第2話 『獅子の海(lion_of_the_sea)』-1-

 風が心地よかった。

 暖かな陽射しの中に、春のにおいがする。それが嬉しくて、自然と笑みがこぼれる。

 バサリと、一つ、洗濯物を翻す。

 真っ白なシーツは太陽の光を浴びて、こちらも嬉しそうにキラキラと輝いた。

 穏やかな昼の一時。

 だがその時、天高く鳥の鳴き声がした。

 それに空を仰いだ。

「……ルカ」

 2、3度、ピュルリと声がして、空から一羽の鳩が現れた。

 そしてその足にくくりつけられた物を見て、ふっとその顔から笑みが消えた。

 風は心地いい。

 けれどもそれは、ほんの数分前とは別のものに思える。

 もう一度、空を仰いだ。

 そして、陽射しに向かって歩き出した。




  2


 翌朝。

 食堂の隅で、眠気覚ましの珈琲コーヒーを飲んでいると、たかきがフラフラとした足取りで現れた。

「おはよーさん」

 瑛己えいきは、ふっと顔を上げると、「ああ」と小さく返事をした。

「……あぅ……何か、ちょーし悪いわ」

 らしくなく神妙な様子に、瑛己は一つ瞬きをして、「二日酔いか?」と尋ねた。

 結局昨夜、飛の〝空戦自論〟のようなものを延々と聞かされ……日付が変わってしばらく、瑛己は酒場に居座る事になった。

 「聖さんも疲れているんだから」と秀一が無理になだめすかして宿舎へ引っ張っていってくれたからよかったものの。秀一がいなかったら、下手したら、朝までだって付き合わされたかもしれない。

