第4話 神域

光が収まり、目を開けることができたが、視界は真っ白だった。そこは白い濃い霧の中で、国之常立神から御言葉を受けた場所と同じような雰囲気に思えた。一花はあたりを見回したが、諒の姿は見えなかった。

「天野さーん、諒、りょー」

 一花は初めて彼を名前で呼んだ。すぐに応答がなかったので一瞬不安に駆られたが、一拍ほど置いて背後から返事があった。

「不用意だ」

 諒は一言そう言って、霧の中から憮然とした表情で現れた。

「へへっ」

 一花は背中からの声にちょっと驚いたが、振り向いて笑顔を見せ、さらに陽気に言った。

「まあでも、何も起こらないより、いいんじゃない?」

 そう言って、一花は軽く片目を閉じてみせた。諒はやはり眼鏡を指で押し上げながら言った。

「一理あるが・・・」

 まだ、何か言いたそうな彼をわざと無視して一花は言った。

「ここって、神様に会った場所みたい」

「そうなのか?」

 諒は言いたいことはまだあったが、興味を惹かれ周りを見渡した。しかし、一面の濃い霧で、手を前に伸ばせば、手の先が見えなくなるほどで、何も神域を思わせる証しのようなものはなかった。

「そう、こんな感じの濃い霧の中で、上から光が下りてきたわ。その光はこの霧に遮られて、まぶしいほどではなくて、何となく暖かいような印象だった」

 そう言って、一花は上を指差した。諒も彼女が示した方を見上げた。しばらく二人で上方を見ていたが、今回は何も下りてはこないようで白い視界には、何も変化は訪れなかった。

「・・・何も起こらないわね」

「そのようだな」

 諒は、今までの仕返しとばかり、目の端で揶揄うように彼女を見た。

 一花は、そんな彼の視線に気付いていたが、平気な顔で言った。

「ちょっと歩いてみましょうよ。ほら、あっちの方が何となく明るく見えない?」

 確かに、彼女が指し示した方は、ぼんやりと明るく見えた。このまま、ここでじっとしていても何も起こりそうにない。諒は彼女の方を見て、小さく頷き言った。

「よし、俺が前を歩く、用心して後ろから付いてこい。視界が悪いから見失うなよ」

「あら、見失わないようにするなら手をつないで一緒に歩けばいいじゃない。もしかして亭主関白?」

 そう言って、一花は彼の左手を無理矢理とって歩き始めた。完全に主導権を握られた諒は、もごもごと言った。

「一理あるが・・・、亭主関白なわけでは・・・」

 諒は、さずがに、多少顔を赤らめたように見えた。度々、自分のペースを乱されて困惑の体であったが、嫌な感じはしなかった。諒もすでに彼女の無意識の術中に嵌り始めていたのかもしれない。とはいえ諒は論理的に考えてもそれが一番安全だと理解したので、彼女の言葉に素直に従い、手を繋いで並んで歩いた。

 しばらく歩いて、諒がふと気付いたように声を掛けた。

「そういえば、日月ノ書と八咫鏡はどうした?」

 一花は軽く肩を竦めて答えた。

「さあ?」

 諒はこれにはさすがに怪訝な顔をして問い返した。

「さあ??」

 一花は、繋いでいない方の手の人差し指を、綺麗な形の顎に当てながら思い出すように言った。

「最初の時も、こっちに来た時には持ってなかったわ。神様と話をしている時に不意に目の前に出現したの。まあ、気にしても、ないものはしょうがないでしょ」

 納得したようなしないような顔で、眼鏡を触りながら諒は言った。

「一理あるが・・・、そうなのか」

 どうやら、眼鏡を人差し指で押し上げるのは彼の癖で、一理あるがというのは彼の口癖であるらしい。そのあとは、周囲を警戒しつつ二人は黙々と歩き続けた。どのぐらい歩き続けたのか、体力に自信のある彼女が少し疲れを感じ始めていたので、もうかなりの距離を歩いたように思われたが、景色が全く変わらないので、距離や時間を推し量ることはできなかった。それでも次第に霧が薄まり、視界はだいぶ広がっていた。諒は、視界がある程度開けてきたので、もう大丈夫だろうと繋いだ手を離した。諒は一花には見えないように後ろ手に、繋いでいた方の手を握ったり開いたりしていたが、一花が突然歩みを止めたので、慌ててその動作を止め、できるだけ落ち着き払って言った。

「どうした?」

「水の音?」

 一花は耳に手を当てて、聞き耳を立てた。「ざああ」というような、水の流れを感じさせる音が遠く聞こえた。諒も耳をそばだてて意識を耳に集中した。

「確かに聞こえる」

 二人は頷き合って再び歩き始めた。先程までは、永遠に、この白い世界に閉じ込められたらどうしようという不安感も首をもたげてきていたが、何かしらの変化があれば、そういった不安も軽くなっていく。一花は、その安心感と優れた状況対応能力を発揮して、諒に個人的な質問を投げかけてみることにした。

「私は、十七才、諒は?」

「俺は、二十才だ」

「やっぱり年上か。そう、じゃあ、あの子供の頃に最初に出会った時、諒は十才だったんだ。背はだいぶ高くなったけど、雰囲気はあまり変わらないね」

「そうか?一花こそ、子供っぽさは変わらないように見えるが」

 諒は反撃を試みたつもりだったが、一花はそのことよりも堅物そうな諒が、自分を名前で呼んでくれたのに密かな感動を覚えていた。この点に関して、からかってしまっては、また彼は自分のことを、お前と呼ぶだろうし、二度と名前では呼んではくれなくなるのではないかと思われたので、一花は、素知らぬ体を気取ることに努めた。諒は彼なりの攻撃に対して、一花が大した反応を示さないことを、少し残念がっているようだった。

「ねえ、諒のご両親は?」

「いない」

「あ、ごめんなさい。気に障ったら許して」

「いや、別に構わない。俺は両親のことは知らない。施設で育ったから」

「そう、なんだ」

 一花は、まだ出会ったばかりで、それ以上のことを聞くのは失礼かとも思ったが、彼がどういった経緯で、このような状況下にあるのか、これからのことも考えると知っておくべきではないかと考えた。一花は、真剣な眼差しを諒に向けて遠慮がちに言った。

「さっきは、その、あまりその部分は話さなかったけど、諒は子供の頃から、こんなことに関わっていたのよね。どうして?」


 諒は少し黙って「どこから話したものか」と言った後、とつとつとこれまでの経緯を、時折黙って当時の情景を思い出すようにしながら静かに語り始めた。

 

