第1話 『湊(minato)』-1-

 夕陽が、今日最後の光を灯し始めた。

 金色こんじきの光に、水滴を残した雨上がりの世界は、キラキラと輝きを増す。

 そこに働く者たちの横顔にも、今日一日に対する達成感のようなものが垣間見える。

 そんな彼らの横を、一人の男が通り抜けた。

 バシャリ

 まだ地面に残る水溜りを、気にした様子もなく大股に抜ける。

 と、男の歩調がふっと緩んだ。

 男はポケットに突っ込んでいた手を引っ張り出すと、懐から煙草を取り出した。

 そしてそれの前に立つと、口に咥え、ゆっくりとライターで火を点けた。

 男の吐く息が白い風となって空に溶けた。

「――ああ」

 そこにいた整備士の一人が男に目を止めた。

「これが、か?」

 男はふーっと息を吐きながら、目だけ整備士に向けた。

「情報早いな」

「ま、ね」

 煙草を咥えながら、男はカカカと笑った。

「にしても……随分のザマだな」

 男が言うと、整備士は苦笑するように眉をしかめた。「ああ」

「大したもんだぜ。雨の中、これでここまでくるなんてな」

 そう言って、整備士は目の前にある飛空艇をトンと叩いた。

 男は煙草を片手にゆっくりとその周りを一周した。

 その飛空艇はボロボロだった。

 あちこちに被弾の跡がある。着陸の時についたものだろうか、右の腹はザクリと黒くこすれ、まして前輪が一本吹っ飛んでいる。

「今度のは、やり手かもしれんぞ」

 整備士が、飛空艇を見つめる男に向かって、冗談とも真面目とも取れる言い方でそう言った。

「どうだろな」

 男は煙草を大きく吸い込むと、そこにポっと捨てた。

「まぁ、じきにわかるやろ」

 ジリリと足でもみ消すと、男はもう一度飛空艇を見た。

 飛空艇は夕陽を浴びて、不似合いなほど輝いていた。

 そしてそれを見つめる男の目も――。




  1


 ギシ、というきしんだ音のする扉を開けると、中から暖かい空気と賑やかな喧騒がもれてきた。

 思ったより広いな、そう思いながらグルリと店内を見回す。奥の片隅に空きがあるのを見つけると、ゴチャゴチャになったテーブルの隙間をぬうように抜けてそこへ向かった。

 酒場はよく賑わっていた。

 空軍の施設に近い所にあるだけあって、さすがに客はそれっぽい連中ばかりだ。

 どこかでガハハという威勢のいい笑い声がして、瑛己えいきはチラリとそちらを向きながら空いたテーブルに腰をかけた。

 と、店のバイトが注文を取りにやってきた。

麦酒ビールを」

 若いバイトの青年は、ぶっきらぼうに「お待ちください」と言って奥へ消えて行った。

 麦酒を待つ間、もう一度店内を見渡す。

 建物自体はシンプルだが、所々に古い写真や絵が飾られている。絵は飛空艇をモチーフにしたものが多いようだ。

 店の片隅にポツリと、ピアノが置いてあった。

 だが今は誰も使っていない……、店内を流れる音楽は、カウンターの脇に置いてあるジュークボックスから流れたものだった。

 先ほどのバイトが麦酒を持って現れた時、ふと、流れる音楽が変わった。

 瑛己はバイトに硬貨を渡しながら、ああ、と思った。

 昔有名だった歌手の歌だった。戦争に向かった恋人を待つ女性を歌ったものだ。

 瑛己はそれを聞きながら、麦酒に口をつけた。

 ゴクリと飲み込むと、それが喉を通って胃に落ちるのが妙にリアルに感じられた。

 少し胸がキリリと痛んだ。

 小さく一息吐くと、瑛己は頬杖をついた。

(……運がいい、か)

 つい先ほど自分が口にした言葉を思い出し、自嘲じみた苦笑をもらした。


 ◇


 あの後。

 雨の中、瑛己はどうにかこの基地にたどり着く事ができた。

 この『蒼国そうこく』、西の湾岸に位置する『みなと』第23空軍基地である。

 朝、ここより南東にある基地を出た瑛己は、『湊』基地を目指して飛んでいたのだが……。途中、空賊と鉢合わせした飛空艇は、雨が降り始めた時にはもう、ひどい有様となっていた。

 爆破・炎上こそ間逃れたものの、少しスピードを上げれば途端に安定を失う。両方の翼はフラフラと揺れるし、操縦桿を動かしてもロクに舵はいてくれない。いつ失墜してもおかしくないような状態だった。