「ちゃうちゃう。煙草がな、きれてもうた……一本めぐんで」

「悪い。俺は吸わない」

「煙草なしで、よう、素面しらふでおれるなぁ……秀坊もお前も、尊敬してまうわ」

「そりゃどうも」

 しゃーない、メシでも食うか……そう言って、背中を丸めて飛が立ち上がった時だった。

「飛! 聖さん!」

 人のまばらな食堂のテーブルの向こうから、秀一が手を振っていた。

 瑛己は返事の代わりに珈琲に口付けた。

 飛は大きく息を吐くと、「朝っぱらから元気やなぁ」、シッシッと手を振った。

 小走りで2人の元に駆け寄ると、

「飛、掲示板見た?」

 掲示板とは、宿舎と本塔を結ぶ連結部分に設置された、各隊の召集等の連絡事項が書かれたボードだ。関係者は朝一番に閲覧を義務付けられている物である。

 飛は「まだや。宿舎からここに直行したさかい」と言った。食堂は、本塔とは反対側に位置している。

 瑛己も首を横に振った。彼もまた、目覚めの珈琲を優先した。

 秀一はゴクリと唾を飲み込むと、声を低くしてこう言った。

「召集がかかってる。327飛空隊、0900時、第8会議室」

 その言葉に、飛は目をキラリと輝かせた。「それは!」

「作戦命令、か」

 飛は食堂のカウンターに飛びつくと、さっきまでの様子が嘘のように、朝から豪勢な注文を連呼した。

 瑛己はそれに軽く苦笑すると、自分は軽めの朝食を頼んだ。

 トーストとサラダ。昨日と同じメニューだった。


  ◇ ◇ ◇


「ん? 早いな」

 瑛己と飛、秀一の3人が、北塔2階の第8会議室の扉を開けた時、先客が1人いた。

 327飛空隊の一人、小暮 崇之(kogure_takayuki)。眼鏡をかけた、落ち着いた印象の男だった。

「早いっすね、小暮さん」

 飛が笑うと、小暮は読んでいた本を閉じ、薄く笑った。「お前らも」

「さては、早ってジッとしていられなかったか」

「……それは飛だけです」

 瑛己は溜め息混じりにそう言うと、手近にあった椅子に腰をかけた。

 それに、秀一がハハハと笑った。飛は「あったり前や、ジッとなんかしてられるか!」と、蹴飛ばすようにテーブルに足を組んで座った。

 しばらくして、同じく327のメンバーである短髪の男、元義 新(motoyosi_arata)がニヤニヤと笑いながら現れ、副隊長・風迫 ジンが仏頂面で現れた。

 最後に姿を見せた、隊長・磐木 徹志の後ろには、『湊』基地総監・白河 元康の姿があった。

 白河が上座に立った時、瑛己は飛の横顔をチラリと見て、こいつもたまには緊張するんだなと思った。

 長テーブルに、上座から白河、磐木、風迫と順に席につき、一番下座を秀一がとった。

「さて」

 総監・白河は柔らかな眼差しで、ゆっくりと全員を見回すと。

「今日集まってもらったのは、他でもない」

 第327飛空隊、作戦任務を命ずる―――。その言葉に、誰かがゴクリと唾を飲み込む音がした。




「明後日の早朝、『永瀬ながせ』から『明義みょうぎ』にかけて輸送艇が2機飛ぶ」

 白河はホワイトボードに貼られた地図を指しながら、ザッとまっすぐ経路を示した。

「そして今回は、その護衛の任を命ずる」

 『永瀬』基地は『みなと』より少し北にある基地だ。『明義』はさらにその北に位置するが、『永瀬』と『明義』の間にはガッと切り削られたように海がある。

 これを〝獅子ししの海〟と言う。

 長いな、と瑛己は思った。

 かつて彼がいた『笹川』から、この『湊』基地までの間には〝砂海〟と呼ばれる湾があった。

 これは、湾岸沿いに行っても4時間あれば行ける距離だ。

 だが……『永瀬』から『明義』にかけては、倍以上の距離がある上に、途中、広大な海を渡らなければならない。

 〝獅子の海〟は広い。

 瑛己は、胸に嫌な感覚を覚え、白河を見た。

 他の隊員も同じ事を思ったのか、顔を見合わせた。

 それに答えるように磐木が、白河に代わって重そうに口を開いた。

「今回の護衛の任務は、その輸送艇が狙われているという情報が入ったからだ」

「相手は?」

 訊いたのは、飛だった。

 磐木は飛を一瞥すると、低い声音でこう言った。

「【天賦(tenpu)】だ」

 ザワリと、空気がわなないた。




 【天賦】と呼ばれる空賊の事は、瑛己も噂に聞いた事があった。

 空の闇を支配する、翡翠ひすいの集団。

 その力は、空をはびこるすべての空賊の動きすら左右するといわれ、政府上層部が最も怖れている空賊だ。

 そして何より、その飛空技術は一流。単独の〝渡り鳥〟などを除けば、最も厄介な相手である。

 そしてその翡翠の集団をまとめるのが、

「で」風迫 ジンが、瞼を閉じたまま問い掛けた。