 それは今から十一年前、彼、天野諒が九歳の時に遡る。

 

 彼は、いつもそうしているように、近しい年代の子供たち数人が、彼らにしてみれば広く感じる部屋の中で、きゃあきゃあとはしゃいで遊んでいるのには目もくれずに、部屋の隅の窓際の彼の指定席に座って空を眺めていた。真夏の空には巨大な入道雲が、もこもことさらにその領土を広げようと蠢いていた。今を盛りとばかり鳴いている蝉の声が耳触りだ。静かに一人で本でも読みたい。夏休みは嫌いだ。まだ学校で授業を受けている方がいくらかマシだ。彼はぼんやりとそんなことを考えていた。

 そんな彼に声を掛けたのは、まだ若い二十代後半ぐらいの女性だった。

「ねえ、諒くん、みんなと遊ばない?」

 彼女は彼が物心ついた時から彼の傍にいた。笑顔の印象的な丸顔の優しそうな女性だ。中央に虹の絵柄がプリントされているエプロンをしている。首から下げた名札ケースの角には桜の花びらのシールが貼ってあり、名札には「きぼう園 大野さくら」と書いてあった。彼女は、そうやって彼に声を掛けても、彼が決して他の子たちと遊んだりしないということは知っていたが、いつも同じように彼に声を掛けていた。


(なぜこの人は僕なんかに構うのだろう)


「今は遊びの時間なんだよー」

 そう元気よく言って、彼女は彼の顔を優しそうな笑顔のまま覗き込んだ。彼は目を合わせようとはせず、窓の外を見たまま答えた。

「今は、いい」

「そっか」

 彼女は笑顔を崩さなかった。彼は彼女が怒ったところを見たことがなかった。彼に接する時も、いつも笑顔を絶やさなかった。そして決して彼に無理強いはしなかった。その代わり、彼女は自分の時間が許す限り、ずっと彼の傍にいた。彼も別にそこまで拒否はしなかったし、彼女の問いかけを無視することもなかった。おそらく彼女は彼が最も心を許している人物だった。しかし、そんな彼女に対しても、彼は自分から話しかけたりすることは、ほとんどなかったし、基本的には彼女の問いにも、是か否かを答えるだけで、大抵は、彼女が一人で喋っているようなものだった。

「諒くんは、ほんとにお空が好きね。先生も好きだけど」

 諒は軽く頷いた。

「ねえ、あの雲、子犬みたいに見えない?」

 諒は彼女が指差した方を目だけで追い、軽く首を傾げた。

「そうそう、こないだ生まれたって話したうちの子ね、もうだいぶ大きくなったよ。ほら」

 そう言って、彼女は携帯電話を取り出し、待ち受け画面を諒の方に差し出した。そこには母親と思われる大きなラブラドールと小さな三匹の子犬が写っていた。諒は、これには興味を示した様子で、画面を覗き込んで一言だけ言った。

「大きくなったな」

「そうでしょ。こないだ見せたのが生まれたばかりの時で、たった一ヶ月でこんなに大きくなったのよ。驚きよね」

 彼女は彼に微笑みかけながら嬉しそうに言った。

「ねえ、諒くんは、犬っていうか動物が好きね」

「・・・まあまあかな」

 諒は微妙な答え方をした。彼女は彼の反応の理由を知っていたが、それについて追及しようとはせずに話題を変えた。

「そういえば、もうすぐ毎年恒例の野外活動ね。今年も富士五湖に二泊三日だよ。キャンプファイヤーとか楽しみだね」

 彼女は本当に楽しそうに話をする。そんなに楽しみな行事なのだろうか。いつも二日目に釣りの時間があるけれど、あれはまあまあ嫌じゃない。ぼーっとできるし。キャンプファイヤーなんて全く楽しくない。そんなことを考えながら、彼が声に出したのは「そうだね」の一言だけだった。

「さくらせんせー」

 他の子が彼女を呼んでいた。彼女は少し残念そうな顔を見せながら、「また、後でお話ししようね」と言って、呼ばれた方へ「はーい」と返事をした。


(なぜこの人は僕なんかに構うのだろう。でも別に嫌じゃない)


 そうして彼らは毎年恒例となっている野外活動へと出掛けた。現地へは電車とバスを乗り継いで向かい、昼前には到着して、早速、昼食を皆で調理した。飯盒で米を炊き、野菜炒めを作って食べた。その後は、夕方まで湖の近辺を散策し、男子は林に入って虫を捕まえ、女子は水辺の鳥や魚を観察した。夕方前には戻ってテントを組み立て、夕食はカレーを作って食べた。

 そして一日目の夜は星の観察だ。夏の夜空の星座を観察するというのが課題だった。特に班分けをされているわけではなかったので、彼は少し離れた場所で静かに観察しようと、昼間に行った湖のあった方へと歩き始めた。そんな彼に気付いたさくらは、小走りで彼に追いつき、微笑んで彼の手をとった。

「足元が暗いから気をつけて行きましょ」

 そう言って彼女は彼と一緒に行くという意思表示をした。彼は手を繋がれたことに少し戸惑った様子だったが、無表情のまま何も言わず、少し頷いて是である意思表示をした。彼女はよく喋るけど煩くはない。一緒にいても別に嫌じゃない。というのが、彼の彼女に対する表向きの評価であった。

 湖畔まで行って、近くのベンチに二人で腰掛け、空を見上げた。ネオンの明かりが煌々としている都会の夜空とは違って、降るような美しい星空だった。

「ねえ、諒くん、夜の空も好き?」

 彼は頷いた。

「私も。とっても綺麗ね。天の川ね、あれ」

 彼女は空を仰ぎ指差して言った。空気が澄んでおり、天の川が夜空を横切っているのを、くっきりと見ることもできた。

「天の川って、ほら、英語で何て言うんだっけ?」

「ミルキーウェイ」

「そうそう、そうだったね。やっぱり諒くんは物知りね」

 彼は、持っていたスケッチブックを開いて、おもむろに星座を描き始めた。

「ねえ、何の星座を書いているの?」

「夏の大三角の星座」

 彼女はスケッチブックと夜空を交互に見比べ、スケッチブックの一カ所を指差した。

「三角形の一番上の星はなんていうの?」

 彼は答える代わりに、点と線を描いたスケッチブックの彼女が指した星のそばに『ベガ』と書いて、彼女に見えるように示した。そして夜空の一角を指差して言った。

「ベガは、こと座の星」

 彼女は指差した方向を見ようとして、彼の側につと寄って彼が指す方を見上げた。彼女は柑橘系の甘い良い香りがした。いくら夏でも山間の夜ともなれば涼しい。彼女が触れる左半身は、とても心地よく温かく感じた。しかし、彼は照れ隠しもあってか、すぐに彼女からちょっと離れて、夜空に向かって指先で三角形を二回描いた。そして、続けてスケッチブックに『アルタイル』『デネブ』と書き込み、それらが繋がること座、わし座、はくちょう座を次々と描いていった。

「ふーん、諒くん、よく知ってるね。すごいなあ」

 彼女は心底感心したように、また空を見上げて言った。彼はさらに星座を描こうと、再びスケッチブックに目線を落とそうとした。その時、湖の波打ち際がキラリと光ったように見えた。彼は興味を惹かれ、すっくと立って、スケッチブックをベンチに置き、波打ち際に向かっていった。

「諒くん、どうしたの。あんまり水辺に近づいたら危ないよ」

 そう言って、彼女も立ち上がり、彼についていった。

 彼は波打ち際にしゃがみこみ、半分以上が砂に埋まっていたそれを掘り出した。それは直径が三センチぐらいの、つるつるした黒い球だった。

「ただの石じゃなさそうね。何かしら・・・。綺麗ね。夜空の星みたい」

 確かにそれは夜空を写したように、黒い中に星が瞬いているような輝きを帯びていた。

「もらってもいいかな」

 めずらしく、彼が自分から発言したので、彼女は喜んで言った。

「宝物ね」

 その時、背後からうめき声のような声がした。

「ソノタマヲヨコセ」

 振り返ると、そこには一匹の化物と一人の男が立っていた。彼女は驚いて小さく悲鳴を上げた。さっきの声は、化物の方が発したらしい。化物はもう一度、覚えたての言葉を喋るように言った。

「ソノタマヲヨコセ」

 男の方は、様子を見るように少し後ろから何も言わず成り行きを眺めている。その男は東の公爵アガレスだった。化物の方は二本足で立ってはいたが、明らかに人間ではなった。背中には蝙蝠のような羽が生えており、何も纏っていない体は茶褐色の皮膚で覆われ、ところどころ鱗のように皮膚が固まっているように見えた。手足が長く、指も長くて鉤爪のように不気味に折れ曲がっており、その先には鋭い爪が生えていた。眼球は黄色く濁っていて、尖った耳が顔の横に突き出ている。顔全体は蜥蜴のような印象だ。耳元まで避けた口の下顎から鋭い牙が覗いていて、汚らしく涎を滴らせていた。その怪物は、ぐるーぐるーと低い唸り声をあげていた。

 彼も彼女も恐怖で身動きが取れなかったが、彼女の方は静かにゆっくりと彼の前に立つように動いていた。

「グイソン、奪え」

 後ろで様子を見ていた男が、口辺に悪質そうな笑みを浮かべながら、そのグイソンと呼ばれた化物に命令した。

「ショウチシマシタ、アガレスサマ」

 化物は、けえーっというような耳障りな鳴き声を発し、二人に向かって襲いかかってきた。彼女は彼を後ろに庇い立ちふさがった。化物は腕を振り上げ、鋭い爪を彼女に振り下ろした。衝撃で彼女は後ろに飛ばされ、彼女の後ろに立っていた彼にぶつかり、彼の上に彼女が倒れ込んだ格好になって、ちょうど彼の膝の上に彼女の頭が乗った状態になった。

「うっ」

 彼女は呻いて胸元を手で押さえた。見ると彼女が手で押さえた白いシャツが、みるみる血で赤く染まってゆくのがわかった。

「せんせい!せんせい!さくらせんせい!」

「あっ。ふふっ。今、久しぶりにさくら先生って呼んでくれたね。うれしい」

 彼女は弱弱しく、だが優しく微笑みかけながら的外れなことを言った。そして彼女は諒の頬に手を添えて言った。

「悲しまなくていいよ。諒くんは優しいから、辛くて苦しい思いを抱え込んじゃいそうだから、それが心配・・・」

「僕なんか、優しくないよ!なんで僕なんかを庇ったりしたの!僕なんかに構わなければこんな・・・」

 彼の言葉を遮るように、彼女は人差し指を彼の唇に当てて言った。

「先生知ってるよ。諒くんが、きぼう園の裏山で子犬のお世話をしているの。園の近くに捨てられていたんでしょう。わたしは諒くんがとっても優しい子だって知ってるよ。諒くんはしっかり屋さんだから、一人でも立派な大人になれるって先生は思ってる。でも心配なの。諒くんの気持ちもわかるんだけど、お友達を作ってみんなと遊んだり、他の先生や大人も、もっと信用して頼って欲しいな。子犬のことも園長先生にお話ししてみたらいいと思うよ」

 そう言って、彼女は彼の頬を優しく撫でるように触っていた。しかし、彼の頬は、その手の温もりが急速に失われつつあるのを敏感に感じていた。そして彼女は吐血した。鮮血が彼女の口から溢れ出た。

 彼は唇を噛んで、必死に涙を堪えていた。だが、それを見て、とうとう耐えきれなくなった。零れ落ちる涙は大粒の雫となって、彼の頬を次から次へと滑り落ちていった。

「さくらせんせい!いやだ!死んじゃいやだ!」

「わたしはこれからもずっと諒くんのことを見守っているわ。諒くんなら大丈夫よ。きっとみんな受け入れてくれる。だって私は諒くんのこと大好きだもの。ああ、優しくてあったかい諒くんのそばにもっといたかったなあ」

 そう言って彼女は目を閉じた。彼女の頬を一筋の涙が伝った。同時に彼の頬に添えていた彼女の手は、力を失い落下した。


(なぜこの人は僕なんかに構うのだろう。でも別に嫌じゃない。そうじゃない。そうじゃなくて・・・)

(本当は、ずっとそばにいてほしかったんだ!僕もさくら先生が大好きなんだ!)


