終わりの世界

 柳は迷わなかった。これが正解だということをわかっているかのように強く言葉を発した。イフは、口の端をより一層釣り上げる。

「ええ、もちろん。できますよ。」

イフが吐息がかかるほどぐっと顔を近づける。柳はすこしたじろいだ。間近で見ても、恐ろしいほどに滑らかな肌。唇が触れ合う寸前の距離で、念を押すようにイフが呟いた。

「本当に、それでいいんですね?」

柳は少しもためらわずに頷いた。それでは事態が大きくなる前に行きましょう、と差し出された手を、強く握る。自分の手が冷たいからか、いつもよりイフの手の冷たさが気にならなかった。今まで通り、悪夢の空間移動を終えて、その負荷にぐったりと横たわっている柳を横目に、イフは明るく書類を読み上げた。

「おめでとうございます!この世界ではあなたたちは付き合っているみたいですよ。もちろん、お互いの親御さんや他の人には内緒ですが……。うまくやればきっとこの先もよい人生が送れるはずです。」

たしかに、柳の心にはいま、心地よい暖かさがあった。さっき味わった炎とはまるで違う。暖かな柔らかい毛布でくるまれているような感覚で、そしてこの毛布で相手も包んであげたいという気持ちがあった。今まで知らなかったこの温もりが、きっと愛なのだ。こつん、と窓になにか当たる音がして、窓の外を見ると桐が手を振っている。玄関に行くと、あの日男子生徒に向けていた笑顔と同じ顔の桐がいた。まっすぐ柳の目を見て笑っていた。

「来ちゃった。」

たったその一言が、柳をどれだけ温めたか、桐にはわからない。でも、この一言で、柳の凍り付いた指先は、温もりを取り返したのだ。それから、部屋のソファーで寄り添いあって、指先を絡めながら、ずっと他愛もない話をしていた。以前の柳だったら緊張してなにも話せなかったろうが、この世界の柳は違う。ずっと身体が暖かくて、優しい言葉で、幸せや愛を語ることができる。これまでできなかった当たり前だできる喜びはとても大きかった。朝の軒先で小鳥たちがさえずっているような、平和な光景だ。不意の沈黙。柳の視線と、桐の視線がぶつかり合う。二人は、何も言わずに顔を寄せ合い、唇を重ねる。柔らかくて、暖かい。慈愛に満ちた空間で、時は穏やかに流れていった。

 数十分すると、桐は門限のため帰ってしまったが、柳は得も言われぬ多幸感に包まれ、イフに声をかけられるまでしばらく呆けていた。

「それではこれで契約はおしまいです。また死後にお会いしましょう。」

死後、という単語に突然現実に引き戻された柳は、恐ろしい疑問を思い浮かべてしまった。

「待って!」

今にも消えそうになっていたイフの足元に縋り付いて止める。意外にも、イフは大人しく転移をやめた。

「何ですか?」

柳は少し黙ってから、一つ目の質問を切り出した。

「死後、私はどうなるの?」

イフは声を上げて笑った。目元が隠れているにも関わらず、ひどく見下されているような感じがして、恐怖を感じる。

「私の下に来るだけですよ。あとは来てからのお楽しみです。」

曖昧な返事だが、柳はそれよりも気になることがあった。一番最初から薄々わかっていた、それでも聞けなかったことが。こんなこと聞かないほうが幸せだとわかっていたが、それでも、柳はもう一つの質問を口に出した。

「元々この世界にいた私は、どこへ行ったの?」

柳は、イフの瞳があるであろう場所を見つめて言い切った。たとえこれが禁断の質問であろうと、答えを聞く覚悟はある。

「交代したんですよ。あなたと。」

考え得る中で最悪の答えに、唇を噛む柳を見ても、イフは言葉を止めない。

「元々この世界にいたあなたは、あなたが元々いた世界のあなたと交代しました。」

それでは、この世界にいた幸せな柳は、なんの理由も告げられず突然人殺しの柳の世界に飛ばされたというのか。呆然とする柳の頭を、イフが掴んだ。爪がぎりぎりと頭皮に食い込む。

「そんなに気になるなら、見せて差し上げましょう。」

ぐい、と無理やり鏡のほうを向かせる。鏡の中のイフには、白い翼なんて生えていなくて代わりにどす黒いもやを纏っていた。鏡に手をかざすと、そこには見慣れた裏路地があった。桐の死体と、泣き叫ぶもう一人の柳。彼女は本来だったらこの世界で幸せに生きるはずだった。それなのに、今目の前にあるのは愛しい人の死骸。髪の毛を振り乱して泣き叫び、動かない桐に縋り付く、もう一人の柳。一瞬だけ、彼女と目が合ったが、その瞳の闇に深さに、顔を背けようとしても、イフがそれを許さなかった。

「他人の幸せを犠牲にして手に入れた幸せ……たっぷり味わってくださいね。」

いつもは優しい声が、妙に冷たく、嗜虐を含んでいた。柳の瞳から、涙が溢れだした。後悔の刃が、脳みそを切り刻む。

「もし、もし、一体なにが幸せで、どれが正解なんでしょうねえ。でも、今、自分が幸せならそれでいいんじゃあないですか?」

妙に間延びした声が、耳の中に直接吹き込まれる。イフは突然柳を放した。

「それでは、また死後に迎えにきます。ごきげんよう。」

そう言い残して、今度こそ消え去ってしまった。何も無い部屋。望むものはすべて手に入れたはずなのに、柳の心には絶望だけがのさばっていた。

 数年たっても、柳は桐と穏やかに、幸せに過ごしている。桐と二人、ソファーに座って映画を観る日常。肩に桐の体温を感じながらも、脳裏には、半狂乱のもう一人の柳が浮かぶ。本当にこれが正解だったのか。鼻孔をくすぐる、汗とシャンプーの匂い。ムダ毛で少しちくちくする日焼けした肌。幸せをその身で感じながらも、柳はいつまでも、いつまでも、頭に食い込むイフの爪の感覚と、もう一人の柳の瞳を忘れることはできなかった。


 終

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