 その上、雨である。

 基地が見えた時はホッとしたが、それも束の間の事だった。

 この状況で果たして上手く着地ができるのか。

 ギアは出たものの……瑛己は最悪を覚悟しながら滑走路に向かった。

 結果としてどうにか止まったものの、衝撃に飛空艇の足が一本吹っ飛んだ。瑛己自身に大した傷がなかったのは奇跡に近かったのかもしれない。

 何とか基地に着きとりあえず、『湊』空軍基地 総監・白河 元康(sirakawa_motoyasu)の元に案内されたわけだが。

「それは災難だったね」

 瑛己の話を聞いた白河は、溜め息混じりにそう言った。

 瑛己は何も答えなかった。ただじっと白河を見つめ、ゆっくりと瞬きをした。

 白河は、落ち着いた空気をまとった男だった。年は40半ばくらいだろうか。

「怪我がなかったのが何よりだよ」

 そう言って自分を見た白河の目が、とても優しくて。少し居心地の悪くなった瑛己は視線を外し、思わずポロリと言葉を漏らした。

「……運がよかっただけです」

「それもまた、一つ」

 白河はふっと微笑んだ。

「整備の者達が騒いでいたぞ。あんな状態で〝砂海すなうみ〟を越えてくるなんて……今度赴任してきたパイロットは、中々の凄腕ではないか、と」

「……」

 瑛己はもう一度、運がよかっただけですと呟いた。

 だが……麦酒にチビリと口をつけながら、瑛己は思った。

 本当に運がよかったら。そんな事にも気が付かず、今頃宿舎で横になっていた事だろう。

 総監室を出た瑛己は、受付まで戻ると、宿舎ではなく酒場の場所を訊いた。

 酒を入れたかったというのもあるが、喧騒の中に身を置きたかった。

 一人になりたくなかった。

 瑛己はふっと自分の手を見た。震えてなどいない。

 だけど瑛己は知っていた。背中が。心が。チリチリと鳴り続けているのを……。

「あの、」

 その時だった。

 瑛己はゆっくりと顔を上げた。するといつの間にか、自分の脇に立つ者がいた。

 白い長袖のカッターにジーパンという男が立っていた。歳は20前くらいだろうか……? 短く刈り込まれた黒髪。童顔に、人懐っこそうな笑顔が浮かんでいた。

「今日、『笹川』からみえた方ですよね?」

 『笹川』空軍基地は、瑛己がつい今朝方までいた所だった。瑛己は首を傾げた。「そうだけど」

「やっぱり! ―――あ、ここ座ってもいいですか?」

 瑛己が返事をする前に、青年はイスに腰掛けた。

 瑛己は青年を見るともなく見ながら、麦酒を飲んだ。

「僕は、相楽 秀一(sagara_syuiti)と言います。よろしくお願いします」

「……聖 瑛己だ」

 よろしく、そう呟いたとほとんど同時、相楽 秀一と名乗った青年はおもむろに身を乗り出した。そして、

「あの飛空艇は、あなたが運転していたのですか?」

 あの飛空艇……。その言葉に瑛己は苦笑した。

 なるほど、あの状態でこの基地に、胴体着陸同然で降り立ったのはかなり噂になっているらしい……さっきから感じる視線はその所為だったのか。

 何と答えるべきか。瑛己は一瞬考え込んだ。が「そうだけど」と普通に答える事にした。

 あの飛空艇ってどの飛空艇だ? そんな皮肉を咄嗟に言えないのが、聖 瑛己という青年だった。

 しかし簡単に返事をした瑛己に、秀一の方がかえって驚いた。

「やはり……」そう一度言葉を濁すと「……相手は?」

「黄土色の飛空艇、3機」

 瑛己はグイと麦酒を飲み干すと、バイトに追加を頼んだ。

「【海蛇】ですか……」

 よくご無事で、そんな言葉が童顔の青年の顔に過ぎった。

「奴らは、この辺りの空賊の中でも特に、空軍ぼくらを目の仇にしている所があります。遭遇した場合、ある程度の腕がない限り、無事に通らせてはもらえません」

「俺は何もしてない」

 秀一の目の浮かんだ何かしらの言葉を打ち消すように、瑛己はそう言った。

 運……つい口を出そうになった言葉を、眉をしかめて飲み込む。けれど別の言葉を探そうとしても、うまい言葉が思いつかなかった。

 やはり自分は運がよかったのだろうか? ふっと瑛己は目を伏せた。

 あの時……もし〝あれ〟が現れなかったら。

 自分は今、ノンキに音楽を聴きながら麦酒など飲んでいられただろうか……考えるまでもないか。

「白い鳥に助けられた」

 瑛己はポツリと呟いた。

「白い鳥……?」

 秀一は一瞬、不思議そうな顔をした。

 が次の瞬間。ハッと目を見開き、瑛己が思う所「面白いほどに」顔色を変えた。

「え……!? それは、まさか……!?」

 瑛己は2杯目の麦酒を飲み干した。

「空(ku_u)……!?」

 音楽がピタリと止んで、また新しい曲が流れ始める。


 ◇


 3杯目の麦酒を頼むか、少し悩んだがやめた。

 元々瑛己は、さほどアルコールに強くはない。

 代わりに水をもらうと、2杯続けて空にした。

「白い飛空艇……僕らはそれを、〝空(ku_u)〟と呼んでいます」

 瑛己はチラリと秀一を見て、「ああ」と小さく頷いた。

「〝彼〟は空賊のように徒党を組まず、単独で仕事を請負って飛ぶ……フリーの〝渡り鳥〟と呼ばれる飛行艇乗りです」

「……」

「〝渡り鳥〟にも様々な者がいます。伝言や運搬を専門に請負う者もいれば、護衛や殺人、空戦を専門にする者もいます。その中で、空(ku_u)と呼ばれる飛空艇乗りは、様々な仕事を受けて飛ぶようですが……〝彼〟に関しては謎が多く、わかっている事の方が少ないです」

「……」

「ただ、これだけは言える事。この空に飛ぶ数多くの飛空艇とその乗り手の中で、空(ku_u)と呼ばれる飛空艇乗りの飛空技術は、かなりのものだと言われています。目にした者は皆、それに思わず魅せられてしまうほどに」

「……」

「それがゆえに僕らの間で〝彼〟は、ある種の伝説であり……英雄……、憧れを抱く者は少なくありません。もちろんその逆も―――」

 瑛己は水に口をつけながら、ふっと煙草が吸いたいと思った。

 彼は普段煙草は吸わない。が、時々こう思う事がある。手持ち無沙汰な時……心が落ち着かない時とでもいうのだろうか。

(空(ku_u)……)

 秀一がこちらをじっと見ていた。彼が何を聞きたいのか、瑛己にはすぐわかった。

 だが彼はしばらく虚空を見つめると、静かに目を伏せた。そして、

「風だった」

「……?」

 空を駆け抜ける、一陣の白い風。

 そう思った……それ以外の言葉が、瑛己には思い浮かばなかった。

「そうですか……」

 秀一は溜め息を吐くようにそう言うと、ふっと苦笑をもらした。

「あいつがここにいたらよかったのに」

「あいつ……?」

 ええ! と秀一は笑った。

「自称・空戦マニア。あいつがいたらきっと、聖さんの話を、すっごい喜んで聞いたと思いますよ」

「……?」

「まったく、どこウロウロしてるんだろう? まぁ……遅かれ早かれなのですが……」

 独り言のように呟くと、秀一はふっと腕の時計を見て立ち上がった。「じゃぁ……僕はそろそろ失礼します」

「あ……、聖さん、もう配属は聞かれたのですか?」

「いや。明日の朝総監室にくるように言われた」

「そうですか。―――またお会いできる事を、楽しみにしています」

 意味ありげに笑うと、童顔の青年は小さく礼をして背中を向けた。

 瑛己はしばらくぼんやりと音楽を聴いていたが、10分も経たないうちに、彼も酒場の主人に礼を言って店を出た。


  ◇ ◇ ◇


 次の日。

 秀一の笑顔のワケはすぐにわかる事になった。

 朝一番、再び総監の部屋へと向かった瑛己は、そこで配属を言い渡された。

 『湊』第23空軍基地、第327空軍飛空隊・通称『七ツ(nanatu)』。それが、瑛己の配属先だった。

 総監室に入ると、優しく微笑む白河総監の前に、一人の男が立っていた。

 岩だ、と瑛己は思った。目の前に立つ厳格そうな男の第一印象は岩。そんな感じだった。

 それが、327飛空隊、隊長・磐木 徹志(iwaki_tetuji)だった。

 そして挨拶もそこそこに、磐木の背中についていった先。

 滑走路脇の格納庫の前、居並ぶ数人の男の中に 相楽 秀一の姿もあった。

 秀一は瑛己を見た途端パッと顔を輝かせると、隣に立っていた男の肩を叩いた。

「今日から隊に加わる事になった、聖 瑛己飛空兵だ」

 瑛己は形式どおりの挨拶をした。そして一人一人が自己紹介を始めたが……瑛己は結局、その隊が自分を入れて7人だという事、隊長が磐木という名前だという事、そして秀一が同じ隊にいるという事、そしてどいつもこいつも、一癖も二癖もありそうだという事。それだけしか頭に入らなかった。

