空-ku_u-

葵れい

プロローグ

 天を統べりし永久とわのものを、人は〝空〟と言う。

 そこに一つの青い物が、エンジン音をとどろかせ、けていた。

 快晴の空を思わせるような真っ青の機体。前方のプロペラは快調に、時折その回転を楽しむように色を変える。

 人が造りし空を翔ける馬、飛空艇ひくうていと言う。

 飛空艇は一定のスピードを保ちながら、まっすぐ北へと飛んでいた。

 そのエンジン音の向こうから、かすかに別の音が聞こえる。

 パイロットが小さく、歌を口ずさんでいた。

 時折リズムに合わせるように、操縦桿を握る指が軽く振られる。

 彼の名前は、聖 瑛己(hijiri_eiki)と言う。

 歳は、先月21を迎えたばかりだ。

 ゴーグルからのぞく瞳は、精悍な輝きを灯している。

 彼は歌を口ずさみながら、チラと右を伺った。

 薄い色の空に、雲が緩やかに広がっている。

(降るな)

 歌を止め、瑛己はそう思った。

 今はまだ青が見える……だが、直に雨が降るだろう。

(少し急ぐか)

 のんびり遊覧飛行を楽しむ暇はなさそうだ……瑛己は小さく苦笑して速度を上げた。

 その時だった。耳の端をかすかに妙な音がかすめた。咄嗟に瑛己は操縦桿を前に倒す。

 次の瞬間、ドドドドという銃撃音が鳴り響く。

 瑛己は後方を振り返り、左手でエンジンを切り替えた。

 急降下からひねるように機体を持ち上げ、相手を確認する。

(空賊か)

 瑛己は軽く舌打ちした。

 ――空にある闇の世界を翔ける者達――それを〝空賊〟と呼ぶ。

 生業なりわいは様々だ。貨物船や客船を襲い金品を強奪する事を糧とする者もいれば、人さらい、殺戮……賑やかな街の裏側に闇の社会があるように、空にもまたそういう世界と、そこで生きる者がいた。

 彼らに共通している事は一つ。青塗りの戦闘艇を前にした時、銃口を向けずにはいられないという事。

 追いかけてくる黄土色の飛空艇――記憶の海をひっくり返す。あれが空賊【海蛇】か。

 事前のブリーフィングでも鉢合わせの可能性は説かれた。ただ、

(予定航路より、少し北にずれたか)

 陸地の方角を確認しながら、瑛己は相手の数を数える。

 1、2……3。

 最後のカウントをした瞬間、瞳の端に閃光が走った。

 操縦桿を横に倒す。今さっきまで翼のあった場所、機体の真横を、弾丸が滑るように飛んで行く。

 弾が起こした風の渦を、両手で強く操縦桿を傾けて突き抜ける。

 背後を映すミラーに、黄土色の機体が躍る。真後ろにピタリと着かれた。敵の後ろを取る事は空戦の基本だ。

 ドドドド

 エンジンを目いっぱいに吹かしながら、操縦桿を手前に引いて避ける。

 と、そこへ別方向からも銃弾が飛んできた。

「チッ」

 瑛己は操縦桿を持つ手に力を込めた。

(抜けられるか?)

 瑛己は自分自身に問い掛けた。

「知るか」

 襲い掛かる銃撃を、回転でかわす。

 ガタガタガタと、飛空艇が無茶な運転に悲鳴を上げる。

 上と下が一瞬、わからなくなるような錯覚に襲われながら、瑛己は片目を細めた。

 弾は満タンだ。

 軍手の内側の手に、汗がジワリとにじむ。

 操縦桿をグッと手前に引く。上に向かってひねりを入れながら、左に半回転を入れる。

 回転の終点と、黄土の機体の背面が一瞬重なった。逃さず、瑛己は操縦桿を左にひねった。

 一機の背面を取る。

 別の二機の事を考えれば、悠長にしている暇はなかった。

 瑛己は射撃ボタンに指をかけた。

 指を、そのまま押し込――。

「……ッ!」

 次の瞬間、正面から閃光が走った。瑛己は慌てて左へ避けたが、見越したように横から銃撃が降った。

 慌て回避を試みるが避けきれなかった。ガツンガツンと機体を掠める、激しく上下に揺すぶられる。

 ハンドルが言う事を利かない。予想以上にふらつく機体と、操縦桿の手ごたえの軽さに、瑛己はゴクリと唾を飲み込んだ。

(まずい)

 背筋に冷たいものを感じた。

 だが――その時だった。

 何かが視界の隅にキラリと光った。そして、黄土の機体が爆発音と共に炎を上げた。

 一体何だ、と振り返って見ようと思ったが、それより先に敵の機体が目に映った。

 まっすぐ銃口を向けている。やられる――そう思った時。

 ドドドドという閃光が、空から礫のように降りそそいだ。

 不自然に黄土の機体が傾いた。

そして、爆発が起こる一瞬前。サッと銃弾のごとく、白い風が、黄土の機体の真横をすり抜けた。

 赤い閃光と爆発が起こる中、瑛己はゴーグルを掴み、剥ぐように脱ぎ捨てた

 あれは――まだ敵は残っている、けれど構わず、瑛己は空を見渡した。

 生暖かい風が吹いて、瑛己は天を仰いだ。どこかで最後の爆発音がする。

 雲が先ほどよりずっと濃くなっていた。頬を撫でる風の中に、焦げ臭さと、雨の臭いも混ざり始めている。

 太陽が灰色の雲に覆い隠されようとしている中、抵抗するかのように輝いた一瞬の光の中に。

 白い翼を、瑛己は見た。

 パラと、雨が降り始めた。

 だが、瑛己はしばらく、放心したように空を見つめていた。

「空(ku_u)……」

 雨音が機体に当たる音が、静かな空に、やけに大きく鳴り響くようだった。


 ◇


 天を統べりし永久のものを、人は空と言う。

 そしてこれは、空を愛し、戦い、駆け抜けた、

 飛空艇乗りの物語である。

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