 しかし、それを言葉にすることはできなかった。そのかわり、彼は叫んだ。

「わああああああああっ・・・・・・」

 彼は咆哮した。おそらく彼の人生でこれほどの感情の激流は、最初で最後かもしれないというほどの、心の奥底から沸き起こるような叫びだった。その時、彼が無意識のまま握っていた黒い球が熱を帯びたように感じた。見ると球は光を放っていて、それはあっという間に彼の視界を遮るほどの眩しさになった。

 そして、彼が目を開いた時、彼は見知らぬ場所にいた。後でわかったことだが、そこは天津神の神域だった。彼はそこで天津神と出会い、自分が天津甕星の器として覚醒したことを知った。

 この出来事は『富士五湖神隠し事件』として、しばらくメディアで騒がれたらしい。さくら先生の遺体は見つからず、一人の女性保育士と、男子児童の失踪事件として扱われた。程なくして少年だけが見つかったが、彼は何も記憶していないという体を装い、やがて事件は迷宮入りとなって、人々の記憶からも忘れ去られた。

 彼はそれから少し様子が変わり、他の子供たちと少しずつ接するようになった。そして、少し後になって園に家族が増えた。それは彼が裏山で世話をしていた子犬と、主をなくして行き場を失ってしまった、ラブラドールの親子だった。


「それが俺の覚醒のきっかけだった。一年後、俺は先生に花を手向けたくて、あの場所に戻った。奴の行方や何らかの手掛かりが掴めないかという期待もあった。そして、偶然、いや必然か、奴を見つけ尾行していて、あの場に居合わせたというわけだ」

「そうだったのね・・・。あの日の一年前に、そんな事件があったなんて」

彼女は、気遣わしげに彼を見た。それに気付いて彼は言った。

「大丈夫だ。あれから十年、もう子供じゃない。アガレスは一花にとっても仇だろうが、俺にとってもそうだ。奴は俺が必ず仕留めてやる」

 感情を押し殺してはいたが、諒のその言葉は復讐に燃える炎の熱を帯びているように、一花には感じられた。

 そのまましばらく二人は黙って歩いた。一花は、一度は離した手を再び繋いでいた。諒は、むすっとした顔で一花を一瞥したが、何事もなかったかのように前を向いて歩き続けた。そのとき、彼女には彼が小さく頷いたように見えた。是ということだろう。

 さらに歩き続けると、街路樹のように一定の幅と間隔で、彼らの歩く右と左の両側に木の柱が立ち並んでいるのが見えた。それは驚くほどの太さで、彼女が今までに見たどんな柱とも比べ物にならないほどの、途方もない太さだった。十人ぐらいの人間が両腕を広げて囲んでも全く足りないだろうと思われた。霧に阻まれて上の方が見えないので、実際の高さはわからなかったが、その太さからすれば、相当な高さの木で作られたものであろうことは容易に推し量ることができた。上の方にうっすらと左右を渡す木も見えたので、それらは鳥居のようなもののように思われた。彼らは、その巨大な鳥居の列の前で少し立ち止まったが、互いに顔を見合わせて無言で頷き合い、柱の間を黙々と歩いていった。また、最初は微かだった水の流れる音が少しずつ大きく聞こえるようになってきていた。彼らは新たな変化に期待感を持ちつつも、警戒しながら進んでいった。

 さらにしばらく歩き続けると、鳥居の列が終わり、ようやく霧が晴れてきた。そして見えてきたのは、目を瞠る光景だった。

 一花は繋いだ手を離し、両腕を広げて言った。

「すごい・・・」

 そこは、昼とも夜とも判別し難かった。空を見上げると、そこには太陽も月も出ておらず、かといって暗いわけではなく、しかし、数多の星々が明るく瞬いていた。白夜と言えば近いかもしれない。空には月ほどの大きさに見える星もあった。また、写真で見るような銀河の渦や星雲のように見えるものも、いくつか天空に浮かんでいた。それらは、見ていて知覚できる速度で空を移動していた。

 彼らが、霧から解放されて立っていた場所から数メートル先は、切り立った崖になっていた。反対側も切り立った崖で、向こう側までは百メートル以上はある大きな谷となっていた。谷の反対側には、谷の幅と同じぐらいの幅の川が流れていて、それは何故か仄かに白く光っているように見えた。そして、その川は谷へ向かって巨大な仄かに光る滝となって流れ落ちていた。この滝が先程から聞こえてきていた水の流れる音の源であったらしい。その谷は右側も左側も彼らから見て向こう側に緩やかなカーブを描いて、果てしなくどこまでも続いているように見えた。切り立った崖に注意して近づき、下を覗き込むと、それは身の竦むような深さだった。そして谷の底、流れ落ちる滝の先には、やはり仄かに光る川が流れていた。もしも、霧が晴れてなくて足元が見えていなかったらと思うと恐ろしくなり、彼女は胸の前で腕を交差して自らを抱きかかえるようにし、ぶるっと体を震わせた。

「神秘的で綺麗だけど、何だか荘厳な感じがして、ちょっと怖い」

 一花は、そう言って諒を見上げた。

「どうやら、神域のようだ。俺の時も似たような光景だった。こんな深い谷や滝はなかったが」

「神域?」

「そうだ。神々が住まう場所だ」

「じゃあ、このどこかに神様がいるのね。でも、向こう側に渡れそうな橋とかは見当たらないね」

「そのようだな」

「ねえ。さすがにちょっと歩き疲れたわ。少し休憩しない?」

「一理あるな。少し休んでから探索しよう」

 彼らは座り込んで休息を取りながら話を続けた。

「諒の神様、天津神だっけ。その人というか、その神様には出会ったのよね?」

「ああ」

「そっか、で、どんな風だった?」

「何というか、大きいが見た目は普通の人に見えた。でも、神が自分たちに似せて人間を創ったのなら、当然と言えば当然だとも思うが」

「ふーん。それで?」

「そうだな、がっちりとした大男で、身長は俺の1.5倍近くはあるように見えた。少なくとも2メートルは超えている。横幅などは優に俺の3倍以上はあるだろう。精悍な顔立ちで、しかし別に仁王像のように恐ろしい形相というわけではなかった」

「どんなことを喋ったの?」

「いや、神というのは、そういう決まりでもあるのか、あまりこちらの質問には答えてはくれなかった。一方的だな。まあ、それも神であるならば至極当然なのかもしれないが」

「なるほど」

 納得したように一花は何度か首を縦に振った。

「私の神様も同じく一方的、それに、姿もまだ見せてくれてない。声は男か女か判断できないような感じだし。恥ずかしがり屋なのかしら」

「下々に軽々に姿は見せないといったところだろう」

「一理ある」

 一花は眼鏡はしていないが、目の間に人差し指を当てるしぐさをして、諒の癖を真似て言った。だが諒は、それが自分の真似だと気付いてはいないようだった。一花は口に手を当てて笑いをこらえた。

