くしきたりなどかなぐり捨て、何のしがらみもない、見知らぬ土地へ飛び出していきたいという欲はある。
だが、自分の願いとは反し、彼は様々なものにからめ取られていた。
「お前たちのためなんだ。我慢してくれ」
「は、はい。大丈夫です。わたくしには、お兄さまがいらっしゃいますから」
「ーーその、お兄さまって呼び方、いい加減やめてくれないか?」
「なぜですか?」
「俺の妹は、五年前に死んだ」
自分がふがいないばかりに。
そう己を責め続けて五年。もう五年も経った。
長いようで短い年数。ヴァレリの脳裏には、未だ血塗れの妹の姿が、はっきりと焼き付いていた。
ルネッタが「お兄さま」と呼ぶ度、ヴァレリには妹の声と彼女の声が重なって聞こえた。
「お前は俺の
「でも、ルネッタにとってお兄さまはお兄さまなのです! いくらご主人様のご命令でも、これだけは譲れません!」
「・・・・・・勝手にしろ」
「あっ、お待ち下さい、お兄さま! まだ御髪が・・・・・・!」
ヴァレリは使い込んだ剣を腰に帯びると、父がいるであろう玄関へ向かった。
まだ日は完全に昇っておらず、室内は薄暗い。
寒々しい雰囲気がするのは、暗い部屋のせいなのか、人がいないせいなのか。
どちらでもいいことだと頭を振り、ヴァレリは玄関の戸を開けた。
扉の外には、どこまでも続く青空と雲海の上に築かれた、この国の中央街があった。
舗装された土の道以外は草が生え、至る所に樹木が好き放題枝を伸ばしている。
からぶき屋根の一軒家が規則性なく立ち並び、家畜小屋には豚や鶏の他に、強靱な翼を持った、大小様々な竜が飼われていた。
見慣れきった景色の中に、父が数人の護衛と共に出発の準備をしていた。
「おはようございます、父さん」
「・・・・・・おはよう」
真っ白な祭事用の服を身にまとった父アルマンは、短く返答をすると、国の最奥にそびえる霊山に視線を向けた。
「今年も、神竜様の御霊は私一人でお迎えに行く。お前は留守番をしていなさい。いいね?」
「はい、お気をつけて」
心から、父を気遣っての言葉だった。
だが、アルマンは不機嫌そうに口を歪め、息子を冷徹な目で見下ろした。
「恥ずかしいとは思わないのか?」
「・・・・・・と、いいますと?」
「神竜様にお仕えする家の長男が、十八になっても御霊迎えに同行させてもらえない事が、恥ずかしくないのかと聞いている」
御霊迎えとは、この小国リフロディアで毎年行われている、神竜祭当日に行われる儀式の一つだ。
六つの浮遊大陸が連なって形成されたこの世界ーーセルバスティオンを創造した光竜の分身が一つ、神竜イグニスの御霊を霊山まで迎えに行くのが、ヴァレリの家に与えられた、古くからの習わしだった。
迎えられた御霊は、中央街の広場で三日間祀る。
これが神竜祭だ。
創造主を敬い、この先の安寧を願う大切な儀式に参加するには、守護家の人間として、得なければならない力があった。
ヴァレリには、それが不足していた。
「昔は使えていた力だ、早く力を取り戻せ。剣の修行にばかり逃げるんじゃないぞ」
父の淡々とした、それでいて棘のある言葉に、ヴァレリは自然と拳を握りしめていた。
息子の静かな怒りに気づくこともなく、霊山に歩き出すアルマン。
その後ろ姿を見据えたまま、ヴァレリは血が出るほど強く、唇をかんだ。
「お兄さま、血が・・・・・・」
ルネッタは、そっとハンカチを差し出す。
それを無言で受け取り、こみ上げてくる怒りをせき止めるように、ヴァレリは自身の口元を押さえた。
しばらくその場にたたずんでいたが、口笛のような高く乾いた音が響き、空から二匹の竜が飛んできた。
まだ子猫ほどの大きさの、幼い竜だ。
ヴァレリの肩に留まると、皮膜の張った羽を休めた。
「おはよう、ヴァレリ」
「おはよう。どうしたんだ、こんな朝早くに」
竜の顎の舌を指先で撫でながら、ヴァレリが訊ねた。
「あのね、僕たちどっちが遠くまで飛べるか競争してたの!」
「リブったら抜け駆けばっかりするんだ!」
藍色の竜の子を羽で指し示し、緋色の竜の子は嘆いた。
その姿に、ヴァレリの目が自然と細まる。
「お前たち、飛べるようになったからって、国の外に出ちゃだめだぞ?」
「分かってるよ! でもね、今日は雲海がとっても綺麗なの!」
二匹はヴァレリの袖をくわえると、土地の端へと引っ張る。
木の柵が設けられた場所まで来ると、眼下に広がる雲海が一望できた。
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