第1話 始まりの朝
その日は、母の誕生日であり、彼女の七度目の誕生日でもあった。奇跡的に同じ日に子供を授かったことを、父母は大いに喜び、誕生日には何があろうとも、何かしらの行事を予定するのが、一条家にとっての年間の最大の楽しみのひとつであった。
会社社長を生業としている多忙な父も、仕事のスケジュールを調整し、この日は必ず休暇が取れるように計らっていた。彼女の父、一条一貴は、まだ四十歳を迎えたばかりだったが、三十代の頃から、コンツェルン一条グループの総裁として辣腕を振るっていた。これぐらいの年代になれば、腰回りも豊かになってきそうなものだが、すらりとしていて適度に筋肉がついた理想的な体型を維持していた。おそらく何かスポーツをしているか、ジムで鍛えているのだろう。さすがに目尻の皺は増えてきてはいたが、それは凛々しい顔立ちを柔和に見せるのに役立っていた。彼は、仕事には非常に厳しかったが、基本的には部下思いの温厚な性格で、誰からも尊崇されるようなカリスマ性を持った経営者だった。家庭では、元の温厚な性格が前面に出て、一人娘に対しては尚のこと、その溺愛ぶりは、妻にも窘められるほどだった。
彼女の母、一条恭花は、父より三歳年下なだけであったが、まだ二十代だと言っても十分通るような、若く美しい容姿をしていた。口元は微笑みを絶やさず、少し垂れ気味の目元が、おっとりした印象を与えている。肌は雪花石膏のように滑らかで白く、その白さとは対象的な美しい黒髪を綺麗に結っていた。
どうやら、彼女は父母双方の良い部分を受け継いだようだ。幼いながら、しっかりとした意志を感じさせる相貌と、人を惹きつける優美さを兼ね備えているように見受けられた。
そして、彼女の名前も父母双方から一字ずつを受け継いだものだった。
今年の誕生日の予定について、彼らは何ヵ月も前から計画を練っていた。特に今年は彼女の小学校入学もあったので、その記念も含めてと、父はいつにも増して張りきっているようだった。父は出張も多く、そうでなくとも帰りが遅いことが多かったので、家族全員が揃うという機会は、そう多くはなかったけれども、父が早くに帰宅した際の夕食時や、休日は、誕生日の計画についての話題が団欒に花を咲かせた。
「一花、どこか行きたいところはないか?一花は動物が好きだろう?一度、日帰りで行ったサファリパークはどうだ?父さんは、沖縄もいいかなと思っているのだが。一花は海や魚も好きだろう?海で泳いだりもできるし、ほら、これを見てごらん、水族館もある。それとも、こっちのテーマパークなんかはどうだ?新しいアトラクションが出来たそうだ。一花も、この映画は観たことあるだろう?なかなか人気があるようで、オープンしたばかりの時は四時間待ちだったらしい。一花は、まだ海外旅行はしたことないが、今回も長くは休めないので、ヨーロッパやアメリカは無理だが、アジアあたりなら行けそうだ。どうだ?」
父は、忙しい中でもリサーチは怠りない様子で、数種類のパンフレットを嬉々としてリビングのテーブルに広げ、一つ一つを示しながら、熱心に彼女に説明していた。
「うーん。いちかは、どれも行ってみたいなあ」
彼女は、そのパンフレットを見ているだけでも楽しげな様子で、目をきらきらと輝かせてパンフレットの写真に見入っていた。
「ふふ、そんなにたくさんあったら、迷ってしまうわね。一花」
母が、紅茶の入った趣味の良い柄のティーカップを、かわいらしい花柄の盆に乗せて運んできながら微笑みかけた。
「そうだな・・・。よし。じゃあ、絶対したいことを、それぞれ一つずつ叶えるというのはどうだ?」
「そうね。それはいいかも。一花は何したい?」
・・・・・・
結局、彼らは二泊三日で富士五湖へ旅行に行くことに決め、湖畔のリゾートホテルを予約した。昨年、彼女が補助輪なしの自転車に乗れるようになったので、湖の周りをサイクリングしたり、父の趣味の一つである釣りをしたり、母の希望の温泉に浸かったりといったような予定を組んだ。
そして、旅行当日、朝早くに父が運転する車で東京を出発し、途中で何度か休憩しながら、ちょうど昼ごろに目的地に着き、昼食は母が用意した弁当で軽く済ませ、その日は一花のたっての希望であった白鳥の形をしたボートに乗るなどして、夕方までゆったりとした時間を楽しんだ。夕食は、ホテルのフレンチレストランでディナーを予約していた。彼女は、まだ子供用のメニューであったが、雰囲気の良いレストランで、綺麗に盛り付けられた豪華な料理が、次々と目の前に運ばれてきて、そのたびに彼女は、嬉しそうに歓声をあげた。彼女が食べられそうなものは、母が別皿に取り分けてくれ、彼女は初めて口にする味に舌鼓を打ち、おいしいと素直な感想を述べた。