「どうした?」

「いえ、何でもないわ。それで、神様に修行してもらったんでしょう?」

「そう、天狼星という黒い宝玉の扱い方を」

「どんな修行をしたの?滝に打たれたり、針の山を歩いたり、火の輪をくぐったりとか?」

 珍しく諒はちょっと笑ったように見えた。

「一花が期待するような大したことはしてない。ただ、神が示すとおりの言葉を詠唱して、天狼星から神の力を引き出すだけだ。その力の強さは、それを持つ者の精神の強さが大きく影響するらしい。詠唱の訓練をしたあとは、ひたすら集中して宝玉の力を制御することだけ。そして、繰り返すうちに、簡単な技は詠唱を省略しても、念じれば使えるようになっていった」

 一花は、修行の内容にかなり期待していたらしく、がっくりと肩を落として言った。

「なーんだ。つまらない」

「一花も力を使いこなす必要がある。さっきのアガレスとの対峙で使った詠唱は覚えているか?」

「ええ、まだ覚えてるけど」

「それを繰り返し練習すれば、少しずつ使いこなせるようになるだろう」

「ま、今は鏡を持ってないけどね・・・」

「そうだったな・・・」

 軽口のつもりだったが、また諒に責められそうな気がしたので、一花は、すぐに次の質問を諒に投げかけた。

「ところでソロモンは何柱って言ってたっけ?」

「七十二」

「たくさんいるのね。柱ってことは、ソロモンって組織も神様が関係していて、アガレスも元は人間ってこと?」

「調べたところ、ソロモン七十二柱というのは、古代オリエント、その中でもバビロニア神話に関連の深い悪魔らしい。正確に言うと、バビロニアだけではなくて、様々な神話に記述があるようだ。アガレスが元人間なのかどうか本当のところはわからないが、俺は違うような気がしている。奴は曲がりなりにも見た目は人型で、組織の中でも比較的高位らしく、部下を引き連れていることもあったが、その中には、どう見ても人間ではないものもいた」

「さっきの話のコウモリトカゲみたいなのとか?他にもいるの?もしかして蛇とか蛙とかみたいなのも?」

 一花は舌を出して苦い顔をした。

「蛇や蛙が苦手なのか?」

「うーん、ちょっとね」

「そうか、覚えておこう」

 諒は、完璧そうな一花の弱点を得て、満足そうな表情を見せた。一花の方はといえば、諒のそんな様子を見て、ちょっと今のは失敗だったかと後悔しているようだった。

「まあ、見てのお楽しみということにしておいてやろう」

 諒は意地悪く言った。一花は対抗するようにそれに答えた。

「触らなければ平気よ。私の弓矢ですぐにやっつけてあげるから」

「期待しておこう。さて、そろそろ行くか」

 そう言って、諒が立ち上がろうとした時だった。

「いつまで待たせるつもりじゃ?」

 不意に声を掛けるものがあり二人は身構えた。声のした方を向くと、そこには翼を持つ小人がいて、一花の目線ぐらいの高さを浮遊していた。一花は、思わず女子高生らしい感想を漏らした。

「きゃー、かわいい!」

「な、なんじゃと。ま、まあ、それはそうだろう。当然じゃ」

 その小人は頬を赤らめ、腕を胸の前で組んで言った。諒はまだ警戒を解いていないようだった。また、不用意だとか諒に言われそうに思ったが、一花は、その愛らしい小人に話しかけた。

「私は一花。あなたのお名前は?」

「わらわは常の神様の使い、千鶴じゃ」

ころころ鳴る鈴のような可愛らしい声で小人は答えた。

「かわいい!千鶴ちゃんっていうんだ」

 一花は指を顔の前で組み合わせて、目を輝かせながら、千鶴と名乗った小人の周りをぐるぐる回りながら、まじまじと観察した。

 体長は、二十センチぐらいだろうか、巫女風の白い羽織と赤い袴に身を包み、その背には白い翼を背負っていた。翼は鶴のように先の方の一部が黒かった。しかし、別に翼を羽ばたかせて飛んでいる訳ではないようだ。薄く桃色がかった白銀色の髪で、丸顔を縁取るように肩のあたりで切りそろえたおかっぱ頭が愛らしい。髪と同じ色の丸い眉の下の瞳は黒目がちで、くりくりとよく動いた。

「かわいい!」

 一花は十分観察して、もう一度同じ感想を漏らした。

 千鶴は、かなり得意げな様子で言った。

「一花には千鶴ちゃんと呼ぶことを許す」

 そして千鶴は、諒の方をちらっと横目で見た。諒は、ようやく警戒を解いたようだったが、まだ注意深い目で千鶴を見据えていた。

 千鶴は左手を腰に当て、右手で諒を指差して言った。

「一花よ。こやつは何者ぞ」

「こちらは諒よ」

「ふーん。目つきの悪いガキじゃな」

 一花は思わず吹いてしまった。慌てて口を手で押さえて諒を見ると、鋭い目で一花を睨みつけていた。それを見て、一花は我慢ならなくなり、声を出して笑って言った。

「ほんと、目つき悪い」

 千鶴もつられて腹を抱えて笑っていた。それを見て諒は大人げなく反撃した。

「ふん。チビにガキ呼ばわりされたくはない」

「なんじゃと!」

「まあまあ。二人とも落ち着きましょう」

 一花は笑い涙を拭いながら言った。

「千鶴ちゃんは、もしかしてあちら側から来たの?」

 一花は向こう岸を指して言った。

「そうじゃ。案内するよう託って参った。お前たちが今おるのは、金輪に浮かぶ贍部洲と神域との境界じゃ。稀に迷い人があるが、こちら側に出て来る者はなかなかおらん。お前たち、よく抜けられたな」

「うん。なんか、こっちの方が明るく見えたのと、水の音が聞こえたから」

「そうか、お導きじゃな」

「で、どうやって向こうへ渡るんだ」

 諒が腕組みして言った。

「まあ、そう焦るでない」

 千鶴は、いつまで待たせるのかと言った割には、もったいぶって言った。

「見ておれ」

 そう言って、千鶴は、ぱんと柏手を打った。すると、先程までは何もなかった目の前に、注連縄を円形に丸く輪のようにしたものが出現した。それは、背の高い諒でも、立ったまま潜れるほどの大きさだった。千鶴は、さらに二回、続けて柏手を打った。直後、注連縄の向こう側に蔓でできた吊り橋が現出した。