無凱むがいは、出ると?」

 無凱(mugai)。そう呼ばれる男である。

「それは未確認だ」

 答えたのは白河だった。

「【天賦】総統・無凱。彼が今回、出撃するか否かに関して、詳しい情報はない」

「だが、ここの所無凱が出たという話を聞きません」

 小暮が口を挟んだ。「今回の輸送艇の積荷は?」

「定期の衣料物資だ。『明義』を経由して、首都・『蒼光(saki)』へと運ばれる」

「ほな……【天賦】が狙うとしたら、やっぱり〝獅子の海〟か」

 『明義』から『蒼光さき』にかけては、山間を縫うため、飛行には向かない。

 となると〝獅子の海〟は絶好の空間となる。

「今回の作戦は、かなり重要な任務だ」

 白河が、珍しく眉間にしわを寄せた。「私も上から、かなりすっぱく言われてね」

「輸送艇を2機、無事に『明義』に送り届ける事。よろしく頼む」

「全力を尽します」

 磐木が敬礼した。

「うむ。私は諸君らの腕を信用している。―――だがくれぐれも気をつけて。無茶はするな」

 瑛己の隣に座る、一番無茶をしそうな男が、軽く頷いた。


  ◇ ◇ ◇


 白河が去り、残った327飛空隊のメンバーは、それぞれ色々な想いを胸に抱いていた。

「【天賦】か……また、厄介だな」

 最初に口を開いたのは小暮だった。

「まぁ、無凱次第だな」

 ジンが、ズボンから煙草を取り出し、磐木を向いた。

「今の所、奴が出る確率は?」

「五分と五分」

「フン……まぁ、出てきたら、その時はその時だが」

 元義 新がふっと、秀一を見た。

「相楽は、どう思うんだ?」

 その問いに、全員が一斉に秀一を見た。

 〝予言屋〟。彼がそう呼ばれているという事を、瑛己は昨日酒場でチラリと聞いた。

 何でも、何度か、彼が出撃前に言った事が当たったのだとか……ただ、詳しく聞く前に会がお開きになったので、それ以上の事はわからなかった。

 秀一は少し戸惑った様子で、ぎこちなく笑うと、「えと」

「……わかりません」

「わからない?」

「はい……何か、今回は、よくわからないんです」

 歯切れの悪い言葉に、瑛己以外の全員の顔が複雑な色を灯した。

「せやけど」

 ポリポリと頭を描きながら、飛が明後日を見た。「俺は、会うような気ぃがする」

「何たってうちの隊には、〝運命の女神に好かれた男〟が入ったし。―――なぁ、瑛己ぃ」

 トンと肩を叩かれ、瑛己は顔をしかめた。

 ……冗談じゃない。

 しかし、その飛のその言葉に一同は、納得の面持ちになった。

「確かに……」

 ちょっと待て。瑛己はとてつもなく嫌そうな顔をした。

 初日から空賊に遭い、昨日飛と空戦をしたと思った矢先、出動命令。相手はそれも、最も危険で厄介な空賊・【天賦】。この上、無凱と遭遇なんぞしようものなら……。

「瑛己、宿命やわ、これは」

 カカカと飛は笑った。

「お前は運がある。よかったやないか」

「……全然嬉しくない」

「なーに拗ねとん!! お前、初日っから空(ku_u)にうとって!! 文句言ったら、罰が当たるぞ!!」

「何だと!? 飛、今何て言った!?」

「それがさ、新さん、こいつ、ここにくる途中で―――」

 瑛己は、頭を抱えたい心境になった。

 罰が当たる? それならもう当たっているんじゃないのか?

 しかし、自分が一体何をしたというのか。瑛己は、騒ぎ立てる327飛空隊の連中を無視して、大きく溜め息を吐いた……。




「ええか、瑛己」

 仏頂面を浮べる瑛己に、飛は人差し指を立てて言った。

「翡翠の飛空艇が【天賦】や。やけどその中に、ひときわ輝く銀色の飛空艇がおったら。それが無凱や。絶対ちょっかい出したらアカン。とにかく逃げろ」

「……」

「下手に手ぇ出したら、即、あの世逝きや。それくらい、あいつの腕はハンパやない」

 何人も、あいつの手にかかってるからな……誰かがポツリと呟いた。

「ともかく。無凱がおったら、俺に任せ」

 得意顔でそう言う飛に、ジンが煙草を吹かしながらクッと笑った。

「バカが。飛、お前もだ。無凱に構うな」

 灰皿にグッと煙草を押し付けながら、抑揚のない声で、ジンは言った。

「無凱が出たら、俺と磐木隊長でる」

 飛は「ちぇっ」と口を尖らせたが、それ以上何も言わなかった。

 瑛己は飛のその態度に、少し驚いた。こいつの事だから、もう少し食い下がると思ったのだが……。

 【天賦】の無凱。

 その名を持つ飛空艇乗りに狙われて、無事に逃れた者はいないとか……かつて、討伐に当たった空軍部隊を、一人で20撃墜したとしたとか……そんな噂ならば聞いた事がある。

 だが実物は。一体どんな飛空艇乗りなんだろうか?