父は、上機嫌でワイングラスを傾けていた。母は、アルコールは苦手であったが、父が一杯だけと言ってワインを勧めたので、それを口にし、グラスの半分も飲んではいなかったが、すでに頬が少し赤らんでいるようだった。
前菜、スープ、魚介の主菜、肉料理とコースは進んでゆき、料理もあらかた済んだ頃、彼女は用意していた母へのプレゼントを、見えないように椅子の背もたれに置いていた大きめの手提げ袋から取り出した。彼女は、家族の絵を描いて、母への誕生日プレゼントとして渡そうと準備していたのだ。
彼女は席を立ち、嬉しそうな笑みを見せながら、母の元に歩み寄った。
「お母さま、おたんじょうびおめでとう」
彼女は、後ろ手に持っていた絵を母に差し出した。
「まあ、一花、ありがとう」
母は、くるくると巻いて赤いリボンで止めた画用紙を、脆い硝子細工ででもあるかのように大切そうに受け取った。
「見てもいいかしら?」
「うん。いいよ」
母は、丁寧にリボンを解き、画用紙をゆっくりと広げた。
「素敵。上手に描けたわね。ほら、あなたも見て下さいな。お父さまとお母さんと真中に一花。とってもうれしい。帰ったらお部屋に飾りましょうね」
そう言って、母は目を細め、彼女の頭を優しく撫でた。彼女も満面の笑みでそれに答えた。
そうするうちに、給仕係が食べ終わった皿をてきぱきと片付け、彼女の大好物である苺がふんだんに散りばめられたデコレーションケーキを、ワゴンに乗せて運んできた。ケーキの中央には白いチョコレートプレートが立ててあり、器用に『おたんじょうびおめでとう いちか きょうか』と書かれていて、その前には父と母と彼女を模した砂糖細工が乗っており、周りには七本のロウソクが立てられていた。
給仕係は、ワゴンからテーブルへケーキを慎重に移し、差してあったロウソクに火を灯した。周囲で忙しそうに立ち働いていた他の給仕係も、いつの間にか彼女のテーブルの周りに集まり、誕生日の歌を合唱し始めた。周囲の客も食事の手を止め、好意的に手拍子を送った。彼女も、目を輝かせながら、一緒に手拍子をしつつ元気に歌を歌った。
そこには幸福な空気が満ち溢れていた。
そして、母に促されて彼女がロウソクの火を吹き消そうとした、その時。
最初に、その異変に気付いたのは母だった。グラスに注がれた水の表面に俄かに波紋が広がり、テーブルに並んだ食器がカタカタと鳴り始めた。
母が小声で「地震?」と呟いた、その直後、ドーンという腹に響くような轟音とともに大きな縦揺れが起こり、続いて大きく横に揺れ始めた。
彼女は堪らず椅子から転げ落ち、床に投げ出された。広いレストランの高い天井には、所々に瀟洒なシャンデリアが吊るされていた。床に転んだ一花の真上にあったそれは、大きく左右に振れて、彼女が起き上がろうと、ふと天井を見上げた次の瞬間、唐突に落下してきた。それは一瞬の出来事だった。母が起き上がろうとしていた彼女を突き飛ばし、直後、駆け寄った父が母を庇うように抱きすくめた。
「ああっ!!」
一花は飛び起き、あたりを見回した。そして深くため息をついた。
壁掛け時計を見ると午前六時すぎ、その下に掛けてあるカレンダーを見ると、明日の日付に赤く丸がしてあった。
「あれから、明日で十年か・・・」
そう、あの事故から十年が経過し、一花は明日、十七歳になる。
明日は彼女と彼女の母親の誕生日であり、そして両親の命日でもあった。
一花は軽くシャワーを浴びた後、母が使っていた三面鏡に向かい、まだ少し濡れ、ぬばたまのように滑らかな漆黒の髪を梳っていた。
鏡に映る容貌は、まだ少しあどけなさを残してはいたが、大人の女性の色香を漂わせ始めていた。肌は透き通るような美しさで、顔の輪郭は細面であるが尖った感じは無く、眉は細めで額に綺麗な弧を描いている。目は大きめで鼻筋は通っていて形よく、小振りの唇はふっくらと艶がある。まさに美少女という形容が当て嵌まる容姿であろう。
ゆったりとした仕草で髪を整えながら、一花はふと違和感を覚えた。正面の鏡の左側が、鏡台から少し外れているように見えたのだ。不審に思い、外れている側をゆっくりと手前に引くと、あっさりとそれは扉のように開いた。鏡の裏は隠し棚になっていたのだ。
(今まで気付かなかったわ。なにかしら?)
隠し棚の上の段には、一冊の古めかしい装丁の本が、鏡台の背に持たせかけるように、そして下の段には紫のビロードの布が被せられた何かが、黒い漆塗りと思われる台座に乗せて、立てかけるようにして置いてあった。
一花はまず、本を手に取ってみた。ずしりと重く分厚いその本の皮表紙には、かすれた文字で「日月ノ書」と書かれていた。
「ひつきのしょ?」
一花は本を開き、ぱらぱらとページをめくってみたが、そこには記号のような見た事のない文字が並んでいて、全く読むことはできなかった。
小首を傾げ、もう一度ページを最初からめくったあと、やっぱりわからないというふうに、首を小さく左右に振り、本を鏡台の机上に置いた。今度はビロードの布に手を伸ばし、恐る恐るその布をとった。それは歴史の教科書や博物館で見た事のある銅鏡の様な見た目であった。しかし銅で出来ているようには見えず、磨いた白金のように美しかった。それにそれは大層小さく、掌に収まるぐらいの大きさだった。一花は、その鏡を取り上げ、しげしげと観察した。直径は一〇センチぐらいだろうか。表面は氷のようにつるつると滑らかで、自らの顔がくっきりと写った。裏面には質素だが見事な細工で模様が施されていて、中央に太陽と月を模したような図柄があった。状態は大変綺麗だが、それが大層古そうなものであることは何となく感じられた。しかし、それが何で、どうしてここにあるのかを示すようなヒントもなく、あきらめてそれを台座に戻そうとした。
そのとき、その台座の下に花柄の封筒があるのに気付いた。一花はいったん鏡を鏡台の机上に置いた本の上に重ねて置き、台座の下の封筒を手に取った。
封筒の表には「一花へ、母より」と書かれていた。
「お母さま?!」
早速、封筒を開けてみると、折り畳まれた便箋が入っていた。そこにはこのように書かれていた。
一花へ
あなたがこれを読んでいるということは、私はもうあなたの傍にはいないのかもしれません。
あなたが生まれたとき、私たちは心から幸せを感じました。でも同時に、あなたが背負うであろう苦難にとても心を痛めました。
何故そうなるのか、具体的に書くことができないことを許して下さい。私にもわからないのです。
お父さんと結婚して数ヵ月後、あなたを宿していることを知り、私たちは幸せに充ち溢れていました。そんなある日、体を悪くしていたお祖母様から病床で受け取ったのが、日月ノ書と表紙に書かれた何も書かれていない本と鏡でした。
お祖母様は、これは未来を示すもので、神様のお告げを写すものだから大事にしなさいと仰っていました。
私にはその意味はわかりませんでしたが、その時は、それは一条家に伝わる家宝のようなものかと思い、特に疑問は抱きませんでした。
そして、私にそれを託したその日に、お祖母様は旅立たれたのです。
その夜、私は夢を見ました。いえ、それが夢であったのか、現実だったのか、区別はつきませんでしたが。
床について、気付いた時には、私は、まるで雲の中のような濃い霧の中で佇んでいました。
しばらくすると、白い霧の上空から大きな光の塊がゆっくりと下りてきて、私の頭上の少し上で止まりました。
そして、そこから声、耳で聞き取れる音ではなく、直接頭の中に響くような声が聞こえてきたのです。
「我は天地を開闢せし国之常立神(くにのとこたちのかみ)、災厄の時は迫っている、そなたにしるしはなく、禍を退けることは叶わぬであろう。血の盟約を継ぎしものにて邂逅を果たし、これを討ち払え。時が来れば力を授けよう」
そう言葉を残して、光は下りてきたときと同じように、ゆっくりと上へと昇って行きました。
それからでした。日月ノ書と表紙に書かれた本には最初、何も書かれていなかったのですが、私は時折、気を失い、その本に何かを筆記するようになりました。
あなたも見たと思いますが、見知らぬ文字で、私もいろいろ調べてみましたが、結局解読することは叶いませんでした。
しかし、夢で聞いた言葉と、お祖母様が遺した言葉から察するのは、いずれ何らかの災厄が訪れ、私では力不足で、あなたがそれに関わりを持つだろうということでした。そして、この本と鏡は、恐らくその道標となる役割を果たすものであろうということでした。私は、意味もわからない文字を、その本に記すことしかできず、あなたと代わってあげることもできず、守ることもできないことを、とても無力に感じました。私は一条家へ嫁いだ身で、お祖母様は一条家の娘ですから、お祖母様は、何らかの事情をご存じだったのかもしれません。この一連の話は、一条家直系の女系にしか受け継がれていないようで、お父さんも、お祖母さまから、具体的には何も聞かされていないようでしたが、お祖母様のご指示を受けて、来るべき日のための準備は何かしらされていたようでした。
いずれにしても、私たちには、他にどうすることもできませんでした。頼りない母を許して下さい。
私もお父さんも、あなたのことを心から愛していますよ。
あなたの無事と幸福を願っています。
母より
一花は涙した。それは哀しい追憶のせいもあったかも知れないが、久しぶりに母に優しく抱き締められたような、そんな感覚だったのかもしれない。彼女の瞳は、悲哀を湛えている訳ではなく優しさを湛え、その涙は冷たくはなく温かかった。
一花は頬を伝う涙を指で拭い、もう一度、今度はゆっくりと咀嚼するように手紙を読み返した。
「でも、災厄って何?私に何ができると言うの?」
彼女は女子高生にすぎなかった。否、ただのどこにでもいる普通のという意味での一般的な女子高生でないことは、彼女自身も多少の自覚はあったが。
彼女が通う学校は国内でも有数の中高一貫の名門進学校であったが、その中でも彼女の成績は飛び抜けていて、定期テストでは、どの教科も常に最高位、全国模試でも上位十人には必ず入っていた。スポーツは何をやっても全国クラス、時間が無くて特定の部活動に入ることはしなかったが、大会の時期ともなると、あらゆる部活から助人を頼まれるほどだった。委員会に所属し、たいてい委員長職か何らかの役職を受け持っていたから、教師からの信任も厚かった。さらに容姿端麗となれば、もはや普通とはいえない。男子生徒からはもちろんのこと、女子生徒からも大変な人気であり、彼女が中学生になってからは、ファンクラブまで組織されるようになった。
彼らは花組と称して、定期的な会合を持ち、一花姫あるいは姫(と彼らは呼んでいた)の動向について、あれこれと四方山話をしては、一喜一憂することを至福としていた。花組の会員は、彼女の後輩達が数としては多かったが、同学年も、先輩でさえも参加していた。彼女は、しばしば、いわゆる花会に招かれたが、彼女自身はそうやって持て囃されるのは、気恥ずかしさから、なかなか気乗りしないので、おおよそ丁重に断っていて、稀に少し顔を出す程度に留めていた。しかし、申し訳なさから、花組に宛てて手紙を書いたり、花会に手作りの焼き菓子などの差し入れを提供したりしており、花組の面々はそれで十二分に満足だった。また、中でも花組を束ねる幹部クラスは七騎士と呼ばれ、さらに熱狂的であった。ちなみに現在、その七騎士を統括する騎士長は、同級で幼馴染の新宮麗華という女子で、彼女自身も、かなりの才色兼備であった。騎士は女子でなければならないという決まりは特になかったけれども、特定の男子を姫に近づけないようにするのも騎士の重要な務めであったので、毎年の選挙で選出される騎士長ならびに騎士は、ずっと女子のみで構成されていた。七騎士も当然ながら、文武業績、容姿などが大きな選出基準であったので、彼女らが揃うだけでも、とんでもない騒がれようだった。姫は絶対的な象徴として、七騎士を目当てに花組に参加する者もいるぐらいだった。七騎士の中でも新宮麗華は、もう花組結成以来五期連続で騎士長を務めており、花組の中で圧倒的な支持を得ていた。麗華は花組結成の立役者の一人だったということもあったが、彼女の姫への忠誠心は、誰もが認めるところであったし、また姫の側近として、彼女以上に絵になる存在は他にいなかった。麗華は常に姫の傍らにあり、何かと彼女の身の回りの世話をしたがったが、彼女が何でも出来てしまうので、実際のところは、ほとんど何も出来ることはなかった。お人好しな一花姫が、何かしら面倒事を抱えているのを見ては、「姫、そのようなことは私がします」と言って、何とか役に立とうと努力していた。しかし、普通に見れば、彼女らは仲の良い友達同士にしか見えず、一花自身も麗華のことは大事な幼馴染で一番の親友としか思ってはいなかった。
そして、世界的にも有名な大手商社の創業者を曾祖父にもち、親類縁者が経営する多くのグループ企業を所有する一条財閥の一人娘である彼女は、まさに絵に描いたような深窓の令嬢であった。
通常、これだけ恵まれた者に対しては、嫉妬を抱き、敵愾心を持つ者も現れそうであるが、彼女に関しては、そういったことが一切無かった。完璧すぎて対抗出来得る者がいなかったという事実もあるにせよ、彼女は、当然、そういった諸々のことを鼻にかけるようなことは決してしなかったし、誰とでも明るく気さくに接し、正義感が強く、困っている人がいれば助けずにはいられない性格で、従って誰もが彼女に感謝をし、心からの敬愛を惜しまなかった。
しかし、そうではあっても、それはあくまで現実的な環境であるに過ぎず、彼女自身は、いたって普通に学生生活を送っていたし、そのような特殊な超常的な事象に対応できるような、特別な能力があるというわけではなかった。
一花は、なおも母の手紙を眺めていたが、ふとため息をつき呟いた。
「これだけでは、本当に何もわからないわ」
そして、鏡台の机上に重ねて置いた本と鏡に再び目をやった。すると鏡がほんのりと光を帯びているように見えた。鏡を手に取ると淡い光は消えてしまったので、また鏡を本の上に戻すと、それは再び、うすく光を放ち始めた。今度は、本と鏡を重ねたまま手にとってみた。そうすると淡い光は消えず、鏡面に文字のようなものが浮かんでいるのが見えた。それは、本の中に書かれている記号のような文字を写しているようで、何を書いているのかは、やはり読めなかったが、読むのと同じような感覚で、頭の中に言葉が浮かんできた。それは、どこか途切れ途切れのイメージだったが、一花は、憑かれたように声に出してそれを読んだ。
「一火リの巻」(ヒカリの巻)第一帖-
日月ノ神ノ光ハ其ノ輝キヲエテイズレハ三千世界ヲ照ラスデアロウ・・・一火リト闇ハ対ヲ成シ虚無ニ・・・
「一火リの巻」(ヒカリの巻)第二帖-
天ノ日月ノ大神ノ覚醒ノノチ其ノ他ノ神世七代十二柱モ目覚メルデアロウ・・・
次々に浮かび上がっては消えていく文字を読み上げていくと、次第に鏡は、その光を増していき、すぐに目を開けていられないほど眩しくなった。一花は、堪らず目を閉じた。すると、頭の中に映像が浮かび上がってきた。最初は、ぼんやりとしていたが、序々に、はっきりと見えてきた。それは今朝見た夢の中のようだった。
(また、あの日の夢・・・?)
しかし、何かがいつもと違っていた。いつもは幼少のころの彼女の視点で夢を見ていたが、今はまるで宙に浮いているように上から俯瞰で見ているようだ。しかも、自分の意識はしっかりしている。
見ると、ちょうど、給仕係が誕生日ケーキを、そっとテーブルに置こうとしているところだった。
(もうすぐ、あの地震が来る・・・)
そして、記憶のとおり、誕生日の歌を歌い、幼い彼女が、ロウソクの火を吹き消そうとしたとき、地震が起きた。
しかし、幼い彼女が椅子から投げ出された直後、時が止まった!!
それを上から見ていた一花には、その夢と思われる映像が壊れたビデオテープのように再生が止まったように見えた。
「??」
ところが、よく見ると、止まった時の中で動いているものがある。彼女の母だ。そして、母が幼い彼女に駆け寄ろうとした時、唐突に母に声をかけたものがいた。
「お前は器か?」
声をかけたのは少年だった。十歳ぐらいだろうか。はっきりと顔は見えないが、幼い見た目の割に、凛とした佇まいと冷徹さを秘めた鋭さを感じる。
しかし、母は動転しており、一瞬だけ怪訝な表情をそちらに向けたが、今はそれどころではないとばかりに、それを無視して幼い彼女に駆け寄ろうとする。
だが、少年はさらに声をかけた。
「待て、僕は天津甕星の器・・・。お前は・・・」
しかし、今度は母は足を止めず、彼女の元まで一気に駆け寄り、幼い彼女を抱きしめた。
ところが、止まった時の中で、幼い彼女は身じろぎひとつせず、不安になった母は一心に彼女の名を呼んだ。
「いちか!いちか!」
動転していた母は、あたりを見渡し、やっと少しの冷静さを取り戻したように見え、事の異常さに気付いた。
「・・・どう、なっているの?」
周りにいた給仕係や他のテーブルで食事をしていた人々は、床に手をついたり、跪いたりしたまま硬直している。しかし、空気の流れは感じられた。先の揺れで割れた窓からは、風が吹き込んでいる様子が窺える。その証拠に、割れた窓からはヒューという風の音が聞こえ、窓際のテーブルにかけられたクロスは風でバタバタとはためいていた。
先程の少年は、落ち着いた様子で、気長に先の質問の答えを待っているとでもいうように、少し離れて立っていた場所からは動いておらず、じっと母と幼い彼女の方を見ていたが、不意に窓があった方を振り返った。レストランの窓は、景色が良く見えるように、ほぼ全面ガラス張りのような構造になっていたが、さっきの最初の大きな縦揺れで割れ、完全に砕け散っていた。
「アガレス・・・」
少年は、そう言ったように聞こえた。少年が見ている方向、そこには一人の老紳士が立っていた。いや浮いていた。
否、老人に見えたが、それは彼の髪が白髪だったからだ。良く見ると顔は皺ひとつなくつるりとしていて、かなり若いようにも見える。英国紳士風の装いをした白髪の男は、亀を逆さにしたように見える平らな円盤状のものに乗って窓の外を浮遊し、肩の下あたりまで伸ばした白髪を風になびかせていた。その左肩には大きな鷹がとまっており、右手には意匠を凝らした杖を携えていた。一見、品の良さそうに見えるその男は、だが、口元に酷薄そうな笑みを浮かべていた。
少年は、そちらの方へゆっくりとした足取りで歩み寄り、何か男と言葉を交わしているようであったが、風の音で何を話しているのかは聞こえなかった。
やがて、その男は、持っていた杖を振りかざしたように見えた。その時、再び時が動き出した。
まばゆい青い光球が、杖の先からいくつか発せられ、そのうちのひとつが幼い彼女とその母に向かって、他のひとつが、その頭上にあったシャンデリアに向かって飛来した。
母は本能的に危険を察知し、幼い彼女を押しのけ、飛来する光球を遮る位置に両手を広げて立った。光球は母にぶつかり、衝撃で倒れかかった母を駆け寄った父が抱き止めた。同時に放たれたもうひとつの光球は、シャンデリアにぶつかり、その衝撃で落下してきた。それは避けようもない一瞬だった。
そして、あたりに静寂が訪れ、いつのまにか、白髪の男と少年の姿は消えていた。
「お母さま!お父さま!!」
一花は、それが過去の出来事であるとわかってはいても、叫ばずにはいられなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます