ふたつめの世界と現実

 そしてまた、幾分か慣れたとはいえ吐きそうな地獄を味わい、たどり着いた先は柳と桐が同級生の世界だ。この世界の柳は、桐と同じセーラー服を着ていて、顔つきも幾分か幼い。元の世界の自分が中学生のころそうだったように、アパートにはまだ出て行っていない母親がいた。母親はこちらを振り返りもせず、背を向けて雑誌を読んでいる。たばこの臭いが充満していて、不快だった。イフも心なしか顔をしかめているように見えた。それから一週間ほどは、柳は楽しい学校生活を送った。家に帰れば母親を疎ましく思い、また重苦しい家の雰囲気に押しつぶされそうだったが、イフが話し相手になってくれるおかげで少しは楽だった。しかし、結果として、ほとんどイフの予想通りになった。柳は、異常に嫉妬深く、自覚がないのがたちが悪い。桐が他のクラスメイトと楽しそうに話しているのを目の当たりにした柳は、今までよりもずっともどかしさを感じた。飢えて飢えて、目の前に好物を置かれているのに届かない。学校でこそ、柳は平然と笑っているフリをしていたが、自室の壁には、ひっかいたような血の跡がついて、その指先は爪が剝がれていた。毎晩のように、壁をかきむしっていたのだ。その他大勢の級友の顔などのっぺらぼうに見えて、今すぐ殺したいほど憎かった。他の人に微笑みかける桐を見るたび、柳は口の中を噛み切った。口の中にあふれる鉄の味が冷静さを取り戻させるが、物はほとんど食べられなくなって日に日にやつれていった。ブドウ糖の錠剤や、チョコレートを、イフに無理やり投与されるくらいだ。後ろから抱きかかえられて、チョコを摘まんだ指が口内にねじ込まれる。白く固い指が、口内の熱で溶けた甘味を、傷を避けるように塗りたくる。口内をなぶられる感覚に、柳のつま先が震えた。

「一度、元の世界に帰りましょうか。」

三つめのチョコレートを食べさせたあと、イフが声をかけた。もう、柳の姿はとても中学生には思えなかった。ばさばさの髪はしょっちゅうかきむしるせいで抜け落ち、頬はやせこけ、唇は噛んで切ったせいでひび割れだらけ。ところどころはげた爪や、ひっかき傷の残る身体、瞳はうつろなまま。嫉妬とはこうも人を狂わせるものか、とイフは少し感心してしまった。

「うん……帰る……。」

イフに向けて、というかは自分に言い聞かせるように虚空に呟く。

「それでは、帰りましょう。」

と差し出された手を弱弱しく掴む。三回目ともなると、イフの手にも慣れてしまっていた。柳は少しでも空間移動酔いを抑えるために目をつぶる。その直前に、視界の端に、イフがビニール袋を持っていたのが見えた。あれ、私用のエチケット袋か、と思うと柳は少しだけおかしくなって、気分が和らいだ。