「千鶴ちゃん、すごいね!」

 一花は手を叩いて、千鶴を褒め称えた。

「まあ、俗に言う朝飯前というやつじゃ」

 千鶴は得意げに胸を張った。

「さあ、さっさと渡るぞ」

 そう言いながら、諒は円形の注連縄と吊り橋の方へ向かって、そそくさと歩き始めた。

「おぬしは、落ちても助けてやらんぞ」

 千鶴は、諒の背に、あっかんべをした。

 

 彼らは、吊り橋を慎重に渡っていた。その橋は、巨大な滝のすぐ横に架かっていたので、その風圧と水飛沫に彼らは悩まされた。滝が近づくにつれ、一花は、その異常さに気が付いた。

 滝の水は落ちていたのではなく、昇っていたのだ。

「千鶴ちゃん、あれ水が昇っているように見えるんだけど・・・」

「それは、当り前じゃ」

「きゃっ」

 一花は、少し足を滑らせたが、諒がさっと彼女の腕を掴んで、すぐに体勢を立て直した。

「確かに、滝は昇っているように見えるな。だが、質問は後だ。ひとまず渡りきることに集中しろ」

「そうね・・・」

 それから彼らは、一歩一歩、足元を確かめながら慎重に橋を渡った。もちろん千鶴は飛んでいたのだが。

 橋を渡りきると、そこには同じように注連縄が輪になっていて、彼らはそれを潜り、深く安堵の溜息をついた。

「ねえ、あの滝、昇ってたよね。それに、川も滝も仄かに光っていると思ったら、たくさんの白いふわふわしたものが、水の中を泳いでいるように見えたけど、千鶴ちゃん、あれは何?」

「さっきの谷底を流れていたのは金輪川じゃ。そしてこの滝は昇魂の滝。白いのは魂じゃ」

「魂・・・」

「そうじゃ。地上に生きるものはみな肉体が滅ぶと、その魂はここに流れてきて、金輪川を百と八周してから、この滝を昇るのじゃ」

「ほう、煩悩の数というわけか」

「さっきの川って、ぐるっと周って戻ってくるの?」

「うむ。金輪川は、この神域を、ぐるっと囲んでおる」

「へえー」

「滝を昇った魂は、このまま川を遡って、向こうに見える還魂山へ行くのじゃ」

 千鶴が示した方を、一花と諒は見た。そちらには、相当な高さの山が幾座も聳えていた。そして、そのさらに奥には、最初は、稜線が視界に収まらないほどだったので、壁のようにしか見えなかったが、よく見ると、とてつもない高さの山が鎮座していた。

「どれだか、わからないけど・・・。あの奥のは壁じゃなくて山よね・・・」

「還魂山は手前の方じゃ。あの奥は須弥山と言って、あの雲のさらに上に、神様が住まわれている崑崙があるのじゃ」

「しかし、何と言うか、様々な神話や伝承が混同しているな」

 諒が独り言のように呟いた。

「私も、それは感じたわ。たぶん、人が断片的に垣間見た情報で、各地で神話や伝承が体系化されていったのではないかしら」

「一理あるな」

「一花の言う通りじゃ。神域の全容を見た人間など、これまでにおらんからな。かく言うわらわでも、崑崙のさらに上に何があるのかなどは知りようがない」

「ほう。謙虚な物言いも出来るのだな」

「大人じゃからな」

 千鶴は諒の揶揄にも余裕ぶって応じた。

「さて、千鶴ちゃん、たぶん私たちは国之常立神さまに会わないといけないんじゃないかと思ってるのだけれど、どこに行けば会えるのかしら?」

「うむ。そうじゃ。まずは常の神様にお目通り願わねばならん。今回は特別に崑崙から降りてきて下さっているのじゃ。還魂山の麓に仮の社がある。そこでお待ちかねじゃ」

「山が高すぎて近そうに見えてるけど、かなりの距離がありそうね。歩いてだと何日もかかってしまいそう」

「ふふん」

 千鶴は得意げに、懐から横笛を取り出し、おもむろに吹き始めた。しばらく何処か懐かしさを感じるような調べを奏で、千鶴は還魂山の方を指差した。

「見よ」

 それは最初、白い小さな点にしか見えなかったが、すぐにはっきりと形が見えてきた。白い点の正体は鯨に似た生き物だった。体長は十メートルぐらいあるだろうか。形は種類で言えばシロナガスクジラに似ているが、全身が柔らかそうな白い毛で覆われていて、その頭部には一本の角が生えていた。現実の鯨よりも倍以上は大きいであろう腹びれと、二股に分かれた長い尾びれを、ゆっくりと動かして、だが、かなりの速さで、それは近づいてきていた。星空を背景に、巨大な白い鯨が空を舞う様は、圧倒的で幻想的であった。

「・・・」

「・・・」

 一花も諒も、言葉が出ずに、ただその光景を眺めていた。

 鯨は、あっと言う間に近づいてきて、彼らの前にゆっくりと着地した。

「さあ、これに乗って、お社まで行こう。常の神様がお待ちじゃ」

 鯨は体が結構平らだったので、彼らは、割と簡単に、その背に乗ることができた。

「しっかり毛につかまっておれよ」

 鯨は金輪川に沿うように、ゆっくりと飛んでいた。現れた時と同じ速さで飛ばれては、一花も諒も、その背につかまっていることは出来なかっただろう。千鶴は一花の肩に座っていた。鯨は低空を飛行していたので、景色もよく見ることができた。川沿いには、様々な種類の木や草、花々が群生していたが、どれも見たことがないような植物だった。中には動物のように動いている木もあった。それは、鯨を捕えようとするかのように、枝をぐんと伸ばしてきた。鯨は、ひょいと高度を上げ、難なく枝をかわして進んだ。かなり広い花畑もあった。このような際でなかったら、降りてみたいと思うほど、それは美しかった。様々な色の花がグラデーションになっていて、虹を描いたように敷き詰められていた。それらは淡く発光しているように見えた。また、木々の間や、草むらの影には、動物も見え隠れしていたが、やはり、彼らの世界では見たことがないような生き物たちだった。彼らが見たのは、キリンのように首の長い、極彩色の毛で覆われた6本足の生き物や、象のように見えるが、皮膚が真っ黒で鼻は短めで、その背に駱駝のようなコブを持っている生き物や、尾の長い伝説の鳳凰のような見た目なのに、雀ぐらいの大きさの鳥など、多くの動物を見かけた。彼らは感嘆の声を上げて、それらを見やった。

 この神域では、どうも時の感覚が狂わされるようで、彼らは、いったいどのぐらいの間、鯨の背に乗って飛行を続けているのか、全くわからなくなっていた。それでも、目的とする連山の最も手前に位置している還魂山は、どんどん近くになり、やがてそれは目の前に迫っていた。改めて見ると、やはり驚嘆すべき高さで、そのさらに奥に聳える須弥山は、もはやこの世界を二分する壁にしか見えず、近づくほどに、それはこちら側に倒れてくるのではないかと感じるほどの圧迫感があった。

「そろそろ見えるぞ。ほれ、あそこじゃ」

 千鶴は一花の肩が気に入ったのか、ずっとそこに座していた。彼女は還魂山の麓を指差した。身を乗り出して見るまでもなく、それは彼らの目にも、すでにはっきりと見えてきていた。それはやはり巨大だった。幾つかの棟に分かれているようだが、主殿と思われるその建物の形は神社のような趣だが、十階建てのビルに相当するぐらいの高さはありそうだった。白の漆喰で塗られた壁と朱に塗られた柱のコントラストが美しかった。

「あれが、そうなの?立派なお社ね」

「あれは、神様がたの仮の住まいじゃ。本当の住まいはもっと上にある。あれなどとは比べ物にならんぞ。神様は滅多にこのようなところまで下りて来られることはない。本当に今回は特別なお計らいじゃ」

 社の前に、鯨はゆっくりと降り立ち、一花らを背から降ろすと、いずこかへと飛び去った。社を間近で見ると、さらにその巨大さに驚かされた。社への入り口にある木でできた段は、諒の背丈ほどあり、彼らには登れそうにもなかった。

「ねえ、千鶴ちゃん、どうやって入るの?」

「一花よ、おぬし浮遊の術は使えんのか?」

「それは・・・できない。変身した時は飛べたけど」

「変身とな?」

「ええ、八咫鏡を通じて神様の力を借りた時に、姿形が変わって、空も飛べたんだけど。今は八咫鏡も日月ノ書もないから無理だわ」

「仕方ないのう、その者もできんのか?」

千鶴は、諒を指差した。

「俺はできるが」

「え?できるの?」

「ああ。別に隠していたわけでもない。人型のままでも訓練すれば、ある程度は使える」

「ならば、おぬしが一花を運んでやれ」

「・・・、まあ、仕方ない。」

 諒は一花に向けて背を向けてしゃがんだ。

「お世話かけます」

 一花は感謝の意を述べた。

 そして、彼らはようやく社の入り口に立った。巨大な入り口の中を覗き込みながら中に入っていくと、得も言われぬ香の良い薫りがした。

「神様にお目通りする前に禊ぎをせねばならん。俗世の穢れを落とすのじゃ」

「ちょうどシャワーを浴びたいと思っていたところよ」

「さあ、一花はこっちへ、お主は向こうじゃ、迎えを別に寄こすから、そこで待っておれ」

「・・・」

 千鶴の扱いに苛立って腕を組み壁にもたれて不満そうな表情をしている諒を置いて、一花は社の更に奥へと千鶴に案内された。社の中は結構廊下が入り組んでいて、何度も角を曲がったので、もう一人では元の場所に戻れそうになかった。途中で千鶴と同様に鳥の羽根を持った小人たちと何度かすれ違った。彼及び彼女らは、雀や燕や鳩など、様々な種類の鳥の翼を持っているようだった。途中で中庭のような場所を通り、奥は更にいくつかの棟に分かれているようで、渡り廊下のひとつを進んでいくと小さな阿舎に着いた。その向こうに小さな滝が流れ落ちているのが見えた。

「さあ、ここで洗い清めるのじゃ」

「うん、わかったわ」

 一花は阿舎に入り、そこには他に人がいるでもなく千鶴だけだったので、臆面なく服を脱いだ。一花は壁際にあった小さな棚に、脱いだ服を丁寧に畳んで置いた。

「着替えの着物は用意しておる」

「そうなんだ」

「さ、奥へ参ろう」

「ええ」

 小さな滝から流れ落ちた水の溜まりの周りに、千鶴と同様の翼を持った小人が数人いて、蒲公英の綿帽子のようなものを、皆が手にふわふわと持っていた。

「ええっと、洗ってくれるってことかな?」

「うむ。じっとしておれば良い」

「じゃあ、お言葉に甘えて」

 小人たちは、一花に丁寧に一礼し、綿帽子を滝の水で少し湿らせ、ぱたぱたと一花に滴を振りまくようにし、そのあと乾いた綿帽子に新しく持ち直し、一花の身体を拭き始めた。それは心地よかったが、少しくすぐったかった。諒も同じことをされているのかと一花は想像し、困惑した諒の顔を思い浮かべると可笑しかった。一花はそれほど疲れてはいなかったが、その水を浴びると不思議と力が溢れてくるような感覚を覚えた。滝の水で清められた後、用意された白い着物の上に、紫の下地に質素だが綺麗な刺繍が施された羽織りを着た。

「さて、では食儀の間に移ろう」

「しょくぎ?」

「そうじゃ、身体の中も綺麗にせねばならんからな」

「ふーん」

 一花は来た方を戻って行き、中庭の辺りにあった一部屋へと連れられた。そこには既に諒が座して待っていた。諒も白い着物に男物の紫の羽織りを着ていた。

「おそろいね」

「いろいろ面倒だな」

「まあまあ」

「では、すぐに用意するから、ちょっと待っておれ」

 そう言って、千鶴は部屋を出て行った。

「ねえ、諒も滝の水で清められたんでしょう?」

「ああ」

「くすぐったくなかった?」

「ああ」

「良く我慢できたわね」

「仕方ないだろ」

「そうだけど」

 一花はくすくすと笑った。

「しかし、天津神のときは、こんな面倒なことはなかったが、やはり高位の神ということなのだろうな」

「でも何かリラックスしてきちゃった」

「豪胆なのか、鈍感なのか、紙一重だな」

「あら、諒は緊張してるの?」

「そういう訳ではないが」

「なら、同じでしょ」

「・・・」

 程なくして千鶴が戻ってきた。あとから四人二組の小人がそれぞれ朱塗りの卓を捧げ持ってきて、諒と一花の前にそれを置いた。

「では、召し上がれ」

 卓の上に置かれた食器は、いずれも漆塗りであり金箔で図柄が施されていて、大層高価そうであったが、中身は炊いた米と具のない汁物、それと盃のみであった。

「質素ね。そういえば今朝から何も口にしてなかったわ。特におなかが減っているわけじゃないけど。これはお酒?」

 一花は盃を指して千鶴を見た。

「そうじゃ、神饌のお神酒じゃ、これはの儀といって、神様が与えて下さった食事で、身体の中を清めるのじゃ」

「未成年だけど、儀式だし、ま、いっか」

 一花と諒は、黙って有り難くいただいた。滝の水で清めてもらった時と同様に、不思議と身体の中に力が漲るのを彼らは感じていた。

「さて、では、神様にお目通りいただこう」

 一花らは部屋を出て、また入り組んだ廊下を歩いた。外からの見た目どおり、中はかなり広いので、彼らはまた、角を何度も曲りながら結構な距離を歩かねばならなかった。やがて廊下の突き当たりに、巨大な両開きの扉が現れた。その扉は金と銀で装飾が施されており、一花はどこかで見たような模様だと思ったが、それは八咫鏡の裏の模様によく似ていると思い至った。

「さて、ここじゃ。しばし待て」

 千鶴は空飛ぶ白い鯨を呼んだ時に吹いた横笛を取り出し、それを軽く吹き鳴らした。すると扉は音を立ててゆっくりと内側に開き始めた。

 千鶴は小声で二人に耳打ちをした。

「よし、入れ。くれぐれも失礼のないようにな」

 その部屋は意外と質素な造りであった。上座には御簾が掛けられており、さらにその奥に、巨大な人影が座しているのが遠くからでも見て取れた。そして、その周りには、例の千鶴と同じような見た目の翼を持った小人たちが、はたはたと立ち働いているようであった。また、御簾の前には、昔の公家風の黒装束の出で立ちの者が幾人、いや幾柱か座していて、彼らはいずれも烏帽子から垂れ下がる黒い布で顔を隠していた。千鶴の先導で、そのあとを恐る恐る付いていき、千鶴が止まったところで、彼らも立ち止まった。

「常の神様、連れて参りました」

「ご苦労であった」

「ほれ、膝をついて挨拶せよ」

 千鶴に小声で促されて、彼らは膝をつき正座した。一花は丁寧に手をつき頭を垂れた。

「一条一花と申します」

「天野諒だ」

 諒のぶっきらぼうな物言いに、千鶴はきっと睨みつけたが、特に何も言いはしなかった。神々の方はといえば、別に意に介した様子もなかった。

「よくぞ参った」

 やはり声は男とも女とも付き難かった。姿形は、御簾の向こう側であり、やはり判別するのは難しかった。

「地上では、かのものどもが、永き眠りより覚め、再び跋扈し始めた。我らは憂いている。我が子らは、幾度となく、かのものどもと刃を交え、ある時は勝利して彼らを封じ、ある時は敗れて滅びの道を歩んだ。我らに時の概念はないが、地上では何万年、何十万年という単位で繰り返されてきた争いごと。そして再び、その時はきた。これより先、地上は闇による浸食を受け、このままでは、いずれ虚無の魔界と化すであろう。そなたには、それを防ぐための力を授けた。日月ノ書と八咫鏡は我らと繋がる鍵となろう。しばらく、この神界で技量を磨き、来るべき時に備えよ」

 一花も諒も、聞きたいことは山ほどあったはずだった。しかし、彼らは圧倒的な力で抑えつけられたかのように、一言も言葉を発することが出来ずにいた。最初は強気そうだった諒も、神が言葉を発し始めてからは様子が変わってしまっていた。それはまさに神の威力とも言うべき、畏怖せざるを得ない格の違う強大な気を、彼らはひしひしと感じ取っていた。

 

そして、彼らが何も口に出すことができないまま、神の間を辞したあと、国之常立神は誰に言うともなく話し始めた。

「憂うべきかな人の子らよ。如何に抗おうとも運命は避けられぬ。幾度となく繰り返された滅びの道を、また再び繰り返さねばならぬとは。たとえ闇を払ったとしても、光に呑み込まれる運命。・・・しかし、天津が共に現れたのは意外であった。此度は何か・・・、いや黄金律は変わらぬ・・・」

 そして神の間には静寂が訪れた。

 迫力に押されて退室せざるを得なかった一花と諒は、まだ呆然としていた。千鶴に先導され通された部屋で、大きな溜息をつき、ぐったりと座り込んでいたが、先に口を開いたのは一花だった。

「何かしらこの感じ?こんなに圧倒されたのは初めてだわ」

「・・・」

「何も聞けなかった、息をするのでさえ忘れてしまうほどだったわ」

「そうだな」

「まあ、でもいいわ」

「え?」

「だって、防ぐ力を与えてくれるって神様は仰っていたじゃない?」

「そうだな」

「つまり防げるってことよ」

「そうか?」

「そうよ」

「だが、勝利した時もあれば、滅んだ時もあるとも言っていたぞ」

「だから、私たちの努力次第ってことでしょ。だったら問題ないじゃない。頑張ればいいんだから」

「一理あるが、あくまで前向きな性格だな」

「何よ、こうゆう時は、気合が物を言うものよ」

「・・・」

「一花、しばし休んでから修行じゃ。人間は眠ったりしなければならんのじゃろう?還魂山の麓に鍛練に良い場所があるから、休息の後、案内しよう。寝所は隣の間に用意しておるからな。夕餉を持ってこさせるゆえ、ゆるりとして待っておれ」

「ありがと。千鶴ちゃん」

 千鶴が部屋を出て行ったあと、一花は隣の間を覗いた。

「・・・私は別に構わないのだけど、いちおう寝所は分けてもらいましょうね」

「当たり前だ」

 諒は頭の後ろで腕を組み、ごろんとその場に寝転がって、口をへの字に曲げ目を瞑った。

 神に謁見する前の食儀の際は非常に質素だったので、ここでの食事は期待できないと考えていたが、案に相違して夕餉は豪華であった。何で出来ているのかは全くわからなかったし、彼らが今まで見たことのないような料理ではあった。彼らは恐る恐るそれらを口に運んだが、いずれも美味であった。

「おいしい!千鶴ちゃん何これ?」

「ああ、それは蝶蛙の煮付けじゃ」

「え・・・、かえる?」

「そうじゃ、蝶の羽を持った蛙じゃ、ここに来る途中にも何匹か飛んでおったぞ」

「聞くのではなかったわ」

 一花は少し顔を青くしたが、食べてしまったものは仕方がないので、慌ててお茶を流し込み、そのあとは、これが何かを聞くのは止めたようだった。

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