 元々こういうのをパッと覚えるのが苦手でもある。まぁ、徐々に覚えていけばいいだろう……楽観的に思って、最後の一人の自己紹介を耳から流した。

「それで、やっぱりあのパイロットは? こいつだったんスか?」

 隊員の一人が磐木にそう話し掛けた。その物言いに、瑛己はチラリとこの岩のような隊長の顔を覗き見たが、彼は大して顔色を変えた様子もなく、「ああ」と低く答えただけだった。

 代わりに秀一が、「そうですよ!」と答えた。

 目を輝かせて瑛己と隊員を交互に見ると、秀一は「僕も見ましたけど、凄かったですよね!!」

「着陸だけじゃ何とも言えんなぁ」

 と秀一の隣に立つ男が、腕を組みながら言った。

 その男を見て、瑛己はふっと眉をしかめた。

 男はじっと瑛己を見ていた。

 歳は瑛己と同じくらいだろうか……? 明るく染めた髪に、ヒョロリとした体格。首に巻いた茜色のマフラーを服の中に入れずに背中に垂らしている。胸ポケットには赤のマルボロが、グシャリと押し込まれ半分顔を出していた。

 その目はまるで……品定めでもされているようだな、と瑛己は思った。

 そしてその奥には、明らかに、挑戦的な何かがある。

 まぁそれはそいつだけではない。全員が、同じような目で彼をじっと見ていたのだが―――。

「あんだけボコボコにされとんのや。相手は誰や?」

「【海蛇】だって。それも3機」

「なんだ、秀、妙に詳しいな」

「お生憎さま。昨日酒場でね」

「なにぃー? 抜け駆けとは、ええ度胸しとんな」

 マルボロの男は秀一を小突くように腕を上げたが、「わっ」と秀一の避ける方が早かった。

 別の隊員が、秀一の言葉に続いた。

「しかし、【海蛇】3機か……よく抜けたな」

「けど、それくらいじゃなきゃ、うちの隊は勤まらないんじゃねーの?」

「ハハ、確かに。何たって、最後の『七ツ』だからな」

 自分の周りで繰り広げられる会話を、枠の外で瑛己は、まるで他人事のように聞いていた。

「せや。どやろ、一度こいつの腕、試してみる必要あるんとちゃいますか?」

 マルボロの男が、グルリと隊員を見渡すようにそう言って人差し指を立てた。

「また、昇ったー落ちたー、じゃ話にならへん。こいつがどの程度使うか、いっぺん検証の必要アリ、ちゃいますかー?」

 その言葉に、格納庫の壁にもたれて今までまったく会話に参加しなかった男がククッと笑った。

 長めの髪を後ろで一つにしばり、両手をポケットに突っ込んでいる。ほつれて落ちた一束の前髪を振り払うと、ふっと顔を上げ、マルボロの男を見た。

 その目はまた、他のどの隊員とも違う色を灯していた。

 黒い一匹の野生の狼。瑛己の脳裏を一瞬、そんな言葉が過ぎった。

「見え透いてるぞ、たかき

「何がですー? ジンさん?」

 ジンと呼ばれたその男は、もう一度ククッと笑った。そして飛(たかき)と呼ばれたマルボロの男をヒタと向き、口の端を釣り上げるようにしてこう言った。

りたいだけだろ。お前が」

「……バレてんスか」

「バカが。見え見えだ。空戦マニアが」

 だが、とそこで言葉を切ると、男は瑛己を見、そして磐木を見た。「一理はあるが」

「……」

 磐木は何も言わなかった。ただじっと岩のように男を見据えると「うむ」と低く頷いた。

「決まりやな」

 マルボロの男はパチンと指を鳴らすと、「誰が行きます?」と隊員を見回した。

「面倒だ、お前行け」

「そうですか? 何か悪いなぁ」

「チッ、欠片も思ってないくせに」

「ジンさん、そら痛いわ」

 どうやら。

 瑛己は思った。こちらの意見と存在は完全に無視されて……どうも自分は、腕試しに借り出されるらしい。

 この隊がどういう隊なのかまだよくわからない。隊員たちがどういう連中かもよくわからない。

 だが……瑛己は思った。やはり自分はどう贔屓目ひいきめに見ても、運があるとは言えないようだ。

 一人静かに溜め息を吐く瑛己とは対照的に、マルボロの男はニヤリと笑って瑛己を見た。そして、「ほな」

「ドッグファイトと行こか?」


 ◇


 前途多難な幕開けだ。瑛己は空を仰いだ。



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