 エチケット袋は大活躍だった。結局柳はまた吐いたのだった。それはさておいて、残る世界を移動できる回数はあと一回だけになってしまった。どの世界に行けば自分は幸せになれるのか、自分が幸せになれる世界なんてあるのだろうか。頭の中を意味のない思考がぐるぐると回っていく。イフに、少し考える時間がほしいという旨を伝え、了承を得た柳は、またいつもの日課を繰り返していた。桐の背中を五分だけ追う毎日。それでも、今まで渡ってきた二つの世界よりはましだと思った。桐は柳を見ない。好意の視線もむけないが、はじめに渡った世界のように嫌悪や恐怖の目を向けない。柳は桐をずっとは見られない。きっと桐は学校では二つ目の世界と同じように他のクラスメイトに笑いかけているのだろうが、柳はそれを見ないでいい。ただ自分がみている五分間だけ、あの背中は自分のものである、この世界の方が良かった。見ているものだけが真実。しかし、事件が起こったのは三日後だった。柳は偶然にも見てはいけない真実を見てしまったのだ。生活用品を買いに大型ショッピングモールに行ったとき、柳はその光景が網膜に焼き付いた。手を繋いで歩く、桐と男子生徒の姿。二人で楽しそうに笑って寄り添い歩く。見たことも無い明るい桐の笑顔。見たことも無い可愛らしい、フリルのついた白いワンピース。人が多いのでやや高めを浮遊していたイフの顔が引きつった。柳の手が小刻みに震え始める。他の人間や、景色なんて何も見えなくなって、ただ二人だけが鮮明に見える。心臓がばくばくと壊れそうで、息ができず、脳に酸素が回らなくなって、くらくらする。それでも柳は歩き始めた。二人のあとをつけていった。二人はもう帰る途中だったのか、すぐに別れて、桐は一人で家路をたどる。いつもの朝のように柳は後ろを歩いていた。違うのは、普段の柳はある種非常に穏やかで、完成された感情を持って桐を見つめていた。しかし今は、狂おしい歪な気持ちを抱え、その背中を見つめている。腹の中を醜い感情が渦巻いている。そうして、いつも通る人通りの無い裏路地にたどり着いた。朝見ている風景とは逆の景色、逆の感情。この背中が自分のものではないことを見せつけられた今日。柳の心臓は燃えていた。愛も憎悪も同じ炎だ。胸を焦がしていくそれがどちらなのか、そんなことはもうわからなかった。心臓を中心に身体の芯が灼けつくように熱い。それでいて、指先は氷のように冷たい。嚙み切った唇から垂れる赤い筋。腹の中で渦巻いていた浅ましい、醜い感情は、ヘドロになって口からこぼれそうだった。柳は、ただ桐と幸せになりたかっただけだ。その方法を、知らなかった。柳の純粋だった気持ちは、泡沫のようにはじけて消えていってしまった。

「桐ちゃん。」

弱弱しい声だったが、異様な重みがあった。振り向いた桐は、愛想よく笑う。

「あの、どうかしましたか?」

桐が言い終わらないうちに、柳は桐にとびかかっていた。桐を突き飛ばし、のしかかって、首に手をかける。この日、人生で初めて柳は桐に触れた。愛するために触りたかったのに、殺すために触れた。桐は一瞬呆然とし、そのあともがいたが、柳の狂気には勝てなかった。柳の指が、桐の喉に食い込む。冷たい指先に、その温かさが気持ちいい。桐は柳の両手を強く掴み、引きはがそうとする。爪が手首に食い込んで、血が流れたが、柳はびくともしなかった。桐の手の力が徐々に弱くなる。桐はどうして、やめて、以外の言葉を発さなくなった。大きく目を見開き、血管が切れたのか白目の部分に赤い筋がはしる。顔は真っ赤になって、必死に息を吸い込もうと大きく開けた口がら白い泡含んだよだれが垂れる。柳はかすかにアンモニア臭を感じた。桐は漏らしていた。きっとあの男子のために着たであろう特別なワンピースが薄黄色に濡れていた。柳はさらに強く締め上げる。突き出された舌の赤さが目に痛い。それから、永遠のようなほんの数分後、桐の手から完全に力が抜けた。真っ赤だった顔色も、今は白い。失われていく体温と比例して、柳も冷静さを取り戻す。

「どうしよう…警察…救急車…」

荒い息を吐き、冷や汗をだらだらかきながら、震える手でスマホを取りだす。しかし、ダイヤルしようとした左手を、あの石膏粘土のような手が優しく掴んだ。振り返れば、イフはこの上なく穏やかに微笑んでいる。

「いいんですよ。あなたはあと一回だけ別の世界に行けるのだから。大丈夫。」

こんな時でも、イフの声は甘く、優しい。耳元に吹きかけられる吐息が、脳と心を犯していく。

「さあ、最後はどんな世界に行きましょう。」

柳は、体温を失いかけている桐の頬を優しくなでて、何かを言いたげに半開きになった唇に、血の匂いのする自分の唇を重ねた。冷たくて、固い。桐の色のない唇が、赤く染まって美しかった。

「こんな世界には行ける?」

柳は前置きする。

「どんな世界ですか?」

「私が正しい愛し方を知っている世界。」



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