 そう思って、瑛己の脳裏を、白い飛空艇が掠めた。

「しかし、」

 その時、ふっと小暮が髪を掻き上げながら言った。

「定期の衣料物資か。一体なぜ、【天賦】はそんなものを狙うんだろう」

 そう言えば……と、秀一が口を開いた。

「変ですね。【天賦】は今まで、貨物船や輸送艇を狙ったりしてこなかった」

「ああ。政界や軍事関係、密輸、暗殺……奴らが動く時は決まって、何か大きな思惑がある時だ。例えて言うなら、世界を揺るがすような。何か大きな意図が、な」

「そういえば、白河総監は、やけに重要任務だと強調してたっけ」

 大して気のない様子で、新が呟いた。

「……」

 部屋が、静寂に包まれた。

 それを破ったのは、磐木隊長その人だった。「ともかく」

「今、我々に与えられた任務は、輸送艇の護衛だ。そしてそれを狙う者がいる。我々は、それが誰であろうと、輸送艇を無事に『明義』基地へ送り届けなければならない」

 それが、議論の終結の合図となった。

 それから、具体的な作戦等の打ち合わせとなった。が、瑛己はそれを、何か胸に言いようのないものを覚えながら……ぼんやりと聞いていた。


  ◇ ◇ ◇


 午前の会議を終え、会議室を出る時。瑛己は磐木に呼び止められた。

 今から総監の所へ行け。短く言うと、後は何も言わず、背中を見せた。

 何だろうか? 訝しがる瑛己に、横で聞いていた飛がなぜか面白そうにカカカと笑った。

「運命の女神が、まーた微笑んどるんちゃうか?」

 ……この上、どんな厄災があるというのか……気持ちの乗らないまま、瑛己は本塔へと向かった。

 総監の部屋を訪ねると、白河が相変わらず人の良さそうな笑顔で迎えてくれた。

「聖君、昨日の飛行見たよ」

 ……瑛己は内心、ギクリと思った。

「申し訳ありません」

「ん? 何を謝る?」

「……命令に反し、基地に迷惑をかけるような飛行をしてしまいました」

 すると、白河は大きく笑った。

「磐木に何か言われたのか? ハハハ……心配するな。磐木も若い頃は、大概無茶な事をした」

「……」

 砕けた口調でそう言う白河に、瑛己は少し戸惑いを覚えた。

 何と答えていいものかわからず、じっと彼を見た。すると、白河はスッと瞼を優しく細め、静かな口調でこう言った。

「327飛空隊のメンバーとはどうかね? 上手くやれそうか?」

「前途多難です」

 本音だった。それにまた、白河は笑った。

「奴らも悪い連中じゃない。君ならきっと、大丈夫だろう」

「……はぁ」

「それで、今回の作戦、出立は?」

「明日の午後、1400です」

「うむ。くれぐれも気をつけてな」

「……はい」

 白河は満足そうに笑うと、机の上にあった腕時計を取って、瑛己に渡した。

 そこには瑛己の名前と、出身、生年月日、そして『湊』空軍基地 第327飛空隊 『七ツ』所属と掘り込まれていた。

 これは、パイロットが配属と共に渡される物で、身分を証明するドッグタグの役割も担う物だった。

「期待している」

 瑛己は敬礼した。

「最善を尽します」

 そう言って、部屋を出た。


 ◇


 瑛己が去って、白河は静かに瞼を伏せた。そして、

「まさか、こんな日がこようとはな」

 軽く苦笑して、それから窓に目を向けた。

 青い空に雲が、波のように幾重にも重なり、伸びていた。

「あの目……お前によく似てる」

 意志の強さを現すような、燐とした光を持った目。そして、善も悪も、まっすぐに見晴かすような……あの瞳。

 白河は、同じ光を持った者の事を思い、小さく息を吐いた。

「聖……」

 その呟きは静かに、空に消えて行